とある楽園の天使の話



花を名前の墓に添えた。そして、果物を置いた。これは最早日課だった。楽園は、いつだって美しく優しい風が吹いている。いつだって、綺麗な花が咲き乱れ、柔らかな日差しは暖かい。春夏秋冬の四季はないが、穏やかな時が流れる。此処は、永遠の幸福が、平穏が約束されている。



穏やかで悠久なる時の流れ、我はずっと生きてきた、名前の居なくなった日常は随分、寂しいものだ……。他の天使が、無駄な時間を過ごしたなと罵っても、我は間違ったことだとは思わない。人間との決定的な違いは此処だと思う。我たちにとっての一瞬は人間の一生なのだ。たったの数十年。名前も同じだった。もう、名前という人間は居ない。いや、同姓同名がいないとは言い切れないが我の愛した、人間名前はもう居ない。今まで、人間がいくら死のうと我には興味がなかった。我に直接関係もなかったし、そもそも下界の者になど興味は皆無だった。



此処に来れば、名前とのことを思い出す。……どれも良き思い出だ。我は目を瞑って、昔に思いを馳せた。「……セインさん。また、来てくれたんですね」名前が我を見て、笑みを浮かべた。記憶の中の名前は美しく笑う。最初であったときは人間の子供、だと思っていたのに……人間の成長は早い。我より少し高かったと記憶している。それが少し悔しかったが、子ども扱いされるのが嫌でそれにはあえて触れなかった。「……ああ。魔王復活までまだ暫く時間があるからな」「そうですか。怖いですね。魔王って……」その話を聞いて、名前は少し身震いをした。魔王を人間は見たことがないのだろう。名前はどんな恐ろしい化け物を想像したのか、少し興味があった。しかし、直ぐに名前は思い出したように声を上げた。「あっ!でも、私が死ぬまでには復活しませんよねー」名前はこの時代に生まれてよかったーと、大げさに喜んだ。確かに……今の人間の寿命を考えると、まだまだ先の話だな……と思った。そして、我は名前も死んでしまうのだな……と改めて思い知らされた。



名前には流れる時、我には流れない時。いつか、我の目の前から消えてしまうのだろうか?死ぬ、消える。それは当然のことだ……名前は人間なのだから。しかし、悲しいわけではなかった。それが当たり前のことなのだから。そう、自分に言い聞かせ続けていた。悲しくなどない。そう、悲しくなどない。我は名前が居なくなっても変わらない、何一つ変わらない。



名前は生涯ずっと一人だった。言い寄る男が居なかったわけではない。全て断っていたのだ。名前は笑っていっていた。「何故だ」我の短い問いかけに、名前は寂しそうな笑みを浮かべた。何かが胸を突き刺した。初めて感じた。息が詰まるようなそんな苦しみを。今、思えばこれは人間で言う“恋”というものなのだろう。愚かな自分は、何もしらない。人を愛しいう感情も知らなければ、愛も知らない。全てを知った気になっている愚かな天使。「……セインさんとお話しているほうが楽しいから、ですかね?」前の我ならきっと、くだらない。とかいったと思う。なのに我の心は嬉しい。と感じてしまった。何故?そう、問われるのならば……名前に“恋”をしていたからとしか言いようがない。思えば、このときあたりから名前のことばかりが頭を占めるようになった気がする。



「ほぉ……ならば、我の花嫁にでもなるか?」我が少し本気で言ったら名前は益々、笑った。目には笑いすぎたのか、少し涙が溜まっていた。我はその様子を見てムッとしてしまった。そんなにも笑うことはあるまい。「ははっ……あ、すみません。面白い冗談ですね」そんな我を見て、名前が謝った。名前は素直な人間だからすぐに非礼を詫びる。「……冗談など、では……。貰ってくれる男がいないのでは不憫だと思ったからだ」「あはは、大丈夫ですよぉ。それに……セインさんとは違って私には……」そこから先を聞きたくなくて我は思わず、名前の体を強く抱きしめた。この先の言葉を我は知っている。幾度も、生き物の……人間の死と生を見たから。今まで生きてきてこんな、気持ちになったのは初めてだった。いつか思った「悲しくなどない」が嘘になったのだ。



「言わなくていい」「……はい」自分の背だけならまだしも、風貌……気がつけば全て、追い抜かれていた。見た目だけならばもうそろそろ、姉弟に見えるかもしれない。息遣いが、とても近くで感じられた。ああ……大丈夫、生きている。


