ある日の朝、とある家族の光景 ―――私の一日は嵐で始まる。 ピピピピピと目覚まし時計のアラームが部屋に響く。意識は深い眠りからゆっくりと浮上していくのだが、まだこのぬるま湯のようなまどろみに浸かっていたいと最後の足掻きをみせた。 布団から手だけを出して、鳴り続ける目覚ましを静かにさせようと手当たりしだいペチペチと叩く。しかしなかなかターゲットは捕まらず、おまけにアラームの音量もだんだんと大きくなってきているような気さえしてきた。 が、けたたましく鳴り響いていたアラームの音は急に鳴り止んだ。目覚まし時計を叩いた覚えはないが、知らない間に当たっていたのかもしれない。とにかくこれでゆっくりと寝れると思い、布団に潜りなおそうとしたときである。上から重い何かが降ってくるような強烈な衝撃が私の腹部に直撃したのだ。 「ぐえっ!?」 私の口から蛙が潰れたような声が漏れる。あまりの衝撃に目も白目を剥いていそうだ。「それ」は布団の上から私に馬乗りになり、楽しそうにパチパチと布団を叩いている。布団へダイブするのがよほど楽しかったのか、キャッキャッとはしゃぎながら、だ。私と同じくパジャマ姿ということは、「それ」もついさっき起きたのだろう。……なのになんでこんなにテンションが高いのよ。 「…………蒼華」 「おきろー! あさだぞー!」 私の低い唸り声にも動じず、蒼華はなおも暴れ続ける。手足をバタバタと忙しなく動かし、起きろと連呼し続ける。いい加減煩くなって、私はガバッと起き上がった。その反動で蒼華は後ろへ倒れこむ。しかしそれさえも面白いのか、満面の笑みを浮かべながら笑っていた。 「………朝から元気ね」 「もっかいやるー!」 「ハィ……?」 蒼華のこの一言に寒気が走った。彼女はトコトコと部屋を後にし、入り口付近で立ち止まる。何をするつもりなのかと眺めていたら、急に蒼華の目が獲物を捕えた獣のように鋭く光った。瞬間、私の背筋に冷や汗が流れ、脳がある一つのことを察知する。―――やばい、殺られる。 「とりゃー!」 「え、ちょっと待って蒼華。お母さん起きたばっかりでまだ身体が……!」 慌てる私を他所に、蒼華は奇声を発しながら私に向かって突進してくる。彼女が何をしようとしているのか、ここまでされてわからない私ではない。蒼華はもう一度、私の上にダイブしようとしているのだ。よほど楽しかったのだと思うが、起き抜けの身体に子供がダイブする辛さを甘く見てはいけないのである。あれはキツイ。胃の中のものが口から出てきそうなくらいの衝撃はあるのだ。蒼華は勢いよくジャンプし、その目は私の腹部を完璧にロックオンしていた。避けられない、そう覚悟した瞬間―――。 「グエッ!?」 本日二度目の蛙が潰れたような声が、部屋中に虚しく響いた。 「……ゴメンナサイ」 「うむ、よろしい」 椅子に座り短い足をブラブラとさせながら、蒼華は目の前に置かれた朝ごはんに手をつける。彼女の頭にはたんこぶができているが、これは先ほど私がげんこつをお見舞いしたときにできたものなので見ないフリをした。今日の朝ごはんはトーストに目玉焼き、サラダに牛乳という朝の定番メニューである。オーソドックスすぎるかもしれないが、このセットが蒼華は一番好きなのだ。 「起こしてくれるのは偉いけど、あんなふうな起こし方はやめようね」 「でもおとうさんはへいきだったよ?」 「……お母さんをお父さんと一緒にしないでくれる?」 私と政宗を一緒にしないでほしい。政宗は身体のつくりから普通の人間とは違うのだ。政宗を基準に考えたら碌なことじゃない。しかし娘には一緒のようなので、この先がとっても不安になった。 「………第一、お父さんはもういないのよ?」 「なんで?」 蒼華の無垢な瞳に見つめられ、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。蒼華の瞳は穢れを知らない、だから私は余計に悲しくなるのだ。娘は何も知らない。まだ五歳の子供に倫理を説くのは酷なことだろう。 「……ないちゃだめだぞ?」 「フフ、蒼華は優しいね……。でもそうだよね、蒼華もお父さんと会えなくなるなんて思ってなかったよね」 私だって思ってもいなかった。政宗が傍にいるのが私には当たり前だった。離れていた頃もあったが、政宗のことを考えなかった日はない。離れているからといっても「いってらっしゃい」がある限り、「おかえりなさい」があると信じていたからである。そう、生まれてからずっと政宗が傍にいるのが当たり前の世界に私はいた。だから信じられない。政宗がいない世界なんて――…。私は未だ受け入れることができなかった。 「なんで……死んじゃったのよ……バカ宗」 蒼華にも私の哀しみが伝わったのか瞳をウルウルと潤ませる。