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消ゆる言の葉



目に見える景色が映像のように流れていく。
色は褪せて音は遠く。
駅の階段を登る足の感覚が無くなったのはいつだったろう。最近だったような、ずっと前だったような。昨日も一昨日も、その前もずっと同じ階段を登り、同じ電車に乗り、同じ会社に向かい、同じ仕事をして、同じ駅へ向かい、同じ終電に乗って帰った。違うのは帰れるか帰れないかの、それだけ。時間の感覚も消え、今日が何日の何曜日なのかすらわからない。
毎日脳の細胞が死滅していく感覚がした。
駅から見えるビル群はもう既に夜景を作り出す気力すらなく、僅かな光を残して眠りに就いていた。

もう良いんじゃない?

ふと、そんな思考が脳を支配する。

楽になりたい。もう疲れた。

階段を登る身体が重くて重くて仕方ない。怪我をしたわけでもないのに。
階段の頂点、ホームまでの道が一本の線の様に白く光り、それ以外の全てが消えた。光の線の上を歩き、ホームの点字ブロックを踏み台にして私は飛び跳ねる、筈だった
振り抜いた私の腕を誰かが掴んでいた。

「終電を止めるな」
「……冨岡先生」





ドン、と置かれた鮭大根。
隣に座るのは、中学高校の時担任だった冨岡先生。

「食べろ」
「……」

状況が全くわからない。
飛び込み自殺しようとした私の精神が正気じゃなかったのはわかるけれども、そのあとの展開も飲み込めなかった。
あの後冨岡先生に手を握られたまま、私を轢かずに済んだ終電に無理矢理連れ込まれ、名前しか知らない駅で降ろされて、この食堂に着いた。

「食べないのか」
「え、あの」
「……あぁ、奢りだ。気にするな」
「いやそこじゃなくて」
「なら食べろ」
「……いただきます」

冨岡先生の圧に負けて、おどおどと箸に手を伸ばした。熱々の鮭大根は湯気と匂いが漂ってきて、普通の人なら多分、美味しいと思うのだろう。
正直に言うと、食欲なんて全く無かった。最後にこんな温かいご飯を食べたのがいつだったかわからない。毎日三食コンビニ弁当とパンを繰り返していると、買うものを変えたとしても舌がおかしくなっていくなんて知りたくなかった。家の近くのパン屋さんと会社内のコンビニ弁当全メニューを、一体何周したのかなんて数えたくもない。

「……」
「食べます!食べますから!」

箸に取った鮭と睨めっこしていたら、冨岡先生の無言の圧が更に強くなった。これは全部食べ切るまで解放してくれない流れだ。六年間この人が担任でかつ風紀委員だった人間として、冨岡先生という人の行動パターンはそこそこ理解している。この人全く変わってない。
覚悟を決めて鮭を口にした。

「……おいしい」
「そうか」
「っ、はい……!」

味わうという行為を久々にやった気がする。
鮭大根なんてコンビニでは売ってないし、そもそも温かい料理というものが久しぶりだった。レンジでチンしたものとはまた違う、すぐに冷めない温かさ。味の染みた鮭と大根。
美味しくて美味しくて、器を持って掻き食らった。
胃の中に食べ物が届いて初めて、自分が空腹だったことに気づいた。そういえば今日は急に舞い込んだ会議の資料作りで、束の間の昼休みすらも返上だった。その後一ヶ所だけミスがあって、上司に怒鳴られて……
なんで、あそこまで言われなければならなかったのだろう。あのミスは私のじゃない。先輩の指示に従っただけなのに。
何も考えないようにして抑えていた感情が溢れ出していて、いつの間にか私は泣きながら食べていた。

「ごめんな、さい、先生。すぐ収まるんで」
「構わない」

冨岡先生が優しい。高校時代の私だったら絶対に裏があるとか叫んでいただろうけど、それでも今私は嬉しかった。実家を出てから、人の温もりを感じることなんて殆どなかったから。

