暗殺者パロ | ナノ

オレの傍にいてくれ……頼む……

頬をなでる風が心地よく、華那は瞳を閉じて大きく深呼吸した。風がいたずらに彼女の髪をさらっていく。瞳を開けると、そこに映るのはどこまでも広がる草原と青空。開放感溢れる景色に華那は笑みを浮かべた。

ふと、隣に彼の気配を感じた。隣に立つ彼の姿を見た途端、胸の奥が温かくなる不思議な感覚を華那は感じていた。彼が華那のほうを向く。他人には滅多に見せない彼の優しい表情に、華那の顔は自然と綻んだ。二人は肩を並べて、果てなく広がる青と緑のコントラストに身を委ねる。今度こそこんな穏やかな時間が永遠に続くと、華那は漠然とだがそう確信しながら―――。

瞳を開けると黒一色だった。先ほどまで見ていた緑と青の世界はどこにもない。まるで自分の心の奥を映したかのような黒の世界。背中から伝わる柔らかな感触が妙に心地よい。ベッドに寝かされていると理解するのにそう時間はかからなかった。華那は重たい頭を少しだけ動かし、窓の外に視線を移した。見慣れない景色からして、自分の部屋ではないことだけはわかる。

ここは一体どこで、自分はどうしてベッドに寝かされているのか。一旦落ち着けと言わんばかりに大きく深呼吸をした。なに、この香り……それにこの気配……懐かしい……。それにとっても落ち着くわ。華那は瞳を閉じて全身から伝わってくる香りと気配に身を委ねた。

この香りに包まれているととても安心できる。この気配を傍で感じられるだけで私は強くなれるような気がするの。先ほどまで見ていた夢の続きを体感しているような、不思議な感覚に包まれる。遠い昔に感じた甘い記憶がフラッシュバックを起こしたかのように溢れだしてきた。

久しぶりに見た「彼」の夢。夢の中の華那は幸せそうだった。否、実際に幸せだったのだ。彼が傍にいるだけでこんなにも幸せに思えてくる。もう夢の中でしか味わうことができない幸せに華那は自嘲的な笑みを浮かべた。許されるのならもう少しだけこの香りに包まれていたい。華那は布団を手繰り寄せると全身を隠すように覆った。そうすることで彼の存在をもっと近くに感じることができる。そんな気がした。

叶うのならもう一度さっき見た夢の続きが見たいわ。今の華那にとって、夢だけが唯一彼に逢える場所である。らしくないことを思っていると自覚しながらも、華那は再び襲ってきたまどろみに身を委ねようと瞳を閉じた。

………違う、これは夢じゃない! 今まさに感じているこの香りは夢ではない。この香りは確かに彼のものだ。華那は反射的にベッドから起き上がると、目を凝らして周囲を探る。こういう職業柄、暗闇に対する順応力は高かった。ベッドの横には華那の火之迦具土神と一丁の銃が置かれている。とりあえずこれらの武器が目の届く範囲にあっただけでもひと安心だ。

「………目が覚めたみてえだな」
「政宗!? どうして……!?」

ドアに背中を預けてこちらを見ている政宗と視線がぶつかった。どうして、などとは愚問である。あのとき……光秀に背後から攻撃されたあのときだ。突如真っ白な光が華那の視界を覆った。何も見えない、聞こえない中、誰かに強く抱きしめられた記憶が薄らと残っていた。

そのとき何か呟いたような気がするのだが、そのあたりのことははっきりと覚えてない。直後背中の傷の痛みで華那は気を失ってしまったのだ。あの光秀が殺し損ねるなんてことはありえない。こうやって生きているあたり、自分は光秀の魔の手から逃げおおせることができたということになる。意識を失った自分にどうやってそんな真似ができたのか。答えは目の前にいる人物が物語っているといっても過言ではないだろう。

「答えなさい政宗! どうして私を助けたの!?」

華那は政宗を睨みつけた。咄嗟に傍にあった銃を手に取り、その銃口を彼に向ける。 政宗を殺そうとした自分を何故助けたのか。どんな理由があれ、華那は政宗を殺そうとした。一方的ともいえる憎悪をぶつけ、この手にかけようとしていたのだ。自分を殺そうとした相手を助けるなんて正気の沙汰ではない。

