「ひなちゃん、良かったら映画行かない?」
野瀬くんとは必修の英語でいつも隣の席に座っていて、男の子の中では割と喋る方だったけども、まさかデートに誘われるなんて思ってもみなかった。貰った前売り券をしわしわにならない程度にぎゅうと握り締めて、丁寧に財布の中へとしまう。男友達のくくりでいつも接していたから、二人きりで遊びに行くなんて考えてもみなかった。にやけそうになる口元を隠すようにペットボトルに口をつけながら、食堂を目指す。
「蓮二」
「遅かったな」
「友達と話してたの」
昼休みの食堂の混み具合は、異常な程である。蓮二がとっておいてくれた席に日傘と鞄を置いて、財布と携帯だけを手に券売機へと向かう。
何食べようかなぁ、と日替わりランチにまでしっかり目を通しながら、美味しそうに撮られたメニュー表をじいと眺める。冷たいおうどん、と決めて券を買ってからの並ぶ列が、これまた長いのだ。
「水曜って午後の講義あるっけ?」
「4限に国際法。何度目だ、それを聞くのは」
「だって人の時間割とか覚えらんないよ」
お盆を蓮二から受け取りながら肩を竦めれば、お盆で軽く叩かれた。
「じゃあ4限始まるまでさ、英語教えて。課題出たけど全く分からなくて。明日に提出なの」
「ひなは3限があるだろう」
「自主休講する」
そう言えば、またお盆で叩かれた。友達はちらほら上手い事サボっているというのに、私は蓮二のお陰というかせいというか、大学に入学してからまだ、一度もサボった事がない。皆勤である。当たり前でしょうがとお母さんは言うが、当たり前の事が難しい世の中なわけであって。まあなんだかんだと文句を言いながらでも、講義にちゃんと出席してるんだから良しとしてほしい。
ようやく購入した券を食堂のおばちゃんに渡して冷たいうどんに引き換えてもらい、席に着く。ご飯を食べるのにもこんなに苦労しなきゃならないなんて、まったく、高校時代のお弁当が懐かしい。そんな事を思いながら割り箸をぺきんと割ると、蓮二は鰤の照り焼きを解していた。
「お味噌汁ひとくち」
「うどんに合うのか?」
「食堂のお味噌汁好きなの。濃いめだし」
「俺はあんまり」
「じゃあなんで飲んでんの。ちょうだい」
「それとこれとは別だな」
ひとくち飲んだ所で椀を取り上げられて、ちぇ、と溢してうどんを箸で摘まむ。ついていたネギを全部入れながら「鰤も食べたい」と言ってみれば蓮二の口から溜め息が零れた。
「人の食べているものを欲しがる癖が、いつまで経っても抜けないな」
「だって美味しそう」
あーんと開いた口に蓮二のお箸が入るのと、誰かが「ひなちゃん」と私に声をかけたのは、ほぼ同時の事だった。口の中に鰤の味が広がる。口を手で隠してもごもごしながら振り返れば、そこにはお盆を持った野瀬くんが立っていた。心なしか、目を見開いて動揺しているようである。
「…野瀬くん?」
「……ひなちゃんって、彼氏、いたんだ」
「えっ?…これ?これは、んぐ、」
ただの幼馴染、と言おうとした口を蓮二のハンカチが押さえつける。蓮二が部屋でいつも焚いてるお香の香りが鼻を掠めた。
「口元、ついてるぞ」
ふと野瀬くんを見やれば、彼は蓮二と私を交互に見つめていたかと思うと、眉を下げて「映画、迷惑なら言ってくれれば良かったのに」と苦笑した。どういう意味、と問い掛けようとした所で、野瀬くんは友達に呼ばれて足早に向こうの方の席へと行ってしまった。えっ、もしかして、もしかして、映画の件、無しになった、とか。呼び止めようと伸ばした手は、虚しく弧を描いただけで膝に収まる。
「…蓮二、私、何かしちゃったのかな」
「恐らくな」
蓮二は何事もなかったかのように、白米を口に運んでいた。あああ、折角彼氏出来るかもって期待したのに、現実って甘くない…甘いのはプリンだけだ。
ぐす、と鼻をすすれば「それより映画とは何の話だ?」と痛い所を突いてくる蓮二に、別になんでも、と言おうとしたが、まあいつもの如く多分隠し通せるはずもないので、素直に洗いざらい話した。私は学ぶ女である。全てを聞き終えた蓮二は、成る程な、と少しばかり口元を緩めただけで、すぐに食事に戻ってしまった。あれ、怒られなかった。なんだ杞憂だったな。
そして私はうどんをちゅるりと吸い込みながら、どこが悪かったのか、何が悪かったのかと真剣に自分の言動を思い返してみるのであった。