錆兎さんの運転は楽しかった。
パトカーに乗るというのも初めてだったけれど、それ以上に冨岡先生が常に錆兎さんに揶揄われていて新鮮だった。サイレン流すか?という提案には流石に辞退させて頂いた。冨岡先生が更に切れた。
錆兎さんから聞くと、二人は歳の離れた幼馴染で、通っていた剣道道場が同じだったらしい。だから冨岡先生にも気軽に話しかけられるそうだ。
この人にもこんな風に話せる人がいるんだ、と。羨ましいなあと、微かな羨望もあった。私の友人関係はいつも長持ちしない。卒業したら、就職したら、環境が変わったら切れる程度の縁しか紡げなかった。
「着いたぜ」
錆兎さんが車を停めてドアを開けてエスコートしてくれた。途中でコンビニにも寄らせてくれたし、凄い完璧に紳士でカッコいい。そりゃあ彼女いるわ。後ろの人はどうしてこうならなかったのか。
「なんだ」
「いえ何でも」
冨岡先生の家は平屋建の古民家だった。
昨日訪れたばかりだけど、その時は精神的に余裕が無かった為よく見ていなかった。
今なら夜で暗くてもわかる。
広い上にデカい。門がある家とか初めて入る。
圧倒されている私を二人が追い抜く。
「広いし今住んでるの義勇だけだから部屋も有り余ってるぜ」
「何故お前が説明する」
「お前とりあえず部屋と布団だけ用意して終わりそうだからな!ほら鍵開けてくれ」
「……」
冨岡先生が錆兎さんに押されて玄関を開ける。
流されて来てしまったが、本当に良いのだろうか。
改めて考えると足が止まった。
男の人の家に泊まるのは初めてだし、元担任だし、改めて考えなくともとんでもないことをしているのではないだろうか。
それに私は、こんな「ちゃんとした」家に入っていいような人間じゃない。
「あ、あの、私やっぱり」
「入るなら入れ」
門の前で立ち止まっていた私の手を取って、冨岡先生が無理矢理連れて行く。
私はいつもいつも、こうやって私の腕を引っ張る彼の手に逆らえない。
なんでいつもこうなるのかな。
なんでいつも、この手を振り払えないんだろう。
*
「ごめんな」
結局、私は冨岡先生の家にお邪魔することになった。
冨岡先生自身は部屋の用意をしてくるとどこかへ行き、私に家の中を案内してくれているのは錆兎さんだ。幼馴染だからこの家のことをよく知っている。入ってはいけないところと入って良いところ、共有スペースと、わかりやすく教えてくれた。
改めて内側から案内されると、本当に広い家だ。今は冨岡先生一人でも、最初はきっと家族や人がいっぱい訪れる家だったのだろう。
心がちりちりと焼け焦げるような音がした。
「何がですか?」
「殆ど無理矢理だったから。体調悪そうだし」
「……いえ、助かりました」
本当に、助かったんだと思う。
ただ、助かって良かったのかと思うだけ。
「あの、明日の朝には家に戻って良いでしょうか?仕事があるんで、一度戻りたいんです」
あの寝るだけの為の部屋に戻って、何があるわけでもないけれど。
着替えは途中で寄らせてもらったコンビニで買った下着と、今着てる服で何とかなる。あとはシャワーを借りさせていただければ余裕だ。他人に興味の無い会社だし、泊まり込みでずっと同じ服もよくある会社だから。
ただ、会社に行く前の姿を誰にも見せたくないだけだ。
ああ、明日も仕事なんだ。
そう思うだけで頭痛がする。
「……ああ、そうだな。大丈夫だと思うぜ。なんなら明日も送るけど。俺の家向かいだし。」
「いえ、そこまでは。ありがとうございます」
「……用意できたぞ」
「うわっ」
廊下で話していたら音も立てずに襖を開き足元から、にゅっと冨岡先生が首だけ出してきた。目がいつも以上に死んでいる。やはり迷惑だったったろうか。
「お、蔦子さんの部屋か?」
「……そこが一番生活できる」
「お前の部屋で良いじゃん。どうせ何も無いんだろ」
「「良くないだろう/です!!」」
何を言いだすんだこの警官。
当の本人は、おーハモったとか言っている。
「錆兎、何を勘違いしているのか知らんが、俺たちはそういう関係じゃない」