「私は貴方を殺そうとしたのよ? なのにどうして助けたりなんかしたのよ!?」

政宗は答えない。華那は苛立たしげに声を荒げた。

「もう生きていたくなかったのに……! あのまま死ねたら私はようやく止まることができたのに!」

なによりもう、生きていたくなかった。最期に政宗に逢えた。それだけで華那は満足だった。だが政宗を殺そうとした自分が許せなくて、生きていること自体に嫌気がさしていた。復讐の果てに残ったものは言い尽くせないほどの罪悪感だけ。後悔の念で押し潰されそうになる心が悲鳴をあげている。こんな想いを一生抱えて生きていくくらいなら死んだほうがましだ。

政宗の傍にいたくないわけではない。政宗への愛情がなくなったわけではない。ただ愛情が罪悪感に塗り潰されてしまっただけである。今政宗の傍にいても、愛情よりも先に罪悪感や後悔がやってくる。安らぎではなく苦しみしか感じられない。

華那が裏切ったことは既に組織上層部に知られてしまっている。明上夫妻を組織から逃がしたときから覚悟はしていた。どの道この先組織の目を掻い潜って生きていけると思ってなどいない。組織の目に怯えながら生きていくなんてさすがに疲れ果てる。華那が組織を裏切ったことは政宗らDFPの人間に知られてしまったのだから、あとは政宗達がなんとかしてくれるだろうと信じて、自分は訪れる終わりを待つだけだ。他力本願と言われればそれまでだが、政宗ならあの忌まわしいウイルスをこの世から消し去ってくれるだろう。

「………生きていたくねえだと?」

怒りを抑えた不自然なまでに静かな声に、華那はぞくりと、蛇に睨まれた蛙のように動くことができない。政宗は真っすぐに華那を鋭い目で睨みつけていた。その目には明らかな叱責の感情が込められている。

「それは本気で言っているのか? 生きていてくれてよかったというオレの気持ちを無視するのか?」
「………私は貴方を殺そうとしたのよ!? 私はそんな自分自身が許せない!」
「それでもオレは、華那が生きていたくれたこと、何よりもう一度こうして話せて嬉しいと思う。少なくとも、今のオレは幸せだ。三年前のあの瞬間から一度も味わうことができなかった幸せをこうやって感じられることが何よりも嬉しいんだ……」

そう言った政宗の表情があまりにも穏やかで、華那は傷ついたような、強いて言うなら泣きそうな表情を浮かべた。政宗の声と表情で、その言葉に嘘がないと嫌でもわかってしまう。ずっと政宗のことを見てきた華那だ。どんなに離れていても、どれだけの時間が経っていたとしても、彼の考えていることはわかってしまう。嘘か真実か見抜くことは華那には造作もないことだった。

どうして今更そんな顔をするの。どうして今になって、遠い記憶の中でしか見ることができなかった優しい顔をするのよ! いっそのこと華那を忘れていてくれたほうがどんなに楽だったか。昔と変わらない政宗の姿は華那に戸惑いを生んだ。生きて、もう一度逢えたことに、華那の身体は素直な喜びを感じている。それが例え、殺したいと思ったほど愛した男でも。

「ならどうして……どうしてあのとき、何も言ってくれなかったの!? どうして一緒に逃げようって言ってくれなかったのよ!? 貴方と一緒なら……私は……!」

ずっと一緒にいてくれるって約束したじゃない……。涙が邪魔をして政宗がどんな表情を浮かべているのかわからない。最後の部分は嗚咽が邪魔をして上手く喋ることができなかった。今まで堪えてきたものが一気に溢れ出るかのように、華那は涙を流し続けた。政宗が華那の下を去ったときさえ涙を流すことはなかったのに、何故今になって涙が止まらないんだろう。

