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「#エロ」のBL小説を読む
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*は注意


戦闘描写有り
長い



(……お腹空いた)

中心街から少し離れた高い建物も少ない郊外の住宅街。人気も少なく、まだ日も高いそこに、迷子の少女が一人歩いていた。
お使い帰りだろうか。右手には食料がたくさん入ったスーパーのビニール袋を破けた時の為の布地のエコバッグの中に入れている。

(……食べちゃダメだ。食べちゃダメだ)

バッグの中の食料を見て更に腹を空かせるが、これは自分の物ではないと諌めた。今日と明日にかけて行われる宴の為の食材なのだ。食べるわけにはいかない。

(早く帰らなきゃ)

家に着けば奴良組が、家族が美味しいご飯を作ってくれる。
空腹と寒さと孤独感に折れそうな心を何とか保ち、少女はその家とは全くの逆方向へ歩を進めた。



*



同時刻、奴良組本家

「オイ、そっちいたか!?」
「ダメだ、スーパーの周りにはいねえ!」
「あんにゃろ、一体何処まで行きやがったんだ!」
「無駄に体力はあるからなあ……」
「言ってる場合か!もう一度捜すぞ!!」

山ン本の戦いが終わり、数日後。
浮世絵町、奴良組本家は現在大変な騒々しさだった。いや、いつもうるさいのだが、今は騒がしさに加えて焦燥感も感じられた。

「……どうしたんだろう、皆」
「さ、さあ……誰かを捜しているみたいですけど」

そんな中で開いた門の前に立ち尽くす男女二人がいた。冬用の制服を着た学校帰りの彼らは、この奴良組の若頭、奴良リクオとその側近の及川つらら(雪女)である。

「あ、リクオ様、雪女帰ってたの!?」

大量の食材が入った籠を抱えて縁側を早歩きしていた毛倡妓がその場から声をかける。リクオと雪女は縁側まで駆け寄ってそれに答えた。

「今帰ったところよ。それよりも何?この騒ぎ。あとその食材。今日は宴会も無いでしょう?」
「違う違う。うちの子が一人いなくなっちゃったのよ」
「え、誰が!?」

声を上げたのはリクオだった。この屋敷にいるのは殆どが人間ではなく妖怪だ。外に出たら何が起こるかわからない。
ただでさえ山ン本の件の直後であり、その上御門院の事もある。もしかしたら奴らに滅せられるかもしれない。

「名前です。全く、早く見つけないと大変な事に」
「「え?」」

二人揃えて首を傾げて言った。
彼らの知っている名前は確かにかなりの古株ではあるらしいが、見た目は完全に無邪気で小さな幼い少女であり、いつも何かを食べているといったイメージを持つ。畏もそれ程大きい訳でもなく、寧ろ弱い方に属する守る側の妖だった。
確かに心配だが騒ぎ方がおかしい。屋敷の者達の騒ぎ様は早く見つけないと名前が、天変地異か何かを起こすとでも言う様だった。

「二人が知らんのも無理もない。ここ十数年は何も起こさなかったからのう、名前も」

疲れた様な声をして3人の後ろに鴉天狗が浮かんでいた。

「どういうこと?」

首を傾げる雪女の横でリクオが眉を寄せて言った。
知らない、ということは、名前にはとんでもない秘密でもあるということだろうか。
鴉天狗はコホンとひとつ咳払いをしてから説明を始めた。

「実は名前は、飢饉で死んだ子供の飢えやら怨念やらが集まって生まれた妖怪でしてな……」



*



同時刻、駅前。
中央にタクシーや車が飛び交い、ビルやデパートが並ぶ大通りにその少女はいた。
それが迷子の果てなのか、妖怪としての本能なのかは分からないが、その場に居合わせた人間にとっては不幸以外の何物でもなかった。

(お腹空いた)

迷子の少女、名前はどこか虚ろな様子で歩いていた。持っていた筈のバックは無く、足元はふらつき、その目はもう景色を写しておらず、脳裏に流れるのは自分の「基」となった子供らの記憶。

(お腹空いたよ)