「当たり前でしょうやめてください冨岡先生そういう関係ってどんな関係ですか嫌ですよ私」
「……」
「何でそこで沈黙するんですか!」
「フラれたな、義勇」
「錆兎さん!」
「……」
今恋愛とかしてる余裕が無いだけなのに、何でこんなこと言われたり言わなきゃいけないんだ。
第一冨岡先生が言う「そういう関係」がそういう関係だったとしても、彼にだって選ぶ権利がある。教師が教え子好きになるとか、他の人ならまだしも、冨岡先生は絶対しない。
「……錆兎、お前こそ、いつまでいるんだ」
「もう出るよ。一応まだ勤務中だしな。そうだ、義勇になんかされたら遠慮なく俺の家来ていいからな!さっきも言ったけど十秒もかからない距離だから」
「錆兎!」
「ありがとう、ございます……?」
「じゃあなー」
そのまま錆兎さんは手を振って廊下を歩き出て行った。
本当に嵐のような人だった。
「……」
「……」
途端に静かになる冨岡家。
どうしたらいいかわからなくて、嫌な静寂に満ちる。
静かになると、脳が動き出して余計なことを考える。
「……とりあえず、入れ」
「は、はい……」
顔だけ出していた襖を開き、廊下から案内されたのは大きめの和室。ここが居間なのだろうか。床の間や欄間とかある部屋、学校の和室以外で初めて見た。こういう人の家に来るというイベントにあまり縁が無かったから新鮮だ。
ただし床の間は埃なく掃除されているけど、花や掛軸はなく、飾り棚の上にも何も置かれていない。
……なんだろう。
あるべきものはあるのに、それだけの部屋だった。
「座っていい」
立ち惚けていた私は指示に従って用意されていた座布団に座る。
冨岡先生は既に着替えを終えてスーツからジャージ姿になっていた。
中高時代ずっと一緒にいた姿だ。
懐かしくも遠い中高時代と、唯ひたすらに息苦しい今が混ざったような、温い砂糖水の中のような感覚がした。
甘いけれど、苦しいです。とても。
冨岡先生は私には一切目を向けずにお茶を淹れている。湯呑が三つある。錆兎さんのも用意してたんだ。言えばお茶くらい飲んで行ってくれただろうに。
「……」
「……ありがとうございます」
「……」
出されたお茶を一口飲む。
あったかくて美味しい。
「……」
「……」
チッ、チッ、チッ、チッ
時計の秒針の音がやけに響く。
会話がない。
静寂は嫌いだ。嫌なことを考える。冨岡先生がいると、尚更だ。彼がいると、落ち着いてしまう。安心してしまう。
そして、今以上を望んでしまう。未来に希望を見出せるような、そんな錯覚を感じてしまう。
錯覚。
そうだ。錯覚だ。
もっと前に、高校の時に気づいていれば良かった。気づけなかったから、六年間私は彼の側を離れなかった。
でも、もう、疲れたんです。
未来に希望を持つよりも、今の状況から逃げ出したい。戦う気力なんて持ちたくないんです。頑張りたくなんてないんです。幸せなんて、希望を持って前向きに生きようなんて、そんな贅沢は言いません。辛くても痛くても構いません。ただ呼吸できる場所が欲しいんです。それだけなんです。それ以上なんて望みませんから、幸せなんて最初から望んでいませんから、だから許してください。
冨岡先生といると、そう叫びたくなる。懺悔したくなる。
私は、羨ましいんだ。彼が。心底。
どこまでも、どこまでも強く己を貫ける彼が眩しくて、目が潰れそう。
だからこそ、この沈黙が辛かった。
会話がないのは冨岡先生だから仕方ない。会話はキャッチボール。投げれば方向はともかく返球はしてくれる人だ。私から行くしかない。何か話せ。
「「あの/なあ」」
「……」
「……」
被った。
同時投球してしまった。ボールが二つある。これではキャッチボールどころかドッジボールだ。長引かせない為にボール二つ使ったドッジボールとか小学生の時にやった記憶がある。これ地域差あるという話は本当だろうか。私は最初から外野に回っていた。内野にいるときは迷惑にならないように出来る限り粘ったけど。ちがう今はその話はどうでもいい。
「あの……、どうぞ」
「……」
脳内大狂乱は置いておいて、続きを促した。私の話のネタなんて他愛ない部類のものだったから。
