冨岡先生は結局私を台所には入れてくれなかった。
何もするなと命令されて手持ち無沙汰な私は、ジャージ姿で料理する冨岡先生を不思議な感覚で見つめていた。
改めて観察してみると先生は意外と、いや、思っていたよりは料理ができた。包丁捌きが凄い。速い。野菜がドンドン切られていく。それを土鍋に入れて麺を入れて煮込んで終了。雑だが美味しい病人食。卵を入れればなお美味い。
「……」
「……食え」
「……」
どんと卓上に置かれた鍋焼きうどんと向き合う。ほくほくと湯気が立ち上り、出汁の匂いが食欲を唆る。唆るけれども、まだ食べるわけにはいかなかった。
「あの、先生の分は」
「気にするな」
「気にします」
そう。用意されたのは一人分だったのだ。これを食べてしまえば先生の分が無くなってしまうのではないかとか、先生が帰る前に出て行けば良かったとか、ひたすら悪い方に思考する。
加えて私は手伝いも何もしていない。働かざるものなのだから食ってはならなグ〜〜〜
「……」
「……」
今の音は、何。
「……腹は正直だな」
「そこは聞かなかったことにするのが優しさってものなんじゃないですか!?」
思考を切り裂く腹の虫の声。
顔全体に熱が集中する。穴があったら入りたい。あまりの羞恥に顔をあげられない。
「観念しろ」
「……うう……」
唸り声をあげても効果はない。泣きたくなってきた。
もう白旗を揚げるしかない。
「いただきます……」
箸を取る。
一口、食べた。
二口目、ズズッと勢いよく麺を啜る。
三口目で蓮華を使って汁を飲む。キッユーマンの麺つゆの味。
四口目から先は覚えてない。無我夢中で食べたのに、箸を動かせば動かすほど空腹を感じた。
今日一日何も食べてないのだから当たり前だけど。
「……ご馳走さまでした」
「見事な食べっぷりだった」
「それ褒めてるんですか……?」
「見てて清々しくなった」
「真顔で言われましても……冨岡先生は食べないんですか」
「気にするな」
「気にしますよ……」
困った。気にするなと言われてはい気にしませんと言えるような図太い精神ならあの会社に長く勤務したりしない。ブラックに留まる人間というのは辞める気力も無いほどに精神を削りきられた人間か、辞めた後のことをうだうだと考えてしまうお人好しの馬鹿だ。前者は回復さえしてしまえばさっさと辞めていく。恋人見つけて即退職を決めた猗窩座さんは多分このタイプだろう。けど私は完全に後者だ。退職すると決めても未だに残る人たちのことを考えている。
いや退職はするけども。絶対にするけども。猗窩座さんがいなくなったならあの会社にいる義理も恩義もない。
「……調子はどうだ」
「そりゃあもう元気ですよ。バリバリって感じで!だからもう私家に帰り」
「園城」
「熱は引いたと思います。身体は少し怠い程度です」
何でこの人速攻で嘘見抜くかなあ。逆らえなくてベラベラ白状してしまう私も私だけど。
それにしても熱か。昨日死ぬほど体調悪かったのも頷ける。一晩一緒にいた冨岡先生がピンピンしてるんだからウイルス性ではなさそうで良かった。
となると気になることがある。ずっと気づかないままでいたかったけれど。
「あの、私、どうやって着替えたんですか……?」
「……」
言った瞬間、空気が固まった。
晩春だというのに部屋の温度が晩秋並みに下がった気がした。
昨夜の最後の記憶では私はまだ会社用のスーツだった筈だ。しかし今着てるのは確実に女物のパジャマだった。流石に下着は変わってなかったけれども。
「……それは、だな」
「はい」
「……」
「……先生」
「…………なるべく、見ないようにした」
冨岡先生の過去最小声量だった。
けれど静かな家で、私のすぐ隣で発せられたその声を、私の耳は残念ながら拾ってしまう。拾ってしまった。その言葉がどういう意味か、わかってしまった。
「〜〜〜ッ!!!」
「違う!朝になってみたらお前が発熱していたから脱がせて姉の服を着せただけだ!!」
「何が違うんですか!!」
「シャツとズボン剥いで上から着せただけだ!」
「訂正点がおかしいんですよ!!」
見られた。なるべく見ないようにしたって、どこまで見られたの。
「私の下着姿見たんですか!」
「見ていない!」
「じゃあどこまで触ったんですか!」
「手足は触れたがその先は一切触れずに、服を被せた!!その先は一切触れてないし見てもいない!!」
「二回言った!!」
「触ってないからな!!」
「その言い方だと触ってないけど見たみたいに聞こえるんですけど!!?」
「見ないように努めた!!」
「それつまり見たってことでは!?」
「手足しか見てない!」
互いに顔を真っ赤にさせなが見たのか触ったのか言争いはその後十分続いた。
朝の満員電車よりも疲れて、お互いゼーハーと息切れするまで言葉をぶつけ合った。
言葉の弾丸も尽きて、二人して畳に仰向きに寝っ転がった。
「……、っふは……くっ……」
視界に映るのが天井だけになれば、この状況が面白くて笑えてくる。下手な笑い方。
「何笑っている」
「いや、なんか、面白くて。冨岡先生とこういうことするのが」