朝の元気な食卓が、一変してどこかしんみりとした空気に切り替わったときである。壊れるかもしれないという勢いでリビングのドアが開け放たれた。 「It lives!」 「あ、おとーさん!」 こめかみに青筋を浮かべながら冷や汗を流す政宗がそこにいた。彼の後ろには苦笑している小十郎と、今にも噴出しそうに笑いを堪えている成実の姿もあった。蒼華は椅子から飛び降り政宗に抱きつき、政宗はそのまま蒼華を抱きかかえ彼女の頬に軽くキスをした。蒼華は本当に嬉しそうで、両手を高く上げて小さな身体全身で喜びを表現しているように見える。 「ところで……何回オレを殺せば気が済むんだ、華那?」 「だって言うたびに政宗ったら血相変えて帰ってくるから面白いのよね。なんかすっかり病みつきになったかもしれない」 「オレが留守にしてる間もこんなことばっか言ってんじゃねえだろうな……?」 「大丈夫よ、政宗が帰る頃を見計らって言ってるから!」 「余計に性質が悪いじゃねえか!」 最初は軽い冗談のつもりで言ったら、偶然にも丁度政宗が帰ってきたのがキッカケだ。この会話が聞こえてしまった政宗は本当にショックを受けたようで、血相を変えて「オレのことが嫌いになったのかよ!?」と訊いてきたのを今でもはっきりと覚えている。そのときの政宗の表情が面白くて、政宗が泊まりなどで帰って来れない日は、こんなことをしては政宗をからかっているのだ。ちなみにこの冗談に一番付き合ってくれるのは、やっぱりというか成実だったりする。 「安心しなよ、政宗がいなくなっても俺がいるからさ」 「成実……」 「華那と蒼華の面倒みるくらいの余裕はある。実は……俺も政宗と同じで昔から華那のこと好きだったんだ……」 成実は私の手を取り、熱い眼差しで私を見つめる。私も自分の頬が赤くなるのを感じ、お互い頬を赤く染めて見詰め合うこと数秒が経過。 「どさくさに紛れてなにやってんだァ……なるみチャンよォ……?」 成実の背後で政宗の静かな怒りが込められた声が響く。本来なら仁王立ちするか指をポキポキ鳴らすなりして威嚇するはずなのだが、今回は事情によりこれらの行為が全て封じられている。そのためか、全然怖くない。成実も私も、そんな政宗を見てなんともいえぬ表情を浮かべた。 「……子供抱きかかえた状態で威嚇されてもなぁ」 「……怖くないのよね、むしろ微笑ましい」 「ンだと……? よし蒼華、成実の頭を力いっぱい叩いてやれ!」 「いえす!」 蒼華は笑顔で成実の頭を叩く。子供の無邪気はときとして恐ろしいもので、政宗が力いっぱいと言ったものだから蒼華は本当に力いっぱい叩いているのだ。元々子供は手加減ができないので普段から痛い場合が多いというのに、今回はそこに「全力で」が加わっている。成実も本当に痛いようで、頭を抑えながら蒼華(正確には蒼華を抱えている政宗から)逃げるのに必死になっていた。 「……相変わらず賑やかだな、ここは」 「蒼華が朝から元気だからいつもこんな感じだよ? 今朝も起きろって叫びながらお腹にダイブしてきた」 すっかり傍観者となった私と小十郎は、三人を見ながら苦笑していた。小十郎の発言が年寄り臭いと思ってしまったのは内緒にしておいてほしい。 「そうだ、ご飯食べていく?」 「いいのか?」 「うん。どうせ政宗の分も作らないといけないし、だったら小十郎の分と成実の分が増えても変わらないしね」 そう言って私はキッチンに向かい、三人分の朝ごはんを作るためにエプロンを身に付ける。ふと窓を見ると、外には綺麗な青空が広がっていた。マンションの最上階だけに眺めは素晴らしい。いずれは伊達家の屋敷に住むことになることになると思うが、せめて家族水入らずの時間を作れっていう小十郎の粋な計らいで、蒼華が生まれてからはこのマンションで暮らしている。 確かに屋敷にいたんじゃ家族水入らずの時間なんてありゃしない。蒼華の言葉遣いも悪くなりそうだしなあ。もしかして小十郎、それを恐れてわざわざ離れさせた? 一応女の子だし、ヤンキーみたいな言葉遣いをされると困るけどさ。でも周りの影響か、すでに言葉遣いは女の子らしくないような気がする。心なしか男前だ。 「いだっ! 痛いってば蒼華!」 「Ha! Let's party!」 「ぱーりー!」 ……政宗の影響で英語も堪能らしい。将来政宗のように話すようになったらどうしよう。父と娘が英語で会話、母は英語がわからずちんぷんかんぷん。馬鹿にされる、確実に! 今までは政宗にだけ馬鹿にされてきたが、これからは実の娘にまで馬鹿にされるのか!? 考えただけで気分が滅入る。考えないほうが賢明だろう。 「………今日もいい天気ねぇ」 さて、今日はどこに行こうか? 完 ← |