「……部屋は、用意した。姉の部屋だ。連絡したら、荷物はあるが、触っても構わないそうだ」
「ありがとうございます。お姉さん、いらしたんですね」
「嫁に行った」
「はあ……」
「……」
会話が途切れた。
今のは私が悪い。返球の方向を間違えた。「はあ……」じゃない。もう少し何かあった筈だ。だがしかしそれが今すぐ思い浮かぶようなら既に言っている……。おめでとうございますで良かったのか。いやしかしいつ行ったのか分からないし、昔の話だったら今更祝われても遅くないだろうか。
狂乱の次は反省会か。忙しない。
「体調はどうだ」
「え、と……、絶好調とは言えないですけど、大丈夫です。あの、あとでお風呂と洗面所、お借りしていいですか?」
「好きに使えばいい」
「ありがとうございます」
「……」
「……」
また途切れた。
冨岡先生が返球してくれない。私の投球が悪かったのか。
どうしよう。私も人のこと言えないレベルで会話のキャッチボールできない。運動神経は悪くはなかった筈なんだけど。
人とまともに会話することもできなくなったのか。
「……寝るか?」
「え、いや、私のことならお気になさらず」
まずい、と警報が鳴る。今は、まずい。何がって、私の精神状態が。今の状態でこの状況はまずい。
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
冨岡先生に気を遣わせた。
大人の男に、逆らった。
「顔色が悪い。寝た方がいい」
冨岡先生が立ち上がる。
身体の芯から震え上がる。これは、恐怖だ。彼が一歩一歩近づく毎に、それが私の方へ近づいてくる。
冨岡先生が、目の前にいる人が、黒く染まり、「あいつら」と重なった。そのまま私の中に入ってくる。気持ち悪い。その目で私を見るな。触るな。私のこと何も見てないくせに。
「やだ!」
私の方へ伸ばされた腕を振り払った。
その瞬間、黒い腕が冨岡先生のジャージに変わった。
「あ……れ」
「……」
世界が元に戻る。
茫然と、ただ自分がやったことを理解する。
湧き上がる後悔、それは今やったことではなかった。
私は、私がここにいることを、後悔したんだ。
「ごめんなさい」
「いい」
「やっぱり私、迷惑ですね」
「待て」
「帰りますね!なんとかなりますから」
「園城!」
「その名前で呼ばないで!!」
「あいつら」と同じ名前で呼ばないで。
冨岡先生の顔が見れない。
強烈な後悔に自己嫌悪が混ざっていく。
冨岡先生は何も言わなかった。言ってくれなかった。
「……ごめんなさい」
私は、冨岡先生と「あいつら」を重ね合わせた。
その事実に耐えきれなくて立ち上がる。どうしようもなく馬鹿で、申し訳なくて、許せなくて、ここから消え去りたくて、走り出した。
襖を音を立てて開いて、さっき案内してもらったばかりの廊下を一目散に走った。
あともう少し、もう少しで玄関だったのに。
……どうして、いつも捕まっちゃうのかなあ。
「美小代」
後ろから手を掴まれて、足がもつれた。
床に倒れこんで、起き上がろうとして肩に力がかかって、また押し倒された。
天井と冨岡先生を見上げる。
悔しいくらいに嬉しくて、喜んでいる自分が大嫌いで、本当に死んでしまいたくなる。捩じ切れそうな程に複雑に絡み合った感情で悲鳴をあげそうだった。涙はもう溢れてる。
「離してください」
「断る」
「離して……!」
抜け出そうと身を捩る。でも冨岡先生の力が強過ぎてビクともしない。これが男女の力の差か。
「美小代」
やめて。
どうして、そんな悲しそうな声を出すの。
「俺といると、そんなに辛いか」
どうして貴方が、悲しそうな顔をするんですか。
「……先生が悪いんじゃないです。私が、だめなんです」
心が折れる音がした。
私は、先生を悲しませるような生徒になってしまった。
私が私であるための最後のプライドが崩れ落ちていく。
全て話したら、楽になれるんだろうか。
諦めて全部晒せば、良いのだろうか。
何も分からなくなってただ冨岡先生を見上げていた。