また、少し時が流れる。名前が自分の髪の毛に白髪が混じっていると嘆いていた。座って必死に鏡とにらめっこしていた。我の目と鏡越しに名前の切なげな目がかち合った。「ああ……どうして、私だけ年を取るんでしょうね。セインさんがいつの間にか小さい」「私の容姿が変わらないからだ。このような姿をしているが、名前よりもずっと長い時を生きている」「……そうでしたね。見た目が子供のままだから、つい……」苦笑して、我を愛しげに見つめて、目を細めた。それはまるで我が子を見るようなそんな暖かな眼差しだった。確かに……見た目だけならば親子に見えるかもしれない。「年は……取りたくないものですね……セインさんと離れていくのが怖いのです。貴方が変わらないから、私はいつか死んでしまうのが怖いのです」「怖い」そう名前は言った。嘘偽りのない、人間の言葉だ。死は終わり。死んだ人間は喋らない。だから、この先のことを知るものもいない。人間は未知のことを恐れる。どうしたら、名前の恐怖を取り除けるのか、わからない。名前と過ごした日々も、全てのことが初めてだらけだったからだ。「……大丈夫だ。我は……此処にいる」名前の手を握ると名前は笑って「有難う」と私の頭に手を乗せた。完全に、我を天使と忘れているような行動だ。昔の我ならば怒って、その手を払いのけていたと思う。だが、何故か……そんな気すら起きなかった。随分と我もおとなしくなったものだ。でも、悪い気はしない。



名前が病気になった。ついこの間、元気だった人間がだ。人間の医学の進歩はまだまだだ。あともう少し名前が遅く生まれていたのならば助かっていたのだろうか。小さな病院の片隅に、名前が居た。医者は長くないだろうと我に、宣告した。孫とでも勘違いしているのか。勘違いも甚だしい。名前と散歩や、買い物にも行っていたのだが……それすらも出来なくなってしまった。名前は目を細めて、我を見つめた。「ああ、セインさん。こんにちは」点滴をさしている腕は痛々しい紫色に変色していた。慈しむようにその腕をなぜた。いつの間に名前はこんなに痩せたのだろうか。骨と皮だけのようにすら感じる。「痛くないか?」「いいえ。大丈夫ですよ」我に心配をかけまいと、笑顔を作った。我にはわかる。死が近いと。確実に近づいてきて、名前の息の根を確実に止めるだろう。それは、我にはどうしようもないことだった。……人の生死を変えるのは許されない。ならば、我には何が出来よう?名前の傍にいてやることしか出来ない。そんな無力な自分が、惨めで、虚しかった。「セインさん。もう、いいんですよ」名前がポツリと呟いた。しわがれた声、昔に聞いたあのソプラノは面影もなかった。「何がだ?」「……もういいんです。私、幸せでした。確かに私には子も、夫も居ませんでした。でも、貴方と過ごした日々は素晴らしいものでした。有難う。でも、もう此処へはこないでください」そういって、我の目を見据えた。強い意志を持ったあの目。人間が大きな決意をしたときに見られるものだった。冗談だと思いたかった、だけど本気だということがわかった。平静を装うって、言葉を紡ぐ。



「何を言うかと思えば……。くだらないことを」今まで一緒だったから、我はお前を受け入れた。それはお前もそうだと思っていた。なのに、お前は違うということか?急に突き放されても、この思いは簡単に冷めそうもない。「いいえ、くだらなくなんかないです。お別れです。お願いです、さようならをしましょう」「……それが、お前の本当の望みならば、それでもいい」「……いいえ、辛いから、です」そういって、辛そうに顔を歪めた。「これ以上、弱っていく姿を見られたくありません。もう、先が短い私のそばにいる必要もありません」だから、とまだ言葉を続けようとする名前の体をきつく抱きしめた。「もういい、我と行こう。ヘブンズガーデンへ、行こう」一緒に、楽園で永遠に楽しく暮らしたい、苦しみも痛みも、悲しみもないそんな楽園で。名前は歌を歌ったり、部屋でのんびりと日永一日を過ごせばいい。名前と二人で居られたら、それでいい。名前が泣かなくて済む、そんな世界にいきたい。「……セインさん」そういって顔をくしゃくしゃにした。酷い顔だ。でも、きっと我も今酷い顔をしているだろう。「……はい、連れて行ってください。楽しみにしております」そういって、我の手を強く握り締めた。ああ、行こう、必ず共に行こう。



しかしこれが、最後の会話だった。皮肉なことに我とあった次の日に容態が悪化してしまって二日後に名前は鼓動を止めた。あの日、何としてでも名前を連れ出すべきだったのだ。天使とは名ばかりで、我は地獄の悪魔なんかよりもたちが悪い死神なのかもしれない。誰も居ない病室には名前が生きていた証だけが残っていた。我は、名前の亡骸を抱きかかえて、ヘブンズガーデンへと戻った。約束したからだ。名前を連れて行くと約束したからだ。これで、もう名前が苦しむことはない。永遠にこの楽園で眠ればいい。



ゆっくりと目を開けて、座り込んだ。「必ず、我が守るから。誰も名前の眠りを妨げないようにするから。だから、安心してくれ」墓に添えた花がそれに答えるように、風に吹かれ揺れる。「お前が、居なくなって……ずいぶん長いときが経ったが……我は、お前を愛していた。それはこれからも、変わらない。名前だけを……っ……」目頭が熱い。なぜ、人なんか愛してしまったのだろう。なぜ思いは消えないのだろう。時が癒してくれるなんて……嘘じゃないか。全然、癒えないし、忘れられない。ああ……なのに、名前が……人間が一人居なくなったところで、この世界は何一つ変わることはない。ただ、穏やかに回転を続けて……そして、ゆっくりと、少しずつ崩壊していく。



楽園は相も変わらず、美しく光が満ち溢れていた。

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