雅治が朝から口をきいてくれない。まあそれは特段珍しいことでもなく、彼は何か機嫌を損ねるようなことがあると無言の抗議をする。よくあることだ。いつもなら一応、何かしたっけかなぁと原因を考えたりもするが、今日は少し事情が違う。そんな些細なこと……失礼、重要なことであっても考える余裕がない理由がわたしにはあったのである。
「ブン太、聞いてくれる? スマホがついに壊れまして」
「あーなんか電源ついたり消えたりとか言ってたもんな」
「そうなの、朝起きたらお陀仏。うんともすんとも言わないの。契約して2年も経ってるし、まあちょうど替え時といえば替え時なのかなぁ」
画面は真っ黒のままでシーンとだんまりを決め込むスマホを机の上に引っ張り出すと「写メとか全部消えたわけ?」とブン太がそれを指で摘んでしげしげと眺めながら尋ねてくる。まだお昼休みだというのに教室には人がちらほらしかいないのは、次の授業が移動教室だからである。わたしも早く移動しなくちゃいけないんだけれども、いかんせん寒いので、このぬくぬくとした教室からはギリギリまで出たくないというのが本音である。そのためなら少しくらい授業に遅れたって構わない。何かを得るためには何か犠牲が必要なのだ。
「まあ消えたけどほぼ雅治といる時に撮ったものだし、共有もしてるし、雅治が後から送ってくれるかなーっと。……あ、でさぁ。その雅治なんだけど」
なんか朝から機嫌めちゃくちゃ悪いんだけど何か知ってる? と訊けば、ブン太はふとわたしの後ろを見て「本人に訊けば?」と指差す。振り向けば、そこにはむすっとわたしを見下げて立っている雅治の姿が。仁王雅治よろしく仁王立ちである。なんてふざけたことを言っている余裕もないくらいに、雅治は見るからに怒っている。いつもみたいに泣き喚いて駄々をこねるパターンではなく、不機嫌を隠すこともなくわたしをじいと見つめていた。ブン太はただならぬ気配を察知してか、俺トイレ、と抜けてしまう。待って、そばにいてくれ。そんなことをうっかり口に出せば恐らく雅治の怒りに油を注ぐ行為に他ならないので、仕方なく一人で雅治に向き直った。その間も彼はなにも言葉を発さず、視線も逸らさずである。
「……雅治なに怒ってんの」
「メール見とらんのはスマホが壊れてたから?」
「うん、そうだよ。だから無視してたわけじゃないしもしそう思って怒ってるなら、許して?」
なんだ、メールか。でも、雅治がメールを無視したくらいでこんなに怒ることはない。現に「それはそうとしても、他に謝ることがあるじゃろ」とわたしの謝罪は一刀両断されてしまった。
「だからなに怒ってんのって訊いてるじゃん」
「ほんとにわからん?」
「わかんないから訊いてるんだけど」
「そ、わからんならええよ」
「……全然いいって態度じゃない。言ってってば」
「もうええよって言っとるじゃろ」
人も疎らな教室で静かに言い合いを続けるわたし達の異変に、まわりの人も気が付いたらしい。少しだけざわつき始めた。いつも暑苦しいくらいにいちゃいちゃしてるのに、という声すら聞こえる。わたしはいちゃいちゃしてるつもりはない、雅治がくっついてくるだけだ。
なんだか段々こちらもイライラしてきて、はっきり言いなよと強めの口調で雅治を圧すと、雅治はついにどかんときてしまったようで「あったまきた!」と叫んだ。
「こんな大事なこと忘れてもうてるひなちゃんなんてもう知らんぜよ! 嫌いじゃ!」
嫌い、というワードが雅治の口から出た瞬間、さっと体温が一気に下がる感覚が全身に広がっていく。自分でも驚くくらいに低く冷たい声で「そう」と、一言口から零れ出た。その瞬間、怒り一色だった雅治の瞳がゆらりと揺らぎ、見る間に焦りへと変わり、ひなちゃん、と早口でわたしの名前を呼んだ。
「なんだかよく分からないけど、雅治がわたしのこと嫌いなのは分かったよ。ごめんねきっとわたし、何か忘れてるんだろうねぇ」
「ご、ごめ……」
