水の篝火




彼女が目が醒めるまで俺は呼吸が下手くそに成っていた。ボーっとする時間が多かった。それほどまでに怖かったのだ。名前というただ一人の女性に此処まで心を破壊されるとは思っていなかったのだ。いつも行っている日常の一つに組み込まれているから、彼女がいない、それだけでもぽっかり心に風穴があいた様にそこがピューピュー風を通している。名前は強かった。故に、戦い方、己のやり方に自信があった。だからこそ、慢心していたのだろう。だから、不意を突かれて大怪我を負った。名前の戦力がなくなるのは本当に痛手だった前の戦。起きていたならば名前に責任が問われていたかもしれない。それくらい名前は強かった。



だけど、俺は名前を責める気に成れなかった。それどころか、早く起きて俺の名前を呼んでほしいと願っている自分がいた。普段の様に泰然とした態度で居たいのに、名前の名前を、容体を聞くだけで呼吸の仕方を忘れてしまう。その場に膝をついて、ハァハァ、と情けなく荒い息を吐くだけだった。彼女が起きたのは一週間後だった。強く頭を強打しているとの事だったが、まさか……「貴方は誰ですか」「……えっ、名前……冗談、だよね……?」俺の情けない唇が歯がカタカタ震えている。その言葉ですっかり舞がっていた心も、温かかった体温も冷え切っていて、冷たくなった手を握りしめた。爪が、刺さり痛かった。



「名前殿が?」孔明に相談してみた。助けてほしかった、名前には片思いだったが、存在そのものが消されてしまうと成ると悲しくて執務も手につかない。孔明は羽扇で口元を隠して何か思索しているようだった。それから暫くして。「名前殿が戻るかわかりませんが、取り敢えず好きだったもの等を与えてみて下さい。思い出すかもしれませんよ」そう言って頑張ってくださいね。と付け加えられた。どうやら、彼には全て見透かされているようだ。最後の言葉のそれが顕著である。



「ほら。名前の武器……だよ。名前は、鍛錬している時が一番輝いていたからね」「……そうなんですね。徐庶殿、有難うございます」そう言って、己の武器をグーパー握りしめたり緩めたりしていた。次に大好きだった桃饅頭を差し出す。「桃饅頭……これも好きだったものだよ。城下で買ってきた。温かいうちに食べるといい」そういうと小さくお礼を述べてからパクリと一口、食べた。そして、頬を緩め破顔した。戦場に居る彼女とは別人そのものだった。まるで、ただの女性みたいだった。こんな一面もそういえば、あったな、と思い返す。ただ、武芸に関しては慢心していただけで、花を愛でたり、甘い物が好きだったり、着物や髪飾りを選ぶのだって好きだった。そうやって、どんどんと本来の名前を取り戻していった。といっても、俺が与える情報の中の名前だったけれど。



あれから、三か月の時が過ぎた。やはり、武に関しては群を抜いていた。直ぐに今までどおりの動きをするようになったのだ。ただ、矢張り俺の事を思い出してくれなかった。それが酷く索漠と心を荒れさせた。あれだけやってきたのに……何で、俺の事を思い出してくれないのだろう……、矢張り、名前にとって俺という存在は脆弱な者だったのかもしれない。そう思い諦めかけて鍛錬所から出て行こうとしたところ、名前が武器を置いて駆けてきた。「徐庶殿!」「名前……もういいのかい?」「ええ。それより、伝えたいことがありまして」



何だい?と問うと少し恥ずかしそうに薄桃色の唇から言葉が発せられた。「徐庶殿が私に沢山、私の記憶を取り戻す手伝いをしてくださったおかげで次の戦にもでられそうなんです。有難うございます」「それは君自身の力だよ、俺の力じゃない……その武は間違いなく名前の物だ」そういうと首を全力で横に振った。「違います!徐庶殿は献身的に私に教えてくださりました。きっと、私、そんな優しい徐庶殿の事、忘れる前から好きだったんだと思います……迷惑だったら忘れてください」



なんて、見事なくらいに俺の後ろ向きな思考回路を吹き飛ばすだけの威力があった。俺が献身的だったのは、名前を好きだったからだ。もう此処は男の俺が女性に告白だけさせておいて、知らんぷりなんて出来るわけがない、意気地なしの俺がなけなしの勇気を振り絞って「名前が好きに成る前から俺は、君が好きだったよ」と小さな微弱な風にも負けてしまいそうな程の声量で言ったのだ。記憶は戻らなくてもいい、ただ、俺の隣に居てほしい。


Title 彗星


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