冨岡先生が息を飲んだような、驚いたような気配がした。その意図はわからないけど。
「怒らないのか」
「?……いえ別に……手足しか見てないんでしょう?」
先生がこういうところで嘘つけるとは思わない。
女として考えると、確かにここは怒るべきところなのだとは思う。けれどまあ驚いたことに、てんで怒りが湧いてこない。
「冨岡先生、体育の時に私のスク水とかブルマとか散々見てるじゃないですか」
「何年前だと思ってるんだ」
「えー……だって冨岡先生ですし……」
いまいち納得いかない。
冨岡先生は生徒相手に欲情とかするような人じゃないし、私は先生相手なら見られても特に抵抗はないし、特に怒る理由は見当たらないのだ。
そりゃあ中高時代より多少は成長してるけれど、発育がそこまで良かったわけでもなく、可もなく不可もなくな体型を維持している。なんなら高校卒業時から体形は変わっていないはず。健康診断なんて大学卒業してから受けてないから実際のところは知らないけど。
というかあの学校は未だにブルマなのだろうか。
「……お前な」
むくりと冨岡先生が起き上がる。
私もそれに合わせて上体を起こそうとした。
けれど、できなかった。
「……先生?」
認識するのに、少し時間がかかった。
視界には天井と、先生の顔。
どうして。
「自分が女だということを少しは自覚しろ」
どうして私は、彼に押し倒されているの。
両腕を頭上で片手で抑えられる。
解こうとしても力が強くて全然敵わない。
「せんせ」
「俺がやろうと思えば、いつでもこういうことができるんだぞ」
「……ッ!」
腕に込められた力が増していく。きっともう痣ができている。それくらい痛かった。
「お前はもう俺の生徒を卒業しただろう」
「先生っ、ダメ」
「そう思うなら抵抗しろ」
先生が近い。体温から声の吐息まで全部伝わってくる。
身体に跨られてぞくぞくと身体が震える。
多分先生は襲う気なんて無い。腕が動く気配もないし、本当にやる気ならもう服だって脱がされてる。
これはただの警告だ。
先生は男で私は女。
それでも彼にこんなことをさせてしまった。
そのことが許せなくて、それを受け入れられないことはもっと許せない。
「……ごめんなさい」
先生の警告に従えない。
嫌じゃなかったから。嫌悪感なんて微塵も感じなかったから。
なんなら私はこのまま抱かれてしまってもいいとさえ思っている。長らく眠っていた女としての自分が全身で喜んでいた。
ずっと目を逸らし続けてきた。ずっと抑え込んできたのに。
だって彼は先生だから。私を好きになりはしない。
わかってる。
わかってた。
ダメだ。
絶対に。
どうして。
どうして今になって。
「……わかったならいい」
すまない、と言って彼が離れた。
先生が謝ることじゃない。
こんな痴漢紛いのようなことをさせてしまった私が悪い。
私が線引きを間違えたから。
私が、抑えきれなかったから。
「……私、出て行った方がいいですか」
先生が離れても私は起き上がれなくて、自然と言葉が出ていた。
「美小代がここに居たくないなら、出ていけばいい」
「……それは狡いと思います」
「ここに居ろと言えばいいのか」
「……私は」
ここに居るべきではないと思う。連れられて来た時は確かに嬉しかったけれど、私はやはり先生の邪魔になる。
「お前の選択だ。お前が決めろ」
「私だけの選択でもないです」
この家は先生の家だ。
ここに居たら先生の邪魔になる。それは私の夢とも目標とも言えるものを裏切ることだ。
ここを出ていけば、きっと私はもう二度と冨岡先生には会えない。そういう風に行動する。確信がある。私は絶対に彼から逃げる。今の時点で私は自分のことを殺したいほどに許せないのだから。
これは現実に潰されるか、夢に潰されるかの選択。
「……俺は」
先生が言い淀む。迷ってるのか。確かにこれは私だけの選択ではないけれど、彼が言うことに私が逆らわないことも、彼は知っている。
それをわかっていて委ねた私も、充分卑怯者だ。
「お前が笑っていられるところにいてほしい」
ここでなくとも構わない。生きて笑っていけるならどこでもいい。
その言葉を聞いた瞬間、今日が命日でもいいと、本気で思った。
過去も未来も何もかもどうでもよくなって、何もかもが怖くなくなった。
誰かに心配されたことなどなかった。
それは私が信頼されていたからではない。心配するほど私を大事に思ってくれる人がいなかったのだ。
「……先生」
一度起き上がって、改めて両手を着き、頭を下げた。
「ここに居させてください」
決して迷惑はかけない。
邪魔になったらすぐに追い出して構わない。
そう口にしてひたすらに頭を下げた。
今まで支えだった夢を裏切ってでも、ここまで抱えてきた理想に叛してでも、今、私は彼の側にいたかった。
それがただの自己満足だということもわかっていても。
「……好きにしろ」
だから、彼の顔は見なかった。見ないようにした。見るのが怖かった。彼の目に私はどう映っているのか、知りたくなかった。
だから私は、まるで捕らえられた罪人の様に、頭を上げることができなかった。