ガコンと音を立てジュースが出てくる。それを取ってまたお金を入れようとした時、周囲の人の気配が消えたのを感じた。
(何……!?)
無音だった。心臓の鼓動だけがドクン、ドクンと強く胸を震わせる。その鼓動だけが命綱の様な気がした。
足元が安定しなくなる程の嫌な感覚だった。心臓だけを取り出して目の前に突き出された様な感覚。何時でも殺せると言われている様な、死刑執行を言い渡されたまま放置されてる様な、死の足跡が聞こえそうな感覚だった。
そんな碌でも無い感覚ももう慣れきってしまった。
(……それは違うな)
何をとは言わないが、諦めてしまったのかもしれない。今はもう不快感も恐怖も何も感じない。
「随分と仲よさげだったけど……。わかってるのかい?自分の立場を」
私の背後に誰かいる。何時もの事だ。
「あの方」に都合の悪い事をしかける、または思う度にコイツは現れる。
男だか女だかもわからない、口調も一人称も安定しない。私はコイツの顔を見たこともない。今目の前にある自販機のプラスチック面に写るのは私の顔だけだ。
廊下の曲がり角に設置された窓ガラスからは遅い春の夕暮れが射し込んでいる。これも何時もの事だ。
コイツと話す時は何時も夕暮れになる。夜でも朝でもお構い無くだ。
「……自分の立場なんて、嫌という程わかってるよ」
「そう。それなら良いんだ。僕はただ忠告しにきただけだから」
何が忠告だ、警告の間違いだろう。内心でそう吐き捨てた。
「俺は君が暴走しなければそれで良いつってんだよ」
「「あの方」の害になっても?」
言った瞬間だけは良く言ったぞという称賛で溢れかえっていた脳内だったが、すぐに後悔した。
物凄い殺気が背後から飛んできたから。
「貴女が「あの方」の害になるのなら、私は今此処で貴女を消すだけだけれど、良いのかしら?」
「……ハッ、やりなよ。やれるものならさ」
(頼む立ち去れお願いだからホントマジで帰って下さいお願いします)
外弁慶。その言葉が良く似合う状況だったと後に思うが、今は本当に命の危機を感じていた。
「受け入れるな。拒絶しろ。己だけを守れ。僕が言いたいのはそれだけだよ」
(どうして)
最初からわからなかったんだ。何で今コイツが現れたのか。何が危険視されたのか。
「……礼司がそんなに、危険人物だとでも?」
充満する殺気の中で声を絞り出した。
背後の気配が笑った気がした。
「宗像礼司だけじゃない。君と親しい人間は全て危険人物さ。君のトリガーを引きかねない、ね」
(……!)
目を見開いた。そして全て理解した。なんて滑稽なんだ。なんて、馬鹿らしい。
「私の力は私の為に使う!私はただ、生きたかっただけだ!!」
家族がいて、友達がいて、学校に行って、帰りに寄り道して、家族と一緒に食事して。
そんなごく普通の生活をおくりたかった。
私の望みはただそれだけだった。
それで十分だったんだ。
「君はまだそんな有りもしない事を望んでいるのかい」
「っ消えろ!!」
振り払おうと後ろを向いたときには誰もいなかった。
どこからか教師達の声がする。昼休みが終わり、授業が始まったのか。
夕暮れだった空は真っ青で雲ひとつ無い。
それで少し落ち着けた。
無駄になるかもしれない。そう思いながらもお金をいれてお茶のボタンを押す。
取り出そうと手を伸ばしたとき、奴の声が蘇った。
『君はまだそんな有りもしない事を望んでいるのかい』
悔しかった。本心を全て見透かされた事が。それを嘲笑われた事が。
(憧れるくらい、良いじゃないか)
有り得ないなんてわかってる。それでも私は未練がましく此処にいる。
でも辛いだけじゃなかった。
私は夢の中にいると錯覚して、幸せになりたかったんだ。
お茶を取って屋上までの階段を駆け上がる。
何でもいい。誰かと話したかった。独りだと思いたくなかった。
いないで欲しい。いて欲しい。いる訳が無い。だって彼は生徒会長だし、授業をサボったりなんか多分しない。それでもいて欲しいという矛盾した考えが浮かぶ。
バンと大きく音を立てて屋上に駆け込む。
「そんなに慌ててどうしました」
「れい、し……?」
いた。いてくれた。
礼司は顔には出してないけど驚いた様に私の方へ来た。
「教室、戻ったかと、思った。授業、始まってる、から……」
息も絶え絶えに言ったら彼は思い出したように言った。
「ああ、一度教室に戻ろうとは思いましたけどね」
私の手のお茶を取って言った。
「少し喉が渇いていたもので。たまにはサボりというのも良いか、と」
ありがとうございました、そう言って礼司はまた元いた場所に座った。
なんて事の無い彼の対応にあいつに乱された心がやっと落ち着けた。
「……は。」
少しだけ救われた気がした。何もしなくてくれて、嬉しかったんだ。
「素直に先輩を待ってましたって言えないのかお前は!」
「私が待っていたのはあなたではありませんので」
「ホンット生意気だねえ君は!」
彼との繋がりはこの屋上だけの希薄なものだった。
まだ戻れる。
私は救われた。でも巻き込む訳にはいかない。
また声が響いた。
(分かってるよ)
「あの方」には、黄金の王には害をなさない。
この時私は初めて心からただの人間になろうと思った。
私が高校卒業直前の2月のことだった。