こんな歳になるまで彼氏がいないと、困るのは女友達と恋バナをする時である。皆が水を得た魚のようにイキイキとお話するのを、私はマンゴープリンをスプーンでつつきながら適当に聞き流す事しかできない。帰り道に自転車を二人乗りして、彼氏の背中にほっぺたをくっつけてみたりだとか、手を繋いでショッピングしたりだとか、あれこれと友達が話すのを聞きながら、ふと気付く。これ、全部蓮二としてることじゃん。皆がドキドキするよねぇ、と頬を赤く染めながら話すような可愛らしい事は、全て蓮二で経験済みである。えっ、なにこれひどい。ってことは私の青春のドキドキが、蓮二に全部奪われたってことじゃん。えええ、えええ…。
「人生にリセットボタンあるなら押したい…」
「そしたらまた同じ人生繰り返すだけだろ」
「蓮二と関わらないように生きる」
「ムリムリ」
鼻で笑う赤也を、わかんないじゃんかと睨めば賄いのたらこパスタを私に渡しながら、赤也は「だってさ」とフライパンを水につける。うちのバイト先の賄いは絶品である。ツナサンドは微妙だけど。
「柳さん無しで困るのはお前だろ」
「蓮二無しでも生きてけるって。現にちゃんとバイトしてるし」
「バイト先探してくれたのは柳さん」
「…うん、まあそれはそうだけど」
私がバイトがしたい!と言い出した時に、此処を紹介してくれたのは確かに蓮二だ。まあ理由は、家からそれなりに近くて赤也がいるからだけど。赤也は蓮二のお気に入りの後輩で、赤也も蓮二になついてるから、何かあればすぐチクるのだ。まじ忌々しい。お客さんにメアド渡された時に、そのメモを破った上に蓮二に報告したのも赤也だった。自分は女の子といっぱい遊んでるくせに、私がちょっとでも可哀想だとは思わないんだろうか、こいつは。
「恋したいよ彼氏欲しいよ青春したいよぉ」
「はいはい。あ、そのパスタ俺のだから」
「え!私のじゃないの…」
「ひなは今日休憩ねーだろ」
「転んでぶちまけちゃえ」
「最低だなお前…そんなんだから彼氏できねーの」
おかしい。それはおかしい。私だって今まで何度も彼氏が出来そうになった事くらい、ある。でも悉く、突然、離れていくのだ。皆。もしかして私、ほんとに性格悪いのかな。頭を抱えて悩み出した所で、チリンチリン、とドアのベルが鳴る。来客だ。
「いらっしゃ、らないでくださいなんだ蓮二か…帰れ」
「客にそんな言い方をするのかお前は」
「ちょ、痛い痛い!」
頭をがしりと掴まれて、堪らず悲鳴をあげれば、蓮二の後ろから可愛らしい笑い声が漏れた。白のワンピースに、ピンクのおっきな花がついたカゴバッグを持った、可愛い女の子だ。もちろん、私の知り合いではない。
「もしかして柳くんの妹ちゃん?かわいいねぇ」
「妹じゃなくて、近所に住んでる腐れ縁だ」
「ってことは幼馴染ちゃんだ!かわいい〜」
どう考えても、自分の方が可愛いって言ってる時の顔と声です、本当にありがとうございました。なにこれ、蓮二の彼女?趣味わるっ。あからさまに嫌な顔をしながら席に案内して、すぐにバックヤードに逃げる。赤也になんか蓮二が変な女連れてきた、と報告すれば、たらこパスタに粉チーズをたっぷりかけながら「頭のネジ飛んでそうな女?」と問い掛けてきた。
「2、3本は」
「あ〜…知り合い。一応」
せめてもの抵抗とでもいうように一応、を付け足して赤也は俺が行こっか?と食べ掛けのパスタを棚に置いて、ホールへと出てくれた。やな奴だけど、こういう時には気を遣ってくれるから、赤也と友達で良かったと思う。と、思えば戻ってきて「やっぱお前が注文聞け」と私に伝票とトレーを押し付けた。赤也あとからシメる。
「ご注文お決まりですか」
「私ね、ロイヤルミルクティがいいな」
「蓮二は抹茶オレでいい?」
一刻も早く立ち去りたくて、イライラしてるから伝票の字も汚い。なんでこんな女連れてくんの、という意味合いを込めて蓮二を睨んでも、蓮二は知ったこっちゃないとでもいうように、本を開くだけだ。
「柳くん、いつもこのお店来てるの?お気に入り?」
人も疎らな店内では、会話も筒抜けである。キッチンに入ってコーヒーを点てていれば、ふとそんな声が聞こえた。
「いや、中に入るのは時々だ」
「どゆこと?」
「いつもは外であがるのを待ってるだけだから、中まで入るのは早く来すぎた日くらいだな」
「えっ、今の子の?柳くん、迎えに来てあげてるんだ。優しいね」
優しいっていうか、本人からすればただの迷惑なんですけどね。心の中でそう付け加えれば「もし私が彼女になったら、迎えに来てくれるの?」という声を聞いて、私は思わずコップを手から滑らせそうになった。自信満々のその声色に、素直に拍手を送りたい。
「俺は、本来面倒な事は嫌いなんだ」
「うん」
「…分かるだろう」
