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融解する心音


押し倒されている体勢から起き上がり、二人で壁に背中を預けて座った。冨岡先生は部屋に戻るかと言ってくれたけど断った。冷たい床の方が頭が冷えて、波風立てずに話せる気がした。
繋がれた手は離さないままで床に縫い付けられた。彼の脈拍が伝わってくる。その温度と感覚に責められているようでホッとした。

「……」
「……」

それでも何から話していいのかわからなくて、沈黙が廊下に満ちる。

「さっき」

冨岡先生が先に口を開いた。
内容はわかっているから、全身が強張った。

「おまえ、あいつらと俺を重ねたのか」
「……ごめんなさい」

やっぱり、バレていたか。
冨岡先生は私の経歴を全て知っているからなあ。おなじことが高校の時もあったし。私と同じ名字の人達から助けてくれた張本人だからなあ。
私は彼に助けられてばかりで、何も返せなかったから、せめて助けて良かったと思ってくれるような生徒でいようと思っていた。いたのに。

「何が引金だった」
「……わからないです」
「俺を気遣っているつもりか?」
「……すみません」

握られた手に力が込められる。ミシ、と音がした。痛い。この人脈拍で嘘を認識する能力でも持ってるのか。
馬鹿なとは思うが、嘘が即座に見破られた。観念するしかないらしい。

「……強いて言うなら、この家に来たこと、なんだと思います」

今は先生一人でも、この家には人がいた気配が其処彼処に残っている。部屋の数、色あせてはいるが手入れされた畳、座布団の枚数、大きさの違う湯呑み、複数の趣味の家具、カレンダーの書き込みの文字。
私には終ぞ得られないと諦めたもの。その全てが私の心をじりじりと炙っていく。
ーーー生まれる場所とタイミングが悪かった。あの頃の私は、そう悟るには早過ぎて、納得するには幼過ぎた。

「……私べつに、名字で呼ばれるのが嫌いなわけじゃないんですよ。会社ではそれで呼ばれてますし」
「……」
「ただ、今日はちょっと、色々あり過ぎて。ちょっと、参ってたみたいです。すみません」
「……そうだな」

電車に飛び込もうとして冨岡先生に助けられてから、まだ二十四時間経ってないというのは本当かと思うほど色々あった。疲れたのかすらもわからないほど。

「この家にいるのは辛いか」
「……」

答えられなかった。
一人だったら辛いだろう。それこそ醜い嫉妬と疎外感で、この家や周囲のもの全て燃やしてしまいたいと思うほど。
でも、今、私の隣には冨岡先生かいる。それだけでどれだけ楽になるか、彼は知らない。
どんなに苦しい時だろうと、彼が側にいてくれるだけで、大丈夫だと思えた。

「……明日仕事だって考えると、眠れなくなるんです」
「……?」

冨岡先生が眉を顰める。遮る気配は無かったから、構わず話を続けた。

「結構前から、全然眠れないんです。朝は始発で行くから早く寝なきゃいけないってわかってるのに。寝たら朝が来ちゃうから」
「……」
「でも、昨日はよく寝れたんです。固い車のシートだったんですけどね」
「……そうか」
「道に迷ってくれて、ありがとうございました。本当に、嬉しかったです」

冨岡先生は錆兎さんが暴かなければずっと言わなかったのだろう。そういうところが堪らなく嬉しかった。わざわざ言うような人だったらとっくの昔に拒絶している。

「……何が言いたい」

冨岡先生が目をそらす。
どう言えば伝わるんだろう。
それでも感謝だけは伝えたくて。素直に心の中の感情を表現するには、その感情に名前を付けなきゃいけなくなる。
その感情にはまだ、目を背けていたかった。
だから、動かない表情筋の精一杯の笑みに言葉を乗せる。

「私、冨岡先生と一緒だったら、辛いこと全部吹き飛んじゃうんです」

冨岡先生といると世界が少し暖かくなったのはいつからだったろう。
中学に入学したばかりの頃は半強制的な形でなった風紀委員だった。最初はとにかく怖かった。父親の肩身のピアスを外さない高等部の先輩は只管に追いかけたし、金髪が地毛だと言い張る風紀委員の先輩はいつもぶん殴られてたし。ただの気まぐれでなく理由があるだけマシだとも少しは思ったけど。
二年にもなるとその風景にも慣れていて、この頃にはもう私は完全に冨岡先生に懐いていた。こう表現したのは宇髄先生だったと思うけど。
今思うと少し違う気がする。懐いているというレベルではなかった。
だから私が冨岡先生のことをそう感じるようになったのは、中一の後半、二学期あたりのことだ。
あの頃何があったっけ。二学期といえば秋。秋といえば山。山といえば山の王。
……思い出してしまった。

