7、月が綺麗ですね
「桃瀬さん、食事でもどうですか?」
やっと帰れる、と喜んで荷物をまとめていた所で、一つ上の先輩に声をかけられた。この先輩のお誘いは幾度となく断っているので、さすがにそろそろ断りづらい。微笑みを絶やさない彼に、素敵なお誘いですね、と頷けば余程今まで断り続けていたのを根にもっているのか、それはまたお得意のお断りのサイン?と問い掛けられる。なにこいつきめぇ、という感情を隠しつつ笑みを貼り付けて「是非ご一緒したいです」と言えば彼は満足そうに目を細めた。ああ、めんどくさいなぁ。
幸村くんに連絡しようとして、そういえば彼のメアドを知らない事を思い出す。我が家には家電もないし、まあ朝も一言も喋らず出社してきたし、別にいいけど。なんであんな子の事気にしないといけないんだ。子供でもないんだし勝手にするよね、多分。
「乾杯」
「…乾杯」
チン、とグラスが品の良い音を立てて注がれたワインは軽く波打つ。白、そんなに好きじゃないんだけどな、なんて思いつつ一口含んでグラスを置くと、一度こうして桃瀬さんとお話したかったんだ、と話し掛けられて「はあそうですか」と気のない返事を返しながら、サラダを食べる。やっぱりシーザーは美味しいな。今度ドレッシング買おう。
「不躾かもしれないけど、桃瀬さんは今付き合ってる人とか…」
「いないです」
「良かった」
含み笑いを向けられて、しらーと目を細めつつもトマトをフォークで刺す。断るべきだったかな今回も。この人めんどくさいんだよなぁ。
イケメンとか爽やかだとか騒がれてるけど、まあ改めて見てみると幸村くんの方が綺麗な顔かも。じい、と見つめていると「どうした?」と微笑まれてぶんぶんと首を横に振った。
「桃瀬さんも入社してしばらくになるけど、もう慣れた頃?」
「あーまあ…」
「俺の目から見ても桃瀬さんは頑張ってると思うよ」
「ありがとうございます」
褒められれば素直に嬉しいので、そこはお礼を言っておく。まだ何やら話していたけども、隣の席に運ばれるお肉に思わず目移りした。退屈だな。お家帰って幸村くんと喋ってた方が、よっぽど楽しい。グラスに映る自分の顔を見つめながら、本当に失礼な程に楽しくなさげな自分に、笑みさえ漏れる。一気にワイングラスの中身を煽れば、やっぱり私の好きな味じゃないな、とぴりぴり痛む舌に辟易した。
「…なんでいるの」
「うわ、酔ってる。最悪」
幸村くんは今日もまた、駅で私を待っていた。今日は、いつもよりずっとずっと遅いのに。雨も降ってないのに。足取りは少しだけふらついていたけど、意識ははっきりしていた。
「飲んできたの?」
「…うん」
「誰と?男?」
幸村くんは私の鞄を持って、ぽんと優しく背中を押す。相変わらず酒癖悪いね、と笑う声にどことなく違和感を感じながらもゆっくりと歩き出せば、ふらつく私にスピードまで合わせてくれて、なんだか惨めな気持ちになった。なんだろう、この感情。胃が痛い。違う、もっと深いところが、痛い。
「…別に幸村くんには関係ないじゃん」
「うん、関係ないよ。俺が知りたいだけ」
そう言ってまた私の背中をぽんと叩く手に、何故か涙が出そうだった。なんだろう、この感情。なんなの、苦しい、痛い。
「―――私さぁ、付き合ってくださいって言われちゃった。出世コースまっしぐらな先輩に。ちょうイケメン。ちょう優しい」
「…ふうん」
ふうんって、他に何かないの。あんた昨日誰とも付き合うなって言ったじゃん、あれは嘘か。
言いたい事は沢山あるのに、喉に半分だけ蓋がされたみたいに素直な気持ちが出てこない。付き合っちゃおうかな、なんて皮肉染みた言葉が口から漏れる。幸村くんは、何も言わずに私の隣を歩き続けるばかりだ。腹が立った。幸村くんにじゃない、何に対して腹を立てているのか自分でも分からない。私はぴたりと歩みを止めて、真っ暗な夜道で幸村くんの背中に「うそつき!」と叫んだ。近所迷惑だとか、そんな事を考える余裕もなく。
「彼氏なんか作らないでって、言ったじゃん…そう言ったのは、幸村くんじゃん、」
しかも、何を言っているのか自分でも整理しきれていないのだ。ただ、えぐえぐと幼い子供のように泣きじゃくっていると、幸村くんの手が耳を擽るようにするりと伸びてくる。
「なんで泣いてるの」
「…幸村くんがうそつきだから」
「……酔っ払いに付き合うの、めんどくさいな」
「酔っ払ってないっつの、ばーか。幸村くんのば、」
幸村くんのばか。そう言おうとしたのに、不意に口付けられた事で私の思考は完全に停止する。目の前にある幸村くんの顔は、やっぱり、誰よりも綺麗だ。
「…俺が彼氏作らないで、ってお願いしたんだから、それを桃瀬さんが守るのは当然だろ?可愛いペットからのオネガイなんだから。まあ、何度もオネガイするほど俺は馬鹿なペットじゃないけど」
囁くような幸村くんの声が、じわりと耳へ溶け入るようだった。甘くて、どことなく私を押さえ付けるような高圧ささえ含まれている。
「オネガイが聞き入れてもらえないなら、噛み付くくらいの気でいるよ」
「……っていうかもう、噛み付いて、えっ、ええっ…」
「さっきのは甘噛み程度」
そう言って笑った幸村くんに、もう一度口付けられそうになって慌てて掌で防ぐと、不機嫌そうに目を細めた幸村くんががり、と噛みつくもんだから私はぎゃあ、と可愛げもくそもない声をあげた。
「し、躾のなってないペットだな!」
「躾も出来ない駄目な飼い主は桃瀬さんだろ」
「飼い犬に手を噛まれるってやつか…」
「まんますぎ」
私の言葉に幸村くんはぶはっと下品に吹き出して、肩を震わせて笑い始める。散々笑った後で、すうと息を吸った幸村くんがまるで息を吐くように「好きだよ」と呟いた。え、と思わず聞き返せば、幸村くんは「二度も言わせるの?」と肩を竦めて呆れたように笑う。さらりと私の髪を掬う夜風は、仄かに秋のにおいを含んでいて。
「好きだよ、桃瀬さんのこと」
その空気をめいっぱい吸い込んで、私は幸村くんから目線を逸らせずにいた。月明かりに照らされた幸村くんは、並な言葉だけども、とっても綺麗で神秘的にぼんやりと闇の中に浮かんでいるようである。
7、月が綺麗ですね
夏目漱石さんは、本当に素敵なセンスをお持ちである。
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