「ありがとう、ございます。誰かとご飯食べたの、久しぶりです」
「……仕事で遅くなった時、何度かお前を見たことがある。いつもこの時間なのか」
「お恥ずかしながら」

定時退社なんてしたことない。絶対に定時まで終わらない仕事量をこなして、会社が閉まっても終わらないから朝から出社して、本当にやばい時は会社に泊まり込む時もあった。先輩は同じ量の仕事をこなして定時退社してるのだから、私の要領が悪いのだろう。
いつのまにか来ていた鮭大根を前に冨岡先生は箸を割った。私が食べ終わるまで待っていたのだろうか。考え過ぎか。
自嘲を含んだ笑みを浮かべる。

「なぜ辞めない」

上げた口角がそのまま固まった。
何かが折れる、音がした。
辞める。辞める、とは。私に言ってるのだろう。何を辞めるのか。決まってる。会社のことだ。
会社を辞める。その意味はわかる。同期の中には入社翌日に姿を消した人もいた。

そんな簡単に辞められるなら、飛び込みなんてしなかった!!

悲鳴の様に溢れ出す感情は出せなかった。周りの迷惑とか、そんなことを考えたからじゃない。
泣いて叫んで、喚き散らす体力気力すら残っていなかったからだ。

「もっと早く、先生に会いたかったです」

なぜ辞めない?
私が聞きたい。
何回も何回も何回も、辞めようとしたんだ。あの頃に冨岡先生に会えていれば、絶対に辞めてやると宣言できたかもしれない。
退職願を出す度に破られて、見せしめの様に社員全員の前で怒鳴られて、退職理由なんて聞いてすらもらえなくて、私が悪いと言い続けられて、退職を取り下げるまでそれは続いた。
辞めるよりも、仕事を続ける方がまだマシだった。
確かに怒鳴られるし、サービス残業で帰れない時もあるけれど、それだけだ。黙って仕事をしていれば、私が居なくなった後の損失を長々と反吐が出そうなほど語られたり、私以外の社員の失態を押し付けられたりはしないから。

「今日は、助けてくれてありがとうございました。仕事以外の人と話したの、久しぶりでした」

今の会社に就職してから友人付き合いは無くなった。連日の激務、先輩からの叱責に自尊心は削られ、仕事外で誰かと会話することすらできなくなった。
親しい人と話せば、本当に心が折れてしまうとわかっていたから。

「さよなら」

お金だけテーブルに出して店を出る。冨岡先生の顔は見なかった。見れなかった。
殆どの店が閉まっていて誰もいない商店街のアーケードを泣きながら走りぬけた。
どうしようもなく自分が嫌いになっていく。
私は、自分ひとりでは何もできないくせに、差し出された手を払ってしまった。冨岡先生は助けてようとしてくれたのに。冨岡先生は言葉は本当は優しい人だってわかっている。さっきのだって、本当に純粋に疑問だったのだろう。
わかったのに。わかっていたのに、だめだった。辞められない私を、私以外に責めてほしくなかった。自分で自分のことを馬鹿だとわかっているのに、何も知らない冨岡先生まで言わないでほしかった。
息継ぎの合間に嗚咽が混じり、うまく呼吸ができない。苦しくなって狭まっていく思考に、高校時代の思い出を見た。卒業式、笑顔で冨岡先生の元へ行った。彼は生徒から嫌われていたから、周りには人はいなかった。会えなくなって清々するとか、卒業しても頑張るから、今度会うときは幸せ自慢してやるとか、そんな強がりを先生は笑って流してくれた。初めて見た冨岡先生の笑顔が、まだ脳裏に焼き付いている。
それが、私にとって最後の砦だった。
私は、最後に残った、冨岡先生の生徒だった私としてのプライドを守ることを優先した。
駅で再会した時点で、そんなもの砕け散っていたというのに。

「園城!」

走るために振った手をだれかがつかんだ。それが誰なのか、声でわかった。わかってしまった。

「さよなら、って、言いましたよね」
「この時間に、女一人で歩かせられるか」

この人の、こういうところが好きだった。今はそれがどうしようもなく苦しかった。

20190430

平成最後の作品になりました。



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