「先生、私がグレた時のこと、覚えてます?」
「……」

目は口ほどに物を言う。
心底嫌なものを思い出したと言わんばかりに冨岡先生は眉を寄せた。

「何故今更その話を蒸し返す……」
「思い出しちゃったんですもの」

冨岡先生が呆れたようにため息を吐いて頭を抱える。彼の学校では見せないこんな反応引き出せるのが嬉しかった。
それにしては楽しい内容じゃないのが玉に瑕だけども。

「前から聞きたかったんですけど、あの頃家まで来てくれたって本当ですか?」
「……」
「来たんですね」

先生が頭を縦に振った。
中一の秋、私が家に帰らず、学校にも行かなくなった時期があった。何をしていたかというと、山の王を名乗る凄い顔が綺麗な先輩と山で遊び、先輩の里親のひささんのところで暮らしていただけなのだが。

「あの頃家にいなくて、すみません。その節はご心配おかけしました」
「……いなくて正解だ」
「あれ、先生がそんなこと言っていいんですか?」
「これでもお前に配慮してる」
「今更ですね。もっと言っちゃってくれても構いませんよ?」
「……」
「本気ですよ」

本当に。罵られて然るべき人間達だと思っている。名字が同じだというだけで、どうしてここまで縛られなければならないのか。

「私の家庭環境、知ってるでしょう?」
「……ああ」
「だから、良いんです。なにも感じませんよ。あの人達が何と言われようと」

父親が暴力上等・借金巨額・酒乱醜態の糞を糞で煮詰めた様な糞野郎で母親は私を連れて離婚。その男の見目に騙された母親は、私が中一の頃に、新しい男を見つけて私をあのアパートに置いて蒸発。いや、最低限の仕送りは毎月あったから蒸発ではないか。本当に最低限でどんどん少なくなっていったけど。
私がアパートに帰らなくなった時期というのが、その父親とも呼び難い糞野郎の精子提供主が、どういう伝手を使ったのか私達母娘を見つけた時期だった。母親が新しい男を見つけて逃げたのはその直後だ。
私は連れて行ってもらえなかった。今思えば感謝しかないけれど。あの人たちと関わりを持つくらいだったら十代から一人暮らしの方が百億倍良い。

「どうしてあの手の人達って、優しくする訳でもないのに執着心だけは強いんでしょうね」
「お前まさかまだあいつらと」
「いいえ。冨岡先生がぶん殴ってくれた後は二度と見てません」
「……」
「あの時から、先生はヒーローなんです」

冨岡先生が私の両親を殴って吹っ飛ばしたと聞いた時、私は家に帰れなくて、まだ学校にいた。他の先生が騒いでいてようやくその報を知った。だけど最初に湧いた考えは感謝だった。
その次は冨岡先生の安否で、その次が「私の関係者の所為で処分が降ったらどうしよう」だった。その次か次あたりに「ざまあみろ」が来た。
戸籍上、血縁上の関係者よりも冨岡先生の方がずっと大事だった。
冨岡先生のことが最初は苦手だった。その次は憧れになって、報せを聞いたあの瞬間に私は冨岡先生に落ちた。それはもうどっぽんと。カルガモの子供のように冨岡先生の後を追い始めたのはそれからだ。冨岡先生の側に居たいから校則違反してる生徒は軒並みチェックした。多過ぎて目眩がしたけど、その中でいつも礼儀正しく校則違反する人の近くに休み時間はいつもいた。わざわざ職員室まで行くよりもそっちの方が、角に追い込めとか挟み撃ちだとか 指示や声かけをしてくれると気づいたから。

「殴りたくなったから殴っただけだ」
「殴ってくれない人ばっかりなんですよ」

冨岡先生は偽悪ぶるけど関係ない。
冨岡先生以外は誰も殴ってくれなかった。私にはそれだけだった。類は友を呼ぶとはこういうことで、私の両親の周囲の人間も同類ばかり。

「冨岡先生が殴る時は何かしら理由がある時でしょう」

殴るに値する人間達だった。それでも親は絶対だと思っていた。
冨岡先生はそのどうしようもなく分厚い壁をぶち破ってくれた。

「この世も捨てたもんじゃないなって思えたの、冨岡先生のお陰なんですよ」

その後のゴタゴタなんてどうでもよかった。冨岡先生が校長先生に呼び出されて教育委員会案件に直前までいこうが、私が冨岡先生以上にやらかして話題がそっちに集中して冨岡先生の処分が流れようがそこはどうでも良い。

「……その割には自分から自分の首を絞めているように見えるんだが」
「頑張って生きてるだけなんですけど」
「お前、生きてて楽しいのか?」
「え、それ、冨岡先生に言われたくないんですけど……」
「……」
「……」