白い着物の襟元から覗く肌はピキピキとひび割れた音を出しながら真っ黒に侵食されていき、もはや普段の少女としての「名前」は何処にも無く、ただ妖怪としての本能を剥き出しにして大衆の世界の隙間を歩いていた。

(お父さん)

群衆は誰一人として彼女に気付かない。眼を向けることも無い。
しかし彼女は確実に、彼らの「厄」へと変化していっていた。

(お母さん)

―――実は名前は飢饉で死んだ子供の飢えやら怨念やらが集まって生まれた妖怪でしてな

(お腹空いたよお)

―――ある程度食事を取らない、つまり空腹になると、変化を始め

(たべたいよお)

―――周囲の物を、人か妖かも、食べられるかどうかも関係無く

(…………たすけて)

―――全て、食らい尽くしてしまうのです

(くろーまる)

一人の男を思い浮かべたのを最後に、彼女の意識は途絶えた。
名前の口が裂けていく。
背中はまるで虫の羽化の様に破け、中からは黒い体がメキメキと音を立てて現れる。
それはもう既に人の形は留めておらず、巨大なトカゲの様な姿で身体は大量の粘液に包まれている。それが滴り落ちた地面は瞬時にジュワアアと煙を出して溶解し、人一人は簡単に飲み込めそうな口からは長く紅い舌を覗かせている。白目の無い眼は黒の表皮に完全に溶け込み見えなくなっている。他の全てを捨て去り、完全に「喰らう」為に特化した身体だった。



*



「大変じゃないか!!」
「待ちなされ!」

話を聞くや否や走りだそうとするリクオを鴉天狗が襟を掴んで止める。

「鴉天狗、何で止めるんだよ!?」
「名前が組を出てからもうすぐ8時間近くになりますぞ!恐らくは既に変化は始まってる物と見られます!!」
「だったら尚更じゃないか!」
「大丈夫ですって!倅達が、黒羽丸が先程捜索に出ましたので!!」



*



風を切りながら闇が差し始める逢魔ヶ刻の街で突如強まった妖の畏を確認した。チッと一つ舌打ちをしてカラスを呼ぶ。

「お前は報告に行ってくれ」

やってきた一羽のカラスにそう告げ、そのまま次の瞬間には更に加速してカラスを置き去りにした。ミシ、と錫杖が折れそうな音を立てるくらい強く握りしめる。
直ぐに視界で確認出来る様になったが、その時には既に変化が終わろうとしていた。
黒羽丸はまた間に合わなかったと悟る。
何としてでも避けたかった光景が目の前にあった。

(久しぶりだな)

名前の本性、飢餓の塊である人を喰らう姿はいつ見ても気分が悪くなる。
止められなかった自分への怒りが噴き出すからだ。

「アァァアァアアァアアアァァァァア!!!」

完全に変化を終えた名前は音にならない咆哮を放つと共に、上空の黒羽丸の畏は無視して手っ取り早く食べられる獲物を探し始める。
彼女が変化したのは人の多い駅前。当然、獲物には困らずに、近くにいた親子に目を付けてそちらへ右前脚を持って行くのが見えた。
子供を喰う気か。
そう気付いた瞬間、また更にスピードを上げた。

「名前、止めろ!!」

何も気付かずに母親と共に笑っている子供へ伸びる前脚を上から叩き斬る。
そのまま横へ回り込んで錫杖を縦薙ぎにし、道に駐車してあった無人のトラックへひっくり返す様に吹き飛ばした。
名前は仰向けに倒され、音を立てて凹む車体が酸の体液によって異臭を放ちながら溶けていく。

「何!?いきなり、ば、化け物が!」
「まさかまた妖怪の仕業か!?」

衝撃により畏を乱し、名前の姿を大衆の面前に晒しだす。
突如倒れ体液で溶解したトラックと異臭を放つ化け物の出現に、群集の目は否応無しに集まる。

「見えたのなら早く逃げろ!」

本来の鴉の姿をした黒羽丸の声に、先日の山ン本との人間を巻き込んだ戦いのお陰なのか、妖怪の危険性を知っている群集は野次馬も無く一斉に散っていく。
しかしこの一瞬、人間に集中を散らしたのが黒羽丸の仇となってしまった。
名前が体格に見合わぬ俊敏さで、そのトカゲの様な尾を振り回し黒羽丸を襲ったのだ。