政宗が何故華那の下を去ったのか、ヘヴンズゲートを裏切ったのか、なんとなくだがその理由は見当がついていた。華那も今のヘヴンズゲートの方針には納得がいかない部分が多い。今回のウイルスだってそうだ。ヘヴンズゲートはCADウイルスを使って何かを起こそうとしているのは明白だ。だからこそ華那はこのウイルスを使わせてはならないと判断し、開発者である明上夫妻を逃がした。

そして華那や政宗、元親に行われた人体実験。超能力ともとれる稲妻や炎を操る力はもはや常軌を逸脱している。そのような力を持つ人間を造り出して一体何をするつもりなのか。何か不穏な気配が組織中に漂っているのは明白だ。そんな組織に不安を覚えるなというほうが無理というもの。現に政宗達が組織を裏切った頃、同じように組織を裏切る者が続出したのだ。尤も、大半の人間が既に組織の手の者によって始末されてしまったが。

「華那……オレは……」
「貴方と一緒なら私は何だってできた! それがどんなに危険でも、私は貴方と一緒にいたかった! どうせ貴方のことよ、私の為と言って何も言わなかったんでしょう? そんなの男のエゴよ。私の幸せを勝手に決めないで。私の幸せはどんなときでも貴方と一緒にいることだったのに……!」
「華那……」

組織を裏切った者の末路は華那も知っている。また、組織を裏切った者の関係者も同様だということも。だからこそ政宗は誰にも何も告げずにヘヴンズゲートを去ったのである。理性では政宗のとった行動は正しいと理解していても、感情がそれに追いつかない。華那からすれば、政宗がとった行動はお節介以外の何物でもない。たとえどんな状況に陥ろうと、政宗と一緒にいることが華那の望んだことであり、幸せだったのだ。政宗がいない世界など、もはや華那には想像できなくなってしまっていた。例え彼と一緒に逃げたとして、その先に死の未来しか待っていようとも後悔はない。

「……そうだ。だからオレは今の今までずっと後悔し続けていたんだ。あの夜、お前と再会したとき痛感したぜ。やっぱりあのとき、一緒に逃げるべきだったってな」

華那の銃を構える手が震えている。銃口を向けられているというのに、政宗は一歩、また一歩と、ゆっくりと華那に近づいていく。

「今からでも間に合うと言うなら、オレはお前と一緒にいたい……一緒にいてほしいんだ」

きっと華那は気づいていないだろう。自分が彼女の存在にどれだけ救われたか、きっと知らないのだろう。外道を更なる外道の力を以て始末する政宗達は、常に己の中の闇と葛藤していた。自分が殺した人間を見ては、次にこうなるのはお前自身だと言われているように思えていたのだ。人を殺し続ける修羅の道を歩むうち、自分でも気がつかないうちに闇に囚われてしまうことがある。

現に政宗は、かつては仲間だった存在をも斬った。己の闇に飲み込まれ、精神が蝕まれた者を救うにはそれしか方法がなかったからだ。そんな人間を見ていると、いずれ自分もこうなるのではないかと不安にさえ思った。そして自分もいつか、こんなふうに誰かに殺されるのだろうと。

しかし華那と出会ったことで、政宗は忘れかけていた感情を取り戻した。誰かを愛するという、とても幸せな感情を取り戻すことができたのだ。その気持ちさえあれば己の闇に囚われることもない。何故なら愛する者が、愛してくれる者がいつも傍にいてくれるからだ。もし政宗が道を違ったとしても、きっと彼女が止めてくれる。彼女がいてくれる限り、己の闇には絶対に捕まらない。

「だから……華那……」

政宗の腕がゆっくりと伸ばされる。華那は震えながらも、未だに銃口は政宗に向けられたままだ。

「オレの傍にいてくれ……頼む……」

政宗の懇願するかのようなか細い声に、華那は目を見開いた。彼の腕が華那の背中に回される。もう二度と離さないと言わんばかりに強い力だった。華那は全身から力が抜けていくような錯覚を覚えた。彼女の手に握られていた銃が虚しい音を立てながら床に転がる。

「…………っ!」

華那の腕が縋りつくかのように政宗の腕に回される。彼の頸筋に顔を埋め、華那は子供のように泣きじゃくった。政宗はそんな華那をずっと抱きしめ続けたのだった。


続