それこそ面倒そうな響きをもった声に、それでも女の子ははてなマークを頭上に浮かべていた。はいはい、めんどくさがりなのに私なんか迎えに来させてすみませんね。明日から来なくても大丈夫ですよ。絶対これ後から言ってやろ。まあ結果は目に見えてるけど。クリームを盛り付けた所で、店長からあがっていいよと声がかかる。これをあの女の子の元に持って行かないでいいと考えると、気持ちがふっと楽になった。どうして私、今日こんなにイライラしてるんだろ。別に生理近いわけでもないのに。
裏口のドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのは最悪の光景だった。いつも通りのガードレールにもたれ掛かる蓮二の腕を引いて、背伸びをする女の子。唇と唇が触れ合う、まるで、映画のワンシーンみたいだった。女の子は私を見て勝ち誇ったような笑みを浮かべ、蓮二へと向き直り「また明日ね」と手を振った。う、うわああ、あと数分、いや数秒ドア開けるの遅かったら良かったのに。最悪。バイトの疲れと相俟って、一気に体が重くなる。何も言わない蓮二は、ぐいと私の手を引いて帰路に着いた。
絶対、拒否できたじゃん。付き合ってもない女の子とキスするの、最低。言いたい事は沢山あるのに、それが言葉になって出てきやしない。怒りを込めて石を蹴れば、溝に落ちてぽちゃんと水を跳ね返す音だけが聞こえた。
「…あんなのが彼女とか、趣味悪いね」
言葉を選ぶに選んで振り絞ったのが、よりによってこれだった。22時を過ぎれば住宅街はしんとしていて、どこもかしこもシャッターを閉めて明かりさえ遮断している。月は隠れていて、街灯だけが私達を照らしていた。
「彼女?」
「だって、そうじゃないの?わざわざ連れて来るくらいだし」
「馬鹿言うな。ついてこられただけだ」
「迷惑そうに言ってるけどさあ、キスされて怒らないって満更でもないんじゃないの。バカっぽいけど可愛いし、まあ、うん」
何を言いたいかすっかり忘れて口をつぐめば、蓮二も何も言い返さなかった事で沈黙が生まれた。今まで言い合いなんて腐る程してきたけど、ここまでムカムカするのは初めてだ。
段々と自分の家が見えてくる。私の家の、三軒先が蓮二の家。無言が気まずくて若干早歩きになっても、蓮二は難なく着いてくる。ああ、もう、イライラする!
ドアへと続く階段へと足を置いた所で、急にぐいと腕を引かれた。なに、と怒鳴ろうとした言葉が、呑み込まれる。一瞬、何が起こったか分からなくて、私の脳はただ腕の痛みだけを認識していた。それから、唇に触れる熱。今までのどんな時よりも近い、蓮二の顔。ぬるりと入り込んでくるのが舌だと分かったのは、私の舌が絡め取られ軽く吸われた時だ。寒気じゃない何かが背中を駆け上がって、ぞわりとした。息が出来ずに苦しくてパニックになった私は、蓮二から離れようとする。けど、余計に強く抱き寄せられるだけだった。苦しい、死んじゃうかもしれない。他人の熱が私の中を侵しているというのは、本当に変な感じだ。ぽろりと涙が零れてきて、んん、と呻きながら離してと懇願する。空気が足りなくて、頭がぼんやりするのだ。感覚が無くなって、うまく立てない。実際、唇が離れてようやく酸素を肺に取り込んだ私はきっと、蓮二の支えがなければ転んで階段で頭を打っていただろう。
「……えっ?」
沈黙を破った第一声は、私のそんな間抜けな声だった。
「い、今のなに?えっ、ええ…はあ?」
「いきなりこうされて、お前は怒れるのか?」
「怒るっていうか…えっ?」
「そういう事だ」
そういう事だじゃないよ。私、うまく立てないんだけど。まだ苦しいんだけど。なんかクラクラして、しかもあろう事か、ドキドキしてるんだけど、蓮二なんかに。つまり、キスをいきなりされても怒れないだろう、って事を身を持って学んだ…いやいや違う、そういう事じゃない。頭を抱えながら、ぺたんと階段に座り込んで蓮二を見上げれば、当の本人は至って涼しい顔をしていた。
「まだ何かあるのか?」
ここまでしれっとされると、私が考え過ぎなんじゃないかと錯覚するが、私は何も悪くない。私は初キスを奪われただけの被害者で、蓮二が加害者。そういう事である。そう考えると沸々と怒りが込み上げてきた。
「さいってー!ほんと最悪、最低…うわあああん、私にだって理想くらいあったのに!最悪!返せ!今すぐ返して!」
「返す?」
喚く私の唇を親指の腹でなぞって、屈み込んだ蓮二はもう一度、私に口付けた。今度は軽く触れるだけのキスで、呆気にとられる私に「返し方は分からないが、これでいいのか?」だなんて何もかも分かったような顔で聞いてくる。信じらんない、信じらんない!
最低、画鋲踏め!転べ、階段からずり落ちろ!思い付く限りの罵倒の言葉を投げつけても、蓮二は愉しげに笑うだけだ。さらりと髪の毛を撫でてつむじにキスを落としたかと思えば、蓮二はそのまま私の家を後にする。私はと言えば、階段に座り込んだままで蓮二の後ろ姿に、ありったけの罵りの言葉をぶつけてやる事しか出来なかったのだ。