「ガッ……!」

左から腹に食らった衝撃を流しきれずに、黒羽丸は突き破り建設中のビルの中へ飛ばされた。

(止めないと)

攻撃を喰らい、鉄板を突き破り、コンクリートの床に激突するコンマ数秒の間、黒羽丸はある約束を思い出していた。

(約束を、破ってしまう)

雨の中で全身を濡らしながらも、口元を消える事の無い憎悪が混じる血化粧で染めた少女の姿。
それだけは駄目だ。
身体が固い地面に着く直前、翼を大きく広げスピードを少しでも落とし、着地のタイミングに合わせて錫杖を叩きつけて激突の威力を殺す。
コンクリートの床に一直線の深いヒビを入れながら、背中にピタリと壁がぶつかる直前に身体は停止した。

「……っよし」

口からは血が流れていた。肋骨辺りもおそらく折れている。
けれど今の彼には関係無かった。
血の匂いも、酷く臭い空気も、今の黒羽丸を止める理由にはならなかった。
これ以上、誰一人として名前に喰わせる訳にはいかない。
守ると約束した。
自身でさえも制御できない力から、自身さえも蝕む力から、彼女の心を守ると、約束した。
だからこの程度で倒れる訳にはいかなかった。
もう一度翼を大きく広げ、最大速度で外へ飛び出した。






黒羽丸が出て来ないのを確認し、名前は逃げ遅れた人間を喰おうと残った脚を動かす。斬られた右前脚からは蔦、あるいは触手の様なものが絡み出ていて、歪ながらにも足の形を成形し始めていた。
しかしその脚を上げた瞬間に懐に黒い何かが入り込み、顎部分を勢いよく突き上げた。

「ガアァァア!!!」
「こっちだ」

名前の意識を人々から自身に向けさせる為に黒羽丸は空へ飛ぶ。
その刹那、一瞬だけ、黒羽丸は埋もれて見えない筈の目が泣いている錯覚を見た。
空の陽は没し、闇が強くなっていく。
全体的なスピードは遅いとは言え食事による再生能力持ちの黒トカゲ状態の名前と負傷した黒羽丸では後者が圧倒的に不利になる。
短期決戦。
此処で決めるしか無い。

(絶対に守る)

今の名前の姿は畏の暴走した形。
飢饉によって死んだ子供の怨念と飢餓が畏となって具現化し、彼女を包み込んでいるだけだ。
元に戻すには畏が満足するまで「食事」をさせるか、別の畏で暴走する彼女の畏を粉々に砕き壊すかのどちらかしかない。
限界まで畏を込めた錫杖を空中から隕石の様に名前の背に叩き込んだ。何も入っていない空っぽの腹はコンクリートと共に容易に破裂し、黒い血らしき物と腐った臭いの体液が辺りに飛び散る。

「ガアァァァア……!!?」

地面に降り立った黒羽丸は錫杖を構え直して自分を見下ろす名前の頭部と向かい合う。
顎を破壊され、腹を潰されて尚、本能に従い黒羽丸を喰らおうと伸びる紅い舌を上空へ躱し、空から距離を詰め後頭部を取った。

「ガアァァア!!」
「―――」

名前の最後の咆哮に掻き消されながら言葉を放つ。
そして振り向かれる前に錫杖を閃光の様に振り下ろし、名前の頭部を叩き割った。



*



「何、黒羽丸出たの?じゃ大丈夫だわ」

毛倡妓が軽く言い、そして庭で騒いでいた妖怪達にも声をかけた。

「オーイ皆ー黒羽丸が出たってさー」
「マジか!」
「ならもう捜さなくてもいいか」
「ったく、もっと早く出ろよなー」
「おい外に出てった奴らにも知らさねーと」
「だな」

