未来編 | ナノ

彼は誰時の戯れ

深い深い闇の底へ沈んでいた意識が、ゆっくりと浮上していくような錯覚を覚えた。まだ夢の中でまどろんでいる自覚はあるのに、意識は目覚めようとしているから実に不思議な感覚である。夢を見ているのにこれは夢だと、頭の片隅にいるもう一人の自分がどこか冷めた目で見ているのだ。けど夢の中の私はまだ目覚めたくないと告げている。もう少しだけここにいたいと訴えかけてくるのだ。どうしたらいいのかわからなくなった私は、しばらくの間夢と現実の狭間で彷徨うことになる。

***

まだ私の意識は完全に覚めていない。なのに私の身体は温かさを求め、ごく自然にすぐ傍にあった温もりに身体を摺り寄せた。大きくて温かな温もりに自然と笑顔が漏れる。この温もりに包まれているとき、私はこれ以上ない幸福を感じるのだ。

ふと、私の背中に何かが触れ、そこで私の意識は完全に覚めてしまった。薄っすらと目を開けると、パジャマの隙間から覗く逞しい胸元がまず目に入る。少し視線を上にやると、穏やかな寝息をたてている政宗の顔が見えた。

長い前髪が無造作に顔にかかっていて、彼の表情を少しだけ隠している。すぐ傍にある端正な顔に、私は息をすることすら忘れ魅入ってしまった。ふと頭部に感じた違和感に私は少しだけ視線をずらした。私の頭の下には政宗の右腕があり、彼が一晩中腕枕をしてくれていたのだと、今になってようやく悟った。だ、大丈夫かな。痺れていたり疲れていたりしないのかな……。

すると彼は無意識に私の背中へと左腕を回し、自分のほうへと抱き寄せる。その子供っぽい仕草に、私は小さな笑みが漏れた。普段の私なら彼の腕から逃れようともがくのだが、今回は大人しく彼の温もりに包まれている。穏やかな寝息をたてている彼をそんなことで起こしてしまうのは、なんだか悪いように思えたからだ。

こうやって彼と一緒に眠るようになって、どれほどの月日が流れただろう。何度も肌を重ね、眠るようになった今でも、私の中にある羞恥心は消えてくれない。端正な政宗の顔をまじまじと見ることが未だに恥ずかしいなんて……。彼の真っ直ぐな瞳に見つめられると、私は彼の瞳に捕らえられ身動き一つとることができないのだ。

こうやって彼の瞳が閉じている今なら、少し恥ずかしいけれどまだ見ることができる。普段私が政宗より早く目覚めることは早々ない。なんだかんだでいつも政宗のほうが先に起きてしまうため、私は彼の寝顔をなかなか見ることがなかった。だから私のほうが先に起きた今日はとても珍しい日である。

政宗が眠っていることを良いことに、私はじっと彼の顔を見つめてみる。長い眉に、形の良い唇。今は閉じられている、一度捕らえた獲物は決して離すことない鋭い瞳。本当、羨ましいくらい肌も綺麗。一体どんな手入れをして……って特に何もしていないことは私がよく知っている。

躊躇いがちにそっと彼の唇に触れ、そのまま指でなぞる。少し乾燥しているためかカサカサしていた。彼の唇をなぞった指を、私は自分の唇に当て、そしてなぞる。まるで彼とキスをしているようで、少しくすぐったい。けどそのくすぐったさも心地よいと思えてしまう。何度も政宗の唇に指を這わし、自分の唇に宛がう。そんな動作を何回か繰り返していたときだった。

「………今日は今朝から大胆じゃねえか、華那?」
「まっ……政宗!? い、いつから……!」

眠っていると思っていた彼がいつの間にか目覚めていて、その隻眼で私を真っ直ぐ見つめていたのだ。そこで私は政宗が気配や動きに敏感だということを忘れていたことに気づく。いくら眠っているといっても、彼は寝室のドアが開いただけで目を覚ますことすらあるような人。常に危ない場所に身を置いているため、彼は普通の人以上に気配に敏感だった。でも一体いつから目を覚ましていたんだろう。

