暗殺者パロ | ナノ

神の存在意義

神様なんて信じない。神様なんて存在は所詮人が創りだしたものであり、本当に存在しているわけじゃない。もし、仮に。本当に神様がいるのなら、どうしてあの時、あの街に住んでいた私達を助けてくれなかったのだろう。私達が一体何をしたというのだ。ただ今日よりも明日が少しでも幸せならばと生きていただけなのに。あの街の誰もが神様に、助けてくれと縋っていた。でも神様は結局私達を助けてくれることはなかった。

しばらくしてから私は知ったのだ。神様なんていない。神様は人が何かを求めるために生み出された虚像に過ぎないということを。人が何かを求めるときに使われる、体のいい決まり文句なのだと。だから私は神様なんて信じない。

***

乾いた風が髪をさらい、鋭利な刃物で切られたような痛みが頬を伝う。冷たさからくる痛みは切り裂く痛みと少し似ている。彼女は少しだけ顔をしかめた。行儀悪く両手をコートのポケットに突っ込んで、仏頂面で街を歩く。別に好きで仏頂面をしているわけではない。あまりの寒さに自然と筋肉までもが硬くなっているだけである。

まだそんなに遅くない時間だというのに人通りは少ない。この寒さだ、やはり皆暖かい部屋にこもっているのだろう。そうはいってもこの街は元々荒んでいるため昼でも人通りは少ない傾向にあった。彼女が今いる裏通りなら尚更だ。組織の大きさとしては小規模なマフィア達が常に縄張り争いを繰り広げているような街である。

この街では銃声や人々の罵声や悲鳴は珍しくなかった。この街では毎日誰かが死んでいる。病死のような自然死ではなく、毎日誰かしらが殺されている、そんな場所を彼女は一人で黙々と歩いていた。途中、何人かの男達が彼女の姿を見つけるなり好奇の視線を投げつけてきた。この街では女が一人で歩くことは自殺行為に等しい。ましてや彼女はそれなりに整った顔立ちをしている。十分、美人と呼べる範疇だ。

何人かの男達が彼女にゆっくりと近づいてくる。しかし、それだけだ。誰も決して彼女に触れることは愚か、声をかけることすらできなかった。彼女から放たれる見えない「何か」が、この女に近づくなと男達に警鐘を鳴らしていたのだ。全身から嫌な汗が溢れて止まらない。彼女は男達を無視してさらに歩き続けた。

しばらく歩き続け―――歩を止める。彼女の目の前にはこの街には似つかない教会が建っている。だがその教会はここにあることが当然だと思わされる何かがあった。最初からそこにあるかのように、極々当たり前に。それでもこの場所に相応しくない「何か」があることもまた事実。合うようで合わない。合わないようで合う。そんな不思議な光景に彼女はしばらくそこで立ち尽くす羽目になった。

「………何か御用ですかな?」
「え……?」

背後から聞こえた静かな声に彼女は少しだけ目を見開いた。慌てて振り返ると、穏やかな笑みを湛えた初老の男性がいた。スータンを纏っているので、おそらくこの教会の神父だろう。彼女は表向きには平静を装いながらも、内心では酷く動揺していた。

自分は曲りなりにも暗殺者。気配を殺す訓練だって受けたほどだ。それなのに、神父はいつの間にか自分の背後にいた。気配に人一倍敏感であるはずの自分の背後が、こうも簡単に、それもただの神父に取られるなんて思ってもいなかった。背中を取られる行為は死を意味する。背後を取ることはあっても決して取られたことがなかったので、彼女は動揺しているのだった。

「……貴方は?」
「失礼しました。私はこの教会の神父です。何か御用があって教会の前にいらしたのではないのですか?」
「別に……これと言って要はないわ。ただ、珍しいと思っただけよ。こんな街でよく神父なんてやっているわね。物騒ではないの?」