緊迫した空気は一気に消え、普段の暢気な奴良組に戻っていく。しかし雪女と鴉天狗に掴まれたままのリクオは状況に付いていけていなかった。

「どういうこと?」

呆気に取られていた雪女が言った。

「黒羽丸が捜したらどういう訳か直ぐに見つかるのですよ。カラスも使わずに。そんな訳で、名前の保護者みたいになっちゃってる次第なのです。」
「そういう事よ。しっかしまあ、ただのお使いでどうしてこうなるのやら……」
「ここ十数年屋敷から出てないから地理が解らなかったのかも知れませんなあ」
「ああ、そうかも!ま、とにかく雪女は台所来なさい。あんた、今日は特に忙しいわよ」
「えっ、まっ待ってよ毛倡妓!」

毛倡妓と鴉天狗の会話が終わると、雪女は毛倡妓に腕を掴まれて強引に連れ去られていった。

「今日はもしかしたら夕餉は無しかも知れませんなあ。全部名前に食べられて」
「名前って、そんな妖怪だったんだ……」
「リクオ様?」

リクオは縁側に腰をかけて寂しそうに呟く。
その意を酌んだのか、鴉天狗がヤレヤレと思いながら横に座る。

「僕、仲間なのに何も知らなかったな」
「……名前が隠しておったのですよ」
「え?」



*



『私、もう、絶対、変化なんてしたくない。あんな姿、もう誰にも見られたくない。もう誰も食べたくない』

そう言って雨の中で泣いた少女の顔は、今でも脳裏に焼き付いている。
今は布団で眠っているが、目覚めを待つのは、希望と同時に恐怖も伴った。

(妖怪の癖に、情けないな)

自嘲しても現実は変わらない。
誰かを傷付ける事を極端に怖れる名前が、自分が原因で黒羽丸が怪我をした事を知ったらどうなるのだろうか。できる限り隠すつもりだが、血の臭いには妙に鋭い彼女の事だ。きっと気付いてしまう。
そしてまた、泣くのだろう。
それでも黒羽丸は、患部が服の下であることに安堵していた。甲冑を外した着流しの下には包帯がギチギチに巻いてある。すぐに治ると言っても兄弟や他の妖怪たちが許してくれなかった。
しかしこれが目につく場所だったらこうして近くにいることすら出来なかった。

「……ん」
「名前、起きたのか?」
「……くろーまる?」
「そうだ、大丈夫か。何処か痛い所は……」
「……ご飯食べたい」
「ああ。用意してある」

ここまでは予想通りのやり取りだった。
彼女が寝ている布団の隣には普段の宴会の3倍程の料理が隣の部屋まで並んでいる。この為だけに3代目が大広間を開けてくれ、他の妖怪達も運ぶのを手伝ってくれた。
名前の大好物らを猫舌対策に雪女に頼んで冷やして貰った。雪女には悪いことをしたが、そのお蔭で普段の宴会分程の食事は瞬間芸で腹に吸い込まれて無くなっていく。
動かない足に気付かずに腕だけでテーブルに乗り出して食らい付き、間食するまでに時間はかからなかった。

「……ごめんなさい」

5分とかからずに全て食べきり箸を置いた名前の謝罪に、どきりとした。

「名前」
「泣かないよ。泣いたら、黒羽丸が悲しむ」

目を見開いた。
全て分かっていたのだ。
自分の事も、黒羽丸の事も。
それでも嫌だった。
黒羽丸は名前以外の、誰かの為に笑う彼女だけは嫌いだった。今回に至ってはそうさせているのが自分だったから尚更、悔恨が胸を刺し殺す。
痛々しいだけなのに、周りは黒羽丸以外誰も気づかない。
彼女は昔から隠すのが上手かった。
誰も、黒羽丸さえも看破できなかった。
だから「前回」は守れなかった。
気付いたら弱々しく震える彼女を強く抱きしめていた。
強く、強く、ほんの僅かな隙間さえ無く。
名前が抵抗することは無かった。
腕の強さも、苦しくなる胸も、痛む傷も、互いの全てが愛おしい。