「なんで謝るの? 雅治はわたしに謝ってほしいから、そんなに怒ってるんでしょ? それでもわたしがバカでなーんにも思い出せないから、嫌いになっちゃったんだね」
わたしに非があるんだろうことは分かるけれど、原因が分からなければちゃんと謝ることもできないのに。雅治は自分で考えろと言わんばかりに忘れてるならいいの一点張りだった。挙句の果てに「嫌い」である。わたしが悪いのはよくよく分かってる。それに、嫌い、なんていつも雅治が泣きながらよく発する一言だ。それでもなんだか、あんなに怒っている雅治にそれを言われてしまうと、どうしようもなく腹が立って、悔しくて。……なんだか、無性に悲しくなって。わたしだって傷付くのだ。雅治は傷付きやすく割れやすいガラスのハートの持ち主だけれど、わたしだって本当は似たようなものだ。うっすら涙の膜が張ってきたのが情けなくて誰にも見られたくなくて、ペンケースと教科書を引っつかんで教室を早足で出る。慌てて雅治がその後を追ってきた。かと思えばわたしの腕を掴んで、少し強い力で隣の空き教室に引き込んだ。
「ひなちゃん」
「……なに」
「ほんとに覚えとらん?」
「…………だから、何を、って訊いてるのにどうして答えてくんないの」
「…………んーもう! この際、日付はええか。なら、この場所なら?」
雅治は窓際の席まで歩いて行って、ひょいっと机の上に座った。カーテンに凭れ掛かり、だめ? と首を傾げる。……ふわふわと記憶が目の前に浮かび上がってくるみたいだった。
好きですと告げる少し震えた声。困った素振りだけ見せて、わたしのことなんて少しも興味なさそうに外をちらりと見た雅治の横顔。今は女の子と付き合う気ないから。そう返された時は、悲しいとか振られたとか、そういう気持ちの前にまず、女の子、とは? なんてそんな言葉遊びみたいな返しをしてしまって雅治を笑わせたっけ。ぜんぶぜんぶ、何があったか、は、
ちゃんと覚えているのだ。それが今日だったなんて思いもよらなかっただけで。
わたしが、雅治に告白した日。恋が叶った日。なんてことのない、でも、大切な記念日だった。
「…………それ自体は覚えてるよ、でもそれが今日だったとか、そんなのは覚えてない……もー……。……ごめん、忘れてて。本当にごめんね雅治」
「…………俺も意地悪だったかもしれんけど、それはちゃんと覚えといて欲しいぜよ」
「むり、雅治が思い出させて」
泣いてしまいそうになったのを誤魔化すみたいに椅子に座って俯く。仕方ない子じゃのぉと笑う雅治の声はすっかり柔らかくなっていて、とろりと耳に溶け込んでしまいそうだった。髪を撫でられて優しく顎を掬われる。
「キスはだめ」
「……なんで」
ぷぅ、とまたしても不機嫌な顔をする雅治は、さっきと違ってとっても可愛く見える。あの頃は本当に、こんな関係になれるだなんて夢にも思わなかったのに。
「嫌いって言ったの、まだ何も訂正されてないでしょ。嫌いな子と雅治はキスするの?」
「…………あーもう!」
かわいい、と堪らない様子で呟いた雅治は、椅子に座って屈んでいるわたしに目線を合わせるように跪いて「世界で一番好き」と微笑む。こんな態度をとってもなお可愛いと言えるだなんて、雅治は変だ。変な子だ。そういうところごととっても愛おしくて仕方がないわたしも大概なのかもしれないけれど。
昼休みの終わりを告げるチャイムはとっくに鳴っていたけれど、あともう少しだけは雅治と離れたくなくて、自分から軽くキスをする。下唇だけを濡らす口付けをくすぐったそうに甘受し、雅治は幸せそうに目を閉じてやわらかなキスをしてくれた。
「来年からはちゃんと覚えとくよ」
「ん、そうして」
ぎゅうと抱き寄せられて、幸せがじわじわ胸に広がっていく。駄目な彼女でごめんね。少しずつ、努力していくから変わらずわたしの隣で笑っていて。まずは手始めにスマホを修理に持って行って、壊れているその間に来てたであろう雅治からの記念日お祝いのメールに返信するのだ。とびっきりの愛をこめて。そんなことを考えながら、愛おしい彼にもう一度、キスをせがんだ。