暗殺者パロ | ナノ

ヒトリノヨル

とても静かな夜だった。窓の外から柔らかな月の光が差し込む以外、灯りといったものは特にない。人の気配もすっかり消えて、遠くから時折獣の遠吠えが聞こえてくるだけ。

そんな静かな夜なのに、何故か政宗の意識は覚醒した。覚醒した、という表現は些か語弊があるのかもしれない。政宗は深い眠りに落ちていなかった。浅いまどろみに身を委ねてみたが頭の片隅は常に起きている状態で、眠っているという自覚があまりない。

気だるげに上半身を起こし、ガシガシと乱暴な手つきで髪の毛を掻き毟る。

そもそもいつ追手が現れるのかわからないこの緊張状態でぐっすり眠れというほうが難しい。僅かな金と愛刀以外何も持たず、無我夢中で組織から逃げ出して数週間が経った。今は安いこのアパートで身を隠しながら、今後の身の振りを模索中といったところだ。部屋にはベッド以外の物はとくに置いていない。服なんかもその辺に無造作に転がっている。このアパートにずっと住むつもりはないし(所詮一時しのぎに過ぎない)、荷物が増えたところで逃走の邪魔になるだけだ。

今のところ組織からの追手は現れていない。だが組織は自分が脱走したことを既に把握している。今頃血眼になって自分と、一緒に逃げ出した連中を捜していることだろう。組織の機密漏洩を防ぐため、裏切り者を始末するためならなんだってするような集団だ。今は散り散りになってしまったが情報屋の話によると、脱走した数名の足取りが急に途絶えたという話だ。既に何人か組織の手にかかったと見るべきだろう。やはり依然と予断を許さない状態であることは変わらない。

それでもずっと神経を張っていると肉体的、精神的にも疲弊してしまう。政宗も酷く疲れているので、今すぐにでも眠りに落ちてもおかしくないのに何故か眠れない。疲れているのだから何をせずとも自然と眠れるはずなのに、ここ数日は全くといっていいほど眠れていないような気がする。脱走して数日はそんなことなかった。しかし日に日に眠れなくなりつつある。

たしかに眠っている状態でも臨戦態勢を取る訓練を受けてはいるがこれは異常だった。あれはどんなに深い眠りについていても、無意識で攻撃態勢を取れるようにする訓練なのである。いい加減眠りたいのに、まるで身体が眠ることを拒否しているかのように眠ることができない。おかげで薄らと隈までできてしまっていた。一体自分の身体に何が起きたというのだろう。

今度こそ眠りにつこうと再びベッドに横になる。中古で買った安物のベッドが、ギシリと弱々しいスプリングの音を響かせた。目を閉じて浅いまどろみに身を任せてみるが、やはり眠れる感じがしない。政宗はゆっくりと目を開けると深い溜息をついた。それほど大きな声を出したつもりはなかったのだが、静かな部屋では溜息すらもよく聞こえるようだ。ずっと天井ばかり見ていたのでいい加減飽きてきた。政宗が寝返りを打つとまたスプリングが弱々しく軋んだ音を響かせた。

そこで政宗は小さな違和感を覚えた。ただ寝返りを打っただけだが、絶対的な何かが違っているのである。同時になんともいえない虚無感が政宗の胸に去来した。胸にぽっかりと穴が開いたような、言葉では言い表せないこの虚しい気持ちはなんだろう。

……ああそうか、広いんだよな。

寝返りを打ってやっと気付いた。ベッドがやけに広く感じてしまうのだ。寝返りが打ちやすい。寝返りを打っても……向いた先に誰もいないのだ。少し前まで自分の横では彼女が眠っていたのに、その彼女はもういない。自分に向かって必死に伸ばされた手を、彼自身が振り払ったのだから。

……一人で寝るって久しぶりだよな。

一人で眠っていても気がつけば隣で彼女が眠っていることがしょっちゅうだった。一体いつ政宗のベッドに忍び込んだかわからない。眠っているとはいえ訓練を受けた身故、眠っている自分に近づくことはある意味自殺行為だ。むしろ無意識だからこそ、近づく者には誰であろうと容赦はない。それなのに彼女は毎回夜になると政宗の部屋に現れ、一緒のベッドで眠りにつく。一時は自分の腕が鈍ったのかと焦ったくらいだ。勿論政宗が起きているときに訪れることもあったし、政宗が彼女の部屋を訪れるときだってあった。