「すまなかった」
「ううん。目が覚めた時、黒羽丸がいて、嬉しかったよ」
「俺は、約束を」
「守ってくれたよ」

腕を解き、名前は黒羽丸の顔を覗き見る。
今までは変化した後には満腹感があった。吐き気を催す様な、罪悪感の塊が胸にあった。
もう二度と感じたくない感覚があった。

「真っ暗闇から目が覚めたら黒羽丸がいて、お腹が空いて、美味しいごはんがあって、お腹いっぱいになって。私今、凄く幸せなの。 黒羽丸のおかげなんだよ」

黒羽丸の頬に触れる。
いつもと違う冷たい頬、青白い肌。
黒羽丸が自分の攻撃で怪我をしたことなんて彼女は目覚めた瞬間に気付いていた。
変化している時に意識が無い訳ではない。ただあの姿は彼女自身の本能を性質をそのまま表したもの。理性でどうにか出来るものではなかった。
かつて誰も止められなかった覚醒を奴良組は、二代目は止めてくれた。
だからこそ、幾ら礼を尽くしても足りなかった。
だからこそ、奴良組の役に立ちたかった。

「もう勝手に何処かに行くな。使いならせめて俺かカラスを呼べ」
「うん」

名前の手を黒羽丸が掴む。
冷やっこく感じた手は自分を守る為に傷ついた事を如実に表していて、罪悪感に押しつぶされそうになる。

「泣いていい」

視界が黒に染まる。静かだった部屋で、耳が黒羽丸の声だけを拾う。
片手を繋いだまま、もう片方の黒羽丸の手が乱暴だけど優しく頭を抑えつける。
抱きしめられている、そう気付く前に目頭が熱く痛み始める。

「泣いて良いんだ。だからまた、笑ってくれ」

黒羽丸から血の匂いがした。
けれど暖かかった。
感じる黒羽丸の全てが涙腺を緩ませる。

「ごめんね」
「責めてるんじゃない。謝るな」

もっと、彼女の心が妖怪に近かったら。
そう思ったことがある。
彼女を止められなかったことがある。

『なんでなんだろうね。私が、元々人間だったから、なのかな?』

雨の中、口角だけを笑わせながら彼女は言った。

『人間を食べる妖怪の癖に、私に食べられる人のこと、考えちゃうんだよね』

彼女が、「彼女達」が妖怪として完成した時、臨んでいたのは食欲を満たす、ただそれだけだった。
飢饉や戦に怯える子供達の希望から生まれた黒田坊とは全くの逆の方向だったが、それと同じ様に、飢饉で死んだ子供達への生き残った者達の罪悪感が、名前という妖怪を生み出したのだ。
それ以外の設定は御座成りにも程があった。
彼女は食欲を満たす、それ以外は殆ど人間として生まれてきてしまった。
語られる時に相手を安心させる為の「食べ物を与えていれば大丈夫」という防衛策だったのかもしれない。
その反転、いざ変化してしまえば、彼女は畏が尽きるまで喰い続ける。
そして自分が暴れた跡を見て、嗤うのだ。
もう二度と、その様なことを起こさせたくなかった。
泣き顔を隠し、嗤い声を掻き消す。そんな雨の日だった。
黒羽丸は、間に合わなかった。
理由なんて覚えていない。
ただ、彼女が消える前は普段通りの笑顔だったのは覚えている。その奥の性には全く気づきもしなかった。考えもしなかった。
彼女が「そういう」妖怪だと、知っていたのに。
名前が姿を消してやっと、まさか、と思い至った。
全速力で探し飛び、その場に飛び降りた時、ただ、「間に合わなかった」というその事実だけが存在していた。
顔を消え落ちぬ血化粧に染め、辺りに原型の解らぬ肉塊を撒き散らしていた。
夜の都会と田舎の狭間の様な郊外の、小さな林のある公園だった。
血塗れの、小さな小さな靴を手にしながら、天を仰ぎ、彼女は嗤っていた。
雨音に掻き消されていた筈の慟哭が、光景が、耳を切り裂き、体中から力が抜けそうになる。
だが、その時黒羽丸は倒れるわけにはいかなかった。
今ここで、誰かが引き留めなければいけないと思った。
今、自分が止めねば、彼女がどこかへ消えてしまう気がした。
一歩だけ、音を出して近づいた。

『遅かったね。止めに来たの?』

焦点の合わない声で機械のように、しかし絶望に満ちた声で彼女は言う。
黒羽丸に話しかけているのではない。
彼女はきっと、自分が話しているのが誰かなど把握していない。
気配が近くにあったから。
おそらくそんな理由でしかないのだろう。