少なくとも彼女がここに辿り着くまでの間に銃声を三回、人の悲鳴らしき声を一回聞いた。

「物騒ではないと言えば嘘になります。しかし、この街にはここが必要なのです。故に私はここを離れられません」
「どうして? この街の人間なんてクズばかりよ?」
「いいえ、そんなことはありませんよ。この街には迷える子羊が多すぎるのです。私はそんな彼らの心の声を聞くためにここにいます。神は平等です、どんな場所にいようと私達を見守ってくれています」
「……神様なんて、いないわ」

彼女は暗い炎が宿った鋭い目で、穏やかな笑顔を浮かべている神父を見つめた。

「神様なんていないものを信じて、縋って、一体何の意味があるのかしら」
「どうしてそう思うのです?」
「……別に。ただ私は知っている。神様がいないということを知っている、それだけよ」

誰もが神に助けを乞うた。しかしどれだけ祈っても神が手を差し伸べることはなかったのだ。必死に祈ったのに自分達の声は神に届かなかったのか……? 誰もが絶望の中で息絶えた。そんな光景を目の当たりにしてきた彼女からすれば、神はもはや希望の象徴ではなく絶望の象徴だ。何かを堪えるように拳を握りしめる彼女の姿に、神父はフッと悟ったような、どこか寂しげな笑顔を浮かべた。

「そうですね……神なんてものはきっといないのでしょう」
「ちょっと、神父様とあろう方がそんなことを言っていいのかしら?」

仮にも神を信仰し、神の御魂を伝える者だ。神の存在を否定する言葉を言って許されるはずがないし、そもそも言うはずがない。いくら神の存在を否定する彼女でも、流石に拙いのではないかと思ってしまう。

「私が誰かを救えるとは思っていません……本当のことを言うと、私がここにいるのは単なる贖罪なのです。過去の自分の過ちの大きさに堪えかね、自らの罪に怯えているだけの男なのですよ」

過去の自分が犯した罪が許されるとは思っていない。目を閉じれば今もその罪が人の形を成してやってくる。耳を塞いでも人の声を成して叫び続けている。お前は決して許されないと、救われないと。自分がやったことがどれだけ許されないことなのかと知ったのは、罪を犯してしばらく経ってからのことだった。自分がどれだけの大罪を犯したか自覚した途端、とてもではないが正気ではいられなくなってしまった。七日七夜のた打ち回り続けた。

「私は人殺しです……今更救われるとも、救われようとも思っていません。ただ、私と同じ苦しみを持つ者の声を聞くことはできます。彼らの苦しみを共有することで、私は自分の罪から逃げようとしている、ただそれだけなのですよ」

自分から命を絶つこともできない、ただの臆病者なのです。神父は穏やかな笑顔のまま淡々と語り続ける。

「でもこの苦しみからも、ようやく解放されます」

やっと私の下にも、死神が現れてくれましたから。

「神父様……いいえ、アデル・ハートフィールド博士とお呼びしたほうがよろしいかしら?」

彼女はコートの内側から一丁の銃を取り出し、ゆっくりとした動作で銃口を神父へ向けた。銃口は心臓に狙いを定められている。この距離なら射撃訓練を受けた彼女なら決して外すことはない。

「……まさか私の正体に気づいていたなんてね」
「私もかつては貴方と同じ側にいました。おそらく貴方以上に長くそちら側にいた私です、そちら側から逃げ出した今でも暗い臭いは感じ取れる」

それは言葉にするには難しく、しかし絶対的な感覚だった。世界の裏に足を踏み入れた者だけが感じ取れる不思議な感覚。身体に染みついた深い闇は、その世界から遠ざかった今でもこうやって自分自身を貪り続けていた。