「華那が目を覚ます前からオレは起きていたぜ?」
「そ、それって最初からってことじゃ……!」

政宗は眠っていたわけじゃない。眠っているフリをしているだけだったのだ。私が無意識で彼に擦り寄ったことも、彼の顔をまじまじ見つめていたことも、そして唇に触れたことも全部気づいて……。じゃあ私を抱き寄せたのは、無意識なんかじゃなくて故意だったということになる。私は急に恥ずかしくなって、政宗の顔を直視できなくなってしまった。

そんな私を見ながら、彼はというと楽しげな笑みを浮かべ、私を抱いていた腕に力を込める。私と政宗の距離がより近くなったことで、彼の吐息が俯いている私の頭部にかかった。

「なに人の唇を何回も触ってんだ? 欲求不満か?」
「よ、欲求不満なわけないでしょ、政宗じゃあるまいし……。普通はあれだけすれば欲求不満なんて言葉とは無縁になると思うんだけどな……」
「仕方がねえだろ。華那だから……オレが惚れた女だから、どれだけヤっても足りねえさ」
「……っ! じゃあ政宗は一生欲求不満ね、きっと」

至極当たり前のように言う政宗の言葉に、いつもこうやって私は惑わされてしまう。どうしてそこまできっぱりと、はっきりと断言できるのだろうか。澱みなく、凛とした声で言える彼が少し羨ましい。私も政宗みたいに思ったことを、例えば私がどれだけ政宗を愛しているか、上手く伝えることができるのならと思うのだ。彼の言葉は私に安らぎと幸せをくれるのに、私は彼が与えてくれるものを、ちゃんと与えられているのだろうか……。私が抱くあの何事にも代えがたい幸福感を、政宗にも与えることができるのならと切に思う。与えられるばかりではなく、私も政宗に伝えたい気持ちが沢山あるのに……。

余計な恥ずかしさが邪魔をして素直になれなかったり、言えずに終わってしまうなどということはよくあることだった。

「……ったく、このオレが欲求不満か? 随分と似合わねえなァ」

政宗は私の顎にそっと手を添えると、先ほど私が彼にしたように、私の唇に指を這わした。政宗の指が触れた部分がやけに熱い。寝ている人相手にならまだしも、こうやって真っ直ぐ見つめられながら触れられるとすごく恥ずかしくなった。すると彼はあろうことか、私の唇をなぞった指で自分の唇にそっと触れたのである。まるで自分から政宗の唇に触れたような錯覚を覚えた。

顔を赤くし何も言えなくなってしまった私に、政宗は昨晩私に見せた艶やかな笑みを浮かべる。そして意外そうに小さな声で呟いた。

「……へえ。これ、意外とグッとくる仕草だな。まるで華那にkissされたみてえだ」
「………!?」

政宗は私が起きる前から起きていたので、私が政宗の唇に触れたことを知っていてもおかしくはない。でも政宗の唇に触れた後私が何をしていたかまで知っているとは思っていなかったのだ。一連の行動を全て知られていたと気づいた私は、先ほどとは比べ物にならないほど強い羞恥心を覚えた。

「ってことはだ、華那がこうしていたとき、同じことを思ったはずだよな……?」

まるで彼とキスをしているよう……政宗の言うとおり、確かに私も同じことを思った。私が感じた気持ちを彼も感じてくれたことはとても嬉しいことだけど……。

「………は、恥ずかしい」
「でも所詮は「みたい」っつー仮定の話だ。やっぱり直接触れたほうが気持ちいいよな」

そう言うなり政宗は優しい口付けを私に落とした。お互い寝起きのせいか、触れ合った唇は少しカサカサしている。特に拒む理由もないので、私は政宗の口付けに静かに応えた。政宗の言うとおり、所詮は仮定の話である。やはり直接触れ合ったほうがより幸せな気持ちに浸れると思えるのだ。

長い口付けの後互いの唇が離れ、しばらくの間静かに見つめあう。私も政宗も、心地良さそうに目を細めた。

「……どうせまだ時間はあるんだ。このままもう一眠りとしようぜ」
「そうだね……今日は日曜日だもん。もうちょっとだけならいいよね?」

政宗の腕に抱かれながら、私は身体を包む心地よいまどろみに身を任せてみる。穏やかな、幸せな夢をきっと見ることができるだろうと思いながら、私と政宗はゆっくりと目を閉じた――…。

完