『誰でもいいけど、奴良組の関係者なら、伝えてほしいことが有るんだ』

豪雨の中、他の全ての音は掻き消されるのに彼女の声だけは耳が拾う。聞き零すことなどあってはならなかった。

『今まで本当にありがとうございました。探さないでください』

名前はそう言って去ろうとする。
その腕を掴み止めていた。
そうなる一瞬前まで声も出せなかったのにそれができたのは今でもよくやったと思っている。
もしあの時彼女を止めていなかったら、今こうして傍にいることすら叶わなかった。

「ありがとう。黒羽丸」
「こっちの台詞だ」

守りたいと思ったのは自分の我儘だ。
例え彼女の心が妖怪よりだったとしても、それは名前ではない。彼女自身のままで、彼女を守りたかった。
それを自覚していたからこそ、彼女が生きている今が愛おしくて堪らない。

『どこへ行くつもりだ』
『京都。弱体化してるとはいえ、無抵抗の今の私くらいなら陰陽師も滅せるよ』

ゾッとした。
身体中に降り注ぐ雨の振動が今になって強く感じられるようになった。

『死ぬ気か』
『うん』

躊躇わずに、迷いなく言い切る。

『なぜだ』
『変なこと利くね。こんな風に人間食う奴なんて、奴良組には相応しくないよ』
『妖怪ならよくやることだ』
『駄目だよ。奴良組の妖怪はこんなことしない』
『だが』
『もう嫌になったの。それだけ。腕、放して』
『断る』
『なんで』

こっちが聞きたい。
黒羽丸にとっても今まではただの同じ奴良組というだけの縁だったのだ。
それなのになぜ必死で彼女を繋ぎ止める理由を探している。

『同じ奴良組の仲間だろう』
『だから嫌なの!放してよ、もう、嫌なの!もう誰も食べたくない!!』
『俺がさせない!!』
『止めて!もう希望なんて持ちたくないの!!』

抵抗する彼女を抱きしめて閉じ込める。
自分よりもずっと小さな体で、ずっと大きなものを背負い続けていたことに気付く。誰も支えてやれていなかったことにも。
それが許せなかった。
どこにも行かせない。絶対に放すわけにはいかなかった。

『放してよ……!お願いだから』
『断る』
『もう、変化なんて、したくないの』
『しなければいいだろう』
『無責任に言わないでよ!それができないから言ってるんじゃない!』
『煩い』
『んっ……!?』
 
どうにか黙らせたくて、両手が塞がっていたから彼女の口を己のそれで塞いだ。
それでも効果はあったらしく大人しく静かになる。

『俺がさせないと言っているだろう』
『っなんで……言い切れるの』
『お前のそんな顔が、醜いからだ』
『……はあっ!?』

正直に言ってしまえば、この時の黒羽丸にとって理由など些末な事に過ぎなかった。
だから事実を言ってしまった。
少なくとももう二度と見たくないと思うくらいには悪い意味で印象に残る顔だった。

『ふっ……ははっ』

大真面目に言った黒羽丸の場に似合わない言葉が名前の何かに触れたらしい。
ついに狂ったか。
最終的に気絶させて無理矢理つれて帰ることも黒羽丸は考えた。

『バッカじゃないの……。二代目と、同じこと言ってる』
『何か言ったか』
『別に!』

黒羽丸の胸の中で呟いた小さな言葉は雨音に隠されて消えていく。記憶の中の二代目も、彼女を止めた時に、似たようなことを言っていた。

『信じても、いいんだよね』
『当然だ』
『じゃあ、帰ろっか』
『死ぬ気は失せたのか』
『次に暴れたら、に先延ばしただけ。黒羽丸が失敗したら、すぐに腹切るんだからね?』
『承知した……、待て。俺だとわかってたのか』
『そこまで私、鈍くないよ?最初から黒羽丸だってわかってた』
『なら何故名前を呼ばなかった』
『拗ねてるの?』
『拗ねてない』
『じゃあ怒ってる?』
『少しだけ』
『……名前呼んだら、縋っちゃいそうだったから』
『なんだそれは』
『心のどっかで生きたいって思ってたんだろうなってこと』
『そうか。良かった』
『やめてよ。情けないったら無いのに』
『守り甲斐があるなと思った』
『……黒羽丸、いつの間にそんなカッコよくなったの』
『知らん。思ったことを口にしただけだ』