「組織を裏切って生きていけるとでも思って?」
「いいえ、思ってなどいません。いつかこんな日がくると思っていました。今更逃げ出すつもりはありません。ただ一つだけ聞かせてくれませんか?」
「答えられる範囲なら」
「ヘヴンズゲートは私が開発した薬を……まだ使っているのですか?」
「ええ……今も実験は続けられているわ。でもどんなに薬を改良しても、相変わらず実験の成功率は上がらない。今も実験体の九割が発狂しながら死んでいっているわ」

神父、否、アデルは眉間に手を当て、とても痛々しい表情をしていた。目を閉じれば嫌でも浮かぶ、思い出したくない光景。実験室は常に人間の悲鳴や断末魔が響き渡っていた。決して途切れることのない人間の悲鳴に何度耳を塞ぎたくなったかわからない。実験体の誰もが彼を憎悪の目で睨みつけた。

イタイ。クルシイ。ツライ。タスケテ。コロシテ―――! 

一体自分はあと何回こんな光景を見続けなければいけないのだろうか。組織の命令とはいえ、あんな薬を開発するべきではなかったのだ。人間の遺伝子を根本的な部分から変化、進化させてしまうあんなモノなど! 人体に驚異的、超能力的な力を与える代償は命そのもの。薬を投与しても成功するのはほんの一握りにすぎなかった。実に九割の実験体が発狂し、廃人となって死んでいく。

「でも私は貴方に感謝しているのよ。貴方が開発した薬のおかげで、私は彼を殺す力を手に入れることができたもの……」
「あんなモノに手を出してまでも、貴方は殺したい誰ががいるのですか?」
「ええ、彼を殺さない限り私の気は収まらない。あの男に復讐することだけが私の目的よ……!」
「復讐は何も生み出さない」
「それは憎しみを知らない人間のセリフよ。本当に誰かを殺したいと思ったことがない人間の欺瞞だわ!」

二年前、自分を裏切ったあの男が憎くて憎くて堪らない。ずっと一緒にいてくれると約束したはずだったのに! 一度心を許してしまった相手だからこそ、彼の裏切りだけは堪えられなかった。

「なら貴方はその彼を殺した後、どうするつもりですか?」
「………決まってるじゃない」

そう言って彼女は一瞬だけ寂しそうな笑顔を見せた。その表情で、アデルは全てを悟ってしまう。……彼女は復讐を果たした後、生き続ける意思がないのだと。彼を殺した後、自分も死ぬつもりでいるのだろう。

「お話はここまでよ、アデル・ハートフィールド博士。裏切り者へは死の制裁を。悪く思わないでね……」

彼女は引き金に指をかける。アデルも黙って瞳を閉じた。直後、一発の渇いた銃声が教会から響き渡った。

彼女は静かに歩を進める。大通りに出るとそれなりに活気があり、人々の姿も多少見られた。本来なら本部に任務完了報告をしなくてはいけないのだが、何故かそんな気分になれない。こういう気分のときはお酒を呑むに限る。酒場に入るなり一番強いお酒を注文し、普段ならあまりしない無茶な飲み方を続けていた時だ。

彼女の隣の席に一人の男が座った。隣に現れただけだというのに、彼女はこれまでのほろ酔い気分が一瞬にして吹っ飛んでしまう。背中に突き刺さるような鋭い気配。間違いない、この男は私と同じ……! ヘヴンズゲートのような組織は何も一つだけではない。世界中のあらゆる場所に、様々な形で存在している。世界政府公認から非公認のものまで多種多様だ。どうするべきか手を拱いていた彼女の心を見透かしたのか、男のほうが先手を打った。

「安心しろ。今の俺はアンタと同じ、ただ酒を飲みにきているだけだ」
「……だからと言って警戒するなっていうのは、少々無理があるのではなくて?」

この世界で一瞬でも気を許せば、それが命取りになる。男も彼女と同じ世界の住人なら、十分承知しているはずだ。

「……だな。そういやアンタ、こんな噂を知っているか?」

DFPに蒼い稲妻を纏う男がいるっていう話を知っているか―――?


完