どうしてこうも一緒に眠りたがるのか、隣で眠っている彼女に一度だけ訊ねたことがあった。すると彼女は「政宗と一緒に眠っているとね、嫌な夢を見なくて済むの」と、少しだけ寂しそうに笑いながら言っていた。一人で眠ると怖い夢を見る。でも政宗と一緒なら怖い夢を見なくて済む。安心して眠れるから。だからここにいさせて……? 夢現だったせいか彼女の声はどこかまどろんでいて、それでいて男を誘うような甘い色香が感じられた。これで彼女は無意識なのだから、やはりこの女は恐ろしい。惚れた女のこんな声を聞いて我慢できるほど紳士ではないことは、他ならぬ政宗自身が一番理解していた。ここでキスをして、彼女という存在を貪りつくしたい。

そこまで考えたが結局政宗は、彼女のおでこに触れるだけのキスをして眠りについた。彼女は眠りたいから政宗の隣にいるのだ。少なくとも自分は彼女に信用されていると思っていいのだと思う。それなのにこのまま己の欲に従えば、彼女の信用を失ってしまいそうな気がした。たまには何もせず彼女の寝顔を見ながら眠りにつくのも悪くない。政宗の隣で静かな寝息を立てている彼女の顔はあどけなくて、年齢の割には些か子供っぽい印象が窺える。すっかり安心しきっているのか、政宗がじっと見つめていても起きる気配を見せない。こういう場合、訓練を受けた人間なら嫌でも目を覚ましてしまうのに、だ。

……ここまで安心されると、男としては少しつまらねえな。まァ、しかたねえか。こいつもこいつで、疲れてるからな。

隣には常に彼女がいた。だからなのか、政宗のベッドには彼女の甘い匂いがいつの間にか染みついていた。例えここに彼女がいなくても、彼女の残した香りが政宗を包み込んでいた。それだけで隣に彼女がいるような錯覚を覚えたことだってあった。政宗が傍にいると安心して眠れると彼女が言っていたように、彼もまた、いつの間にか彼女が傍にいると深く眠れるようになっていた。昔の悪夢を見ることもなく静かに眠ることができていたのである。一人で眠ると怖い夢を見る。そう言った彼女があまりにも儚く思えた。抱きしめる腕に少し力を加えただけで簡単に壊れてしまいそうな……。だからこそ、自分が彼女を支えてやらねばとすら思った。それなのに、いつの間にか自分のほうこそ彼女に支えられていた。政宗だって気づかなかったのだから、きっと彼女はそのことに気がついていないだろう。

……ああ。あいつが隣にいないから眠れないのか、オレは。

隣には彼女の姿がない。それどころか今自分が眠っているベッドには、彼女が残したものは何もないのだ。彼女の気配が一切感じられないベッド。だから政宗は眠ることができなかったのだ。

……一人じゃ眠ることすらできなくなっちまったのかよ、オレは。

いつの間にこんなに弱くなった? 少なくともあいつに出会う前までは、あいつに惚れる前まではこんなんじゃなかったはずだ。じゃあ今頃あいつはどうしているんだろう。彼女には何も言わず、何も残さず、自分がいたという形跡は綺麗に抹消したつもりだ。彼女に余計な危害が加えられることがないように。自分とは無関係だと証明できるように、あえて彼女には何も言わなかった。

……彼女は今頃ちゃんと眠れているだろうか?

もしかしたら彼女も、今政宗が見ている夜空を見ているかもしれない。どうか彼女が安らかに眠れますように――。柄にもないと思いつつも、何かに祈ってみる。が、生憎と祈るという行為をしたことがなかったため、どうやっていいのかわからなかった。

やっぱ柄にもねえことをするもんじゃねえな。

叶うのであればもう一度会いたい。会って抱きしめたい。キスをしたい。ずっと彼女に触れていたい。ずっと一緒に―――生きていきたい。そんなことはもう叶わない願いだとわかってはいるけれど。それでも、何故か願わずにはいられなかった。

完