守れなかった過去がある。
守れた今がある。
守ると決めた未来がある。

「黒羽丸、これ、食べる?最後の黒ごまプリン」
「構うな。全部食べていい」
「私はもう大丈夫だよ。はい」
「だがな」
「黒羽丸と、食べたいの」
「……はあ」

匙を差し出して引き下がりそうになかった名前に、黒羽丸は諦めた。どうせ誰も見ていやしないと思ってそれを口に含む。誰かいたとしても後で挨拶に周るだけだ。
正直味わえる余裕は無かったが、名前の言う通り、冷たくて食べやすかった。

「へへっ美味しいでしょ。私の一番の大好物なんだよ!」

意外だった、というように黒羽丸は目を丸くする。名前に味の好みがある事なんて知らなかった。何でも食べ物という概念に当てはまるものなら全て食べるからだ。
まだ知らない彼女の一面に驚くと同時に、彼女に近づけた気がして嬉しくなった。
結局、まだまだ黒羽丸の方が精神的に追いつけているとは彼自身は思っていなかった。

「そうだったのか。お前食べ物に好みがあったんだな」
「最近できたの!黒羽丸と一緒の色だから。冷たいからきっと雪女が冷やしてくれたんだね」

爆弾投下に一瞬黒羽丸の意識が飛んだ。

「……っそうだな。足が治ったらでちゃんと礼をしにいかねばな」
「うん!……?あれ、そういえば、足、動かないや」
「やっと気づいたか」

不思議そうに布団を捲り、自分の足を撫でる。
浴衣から伸びる短くも白い足は感覚を持たずに動く気配も無い。
黒羽丸がその細足を掴み、力を込める。

「……痛いか?」
「ううん。何も感じない」
「そうか」

予想通りと言った感じで黒羽丸は足から手を放す。

「すまない。手加減を間違えた。しばらくは歩けないらしい。責任は取る」
「……しばらくって、どれくらい?」
「そうだな……、お前が反省したころじゃないか?」

意地悪い顔で笑って言えば、名前はムッとした表情で拗ねたように言う。

「黒羽丸、なんか嬉しそうだね」
「そうだな。お使いに行って迷子になる方向音痴をずっと部屋で一日中看病できるんだ。楽しいだろうな」
「ちょっと、黒羽丸はお仕事もあるでしょ!?」
「休ませてもらった。安心しろ。つきっきりで面倒をみてやるよ」
「待って、本当にいつ治るの私の足!?」
「さあな。今度、薬鴆堂に診て貰いにいくか。おぶってやるぞ」
「結構です恥ずかしい!!」
「……しばらくは一緒にいさせろ。約束はお前自身を守ることも含んでるんでな」

布団から逃げようとする名前の足を再び掴み布団へ引き戻す。
背中から体重をかけぬ様に覆いかぶさり声のトーンを落として言った。

「……反則だこの真面目堅物鴉」
「何とでも言え」

(こっちは真面目が取り柄なんでな)

名前を守る為だったらなんでもする。
その程度の覚悟など、あの雨の日に決めていた。






広間の襖の外。

「リクオ様、雪女、決して気づかれてはなりませんよ。殺されます」
「……ホントに?一応ボク三代目なんだけど」
「黒羽丸やるわね……あんなことできるんだ……」
「あ、あーんしましたぞ!」
「えっ、あの黒羽丸が!?」
「足触った!女の子の足触った!」
「ああもう、何言ってるのか全く聞こえない!」
「驚くのはまだ早いですぞ……!なんとあの二人付き合ってない!報告も進展もなーーーんにも無い!!こちとら結納の準備まで出来とるのに!!」
「「嘘ぉ!?」」

「早くどかないと、黒羽丸に殺されるわよあんたら。リクオ様も」

毛倡妓の呟きが3人に届いたかどうかは誰も知らない。

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