互いに互いの言葉でダメージを受けた。
冨岡先生に人生の楽しみについて語られた。
宇髄先生ならまだしも冨岡先生に。
いや、確かに私は生きるのが下手な部類に入るのだとは思う。というよりも生を謳歌するという能力がない。
文字通り生きることで精一杯。
楽しむということは余裕がある人間のすることだと思うから。
あの問題児ばかりが集まって、でも笑顔だけは絶えなかった学校で、冨岡先生から離れたら息が苦しくなるんだからよっぽどだ。
クスリともしない冨岡先生の側だから、笑わなくても良かったんだ。それがどれだけ楽だったか。
どこかの誰かの様に、自分に笑みを貼り付けることすらできなかったのだから。

「……まあでも、確かに、あの部屋に今でも住んでるのは、自分でも馬鹿だと思ってますよ」

言った瞬間、僅かに冨岡先生の腕が震えた。少し申し訳ない。
家賃が安いとか、引っ越しする金が無いとか、そんなのは些細なこと。本気でやろうと思えば、副業を増やすなり食費を削るなりして、いくらでも費用を捻出して引っ越しなんてできた。
それでも私はあのアパートに留まり続けた。
糞な父親が来る可能性もあった。
無に近いセキュリティで暮らすのも確かに怖かった。
それでも私は、家族が帰って来るのを待っているのだ。

「本当に馬鹿なんだな」
「ええ。馬鹿です」

母親の現在など知らない。新しい男を捕まえて家庭を持つまでに至ったらしいが今も続いているのかなんて知る術すらない
……縁切りが出来たわけではないから、調べようと思えば調べられるのだろうが。

「お前、あいつらに何されたか忘れたのか」
「冨岡先生がいなかったら中卒キャバ嬢コースでしたね」
「いやそこまでではなかった」
「提案には挙がってました。それが嫌で私は家に帰らなかったんですし。先生が知らないなら、口にする前に貴方が殴ったんでしょう」
「……」
「先生、痛いです。今更怒らないでください」

痣になりそうな程、上から重なった指に力が込められる。掌の感覚が無くなりそうだったけど、冨岡先生の指の形に跡がつくなら、少し嬉しかった。自分でも不思議だったけど、傷付けられるのが嬉しかったのだ。
……もしかしたら、母もそうだったのかもしれない。母は父に殴られている時笑っていた。笑って涙を流していた。あの時の母の気持ちは今でも理解できない。

「……母は、居なくなるまでは優しかったんです」

力が緩んだ。少しだけ圧が減って血が巡る。
痺れるほど握り締められていた私の手が、今度は冨岡先生の指を追いかける。応える様に彼の手がもう一度、さっきより深く絡まった。
太く硬い、男の人の指だった。変わらずにある竹刀タコ。手の甲は筋張っていて私の薄く小さい手なんて簡単に捕まった。

「希望って、そう簡単には捨てられないんですね」

一人の家は寂しくはなかった。
ただ時折、母が帰って来る夢を見る。私は喜んで部屋の扉を開ける。そして母の顔を見る前に夢は覚めた。
それだけの短い夢に何度心削られた。
寂しいなんて感情はちゃんと、一緒に過ごす友達や家族を持っている人が感じる感情だ。私はもう、母の名前すら思い出せない。
私が呼ぶのはいつもたった一人の名前。

「冨岡先生」
「ああ」

呼んだ名前が返事を連れてくる。青暗い瞳と目線が交差する。
彼の声が耳から心の一番奥まで届いて心臓が高鳴る。体温が上がり世界の解像度が上がっていく。
ずっと貴方の名前を呼んでいた。
何回も虚空に手を伸ばしていた。

いつだって、助けてくれたのは冨岡先生だった。

心臓の奥底で名付けられるのを待っている想いにもう少し待ってと乞い願う。
まだ、もう少しだけ、目を背けさせて。

自然と冨岡先生の手が離れて腕を遡っていく。その手つきがくすぐったくて、熱くて、その「先」を想起させるけれど、彼の瞳に射抜かれてしまえば私に抵抗はできない。
手が肩まで辿り着く。

「……先生」
「……触って、いいか?」

答えは出なかった。出したくなかった。けれど、その必要もないはずだと身体から力を抜いて微笑んだ。
冨岡先生になら、いつどこを触れられても構わない。
シャツの襟元から先は素肌。直に触られれば熱が全身に走り出す。
誰かが側にいることが、こんなにも嬉しい。一人じゃないって、冨岡先生が側にいるだけで、生きてて良かったとすら思える。

「甘えて、いいですか」

返答はなく、ただ強く引き寄せられる。
ジャージ越しに冨岡先生の胸元に顔を擦り寄せ、背中に手を回した。

「美小代」

名前を呼んで、頭を撫でて、溶けてしまいそうな程に甘やかして。
心臓の鼓動が聞こえる程密着して、熱い体温に思考も蕩けていく。

このまま溶けてしまえばいい。全て忘れて楽になれたら。
それはきっと、とても幸せな夢なのだろう。



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