其の言の葉の意味 「たんじょび? たんじょびってなんだ?」 「……………たんじょび、じゃなくて誕生日ね」 ある日の昼下がり。私は蒼華を抱えながらソファに座り、こんな会話を繰り広げていた。誕生日が何かわからない蒼華に誕生日とは何か説明するが、さっきから入り口で足止めを食らっている。何度言っても誕生日を「たんじょび」と言うのだ。もういちいち訂正するのが嫌になってくる。話も進まないし、無視して進めるのが得策か。 「蒼華にも誕生日はあるでしょ? 欲しいおもちゃを買ってもらって、ケーキを食べるの」 「………おお! それならある!」 可愛らしく腕を組んでは、考え込む蒼華を見ていると微笑ましく思えてくる。クスクスと笑いながらも、私は「そう、それよ」と頷いた。蒼華は「なんだそれかー!」と、理解できたことが嬉しいのか無邪気に笑っている。 「その日はね、生まれてきてありがとうっていう気持ちを伝える日なの。ただおもちゃを貰って、ケーキを食べる日じゃないのよ?」 さり気なく突いてみると、蒼華は愕然とした表情を浮かべた。こいつ、本気で誕生日の意味を理解していなかったな。しかし今回重要なのはここじゃない。誕生日の意味を五歳の子供に理解しろというのが無理というもの。今回重要なのは、蒼華が祝ってもらう立場ではないという点だ。 「で、蒼華にもお誕生日を祝ってほしいの」 「だれの?」 「お父さんの」 「おとーさんのか!?」 そう、今日は政宗の誕生日である。何回目かは伏せておこう。何回目かわかったら、私の年齢もバレちゃうじゃない。とにかく、今日は政宗の誕生日。ここはお祝いをするべきでしょう、やっぱり。てなわけで蒼華にも誕生日を祝って欲しいとお願いしているのだ。 「わかった! でもなにをすればいいんだ?」 「料理はお母さんが作るとして……。蒼華にはお誕生日プレゼントを用意してもらいます」 初めてのことが楽しみなのか、蒼華は早くもこの計画に乗り気な様子である。 「なにをあげたらよろこぶ?」 「蒼華があげるのなら、なんでも喜びそうなんだけどね〜」 お世辞ではない。本当のことだった。政宗みたいなやつこそ、親バカという人種なんだろう。あんなに子供は苦手だって、嫌いとまで言ってたのに、自分の子供にはすこぶる甘い。甘すぎるんじゃないかってくらい甘い。でも政宗の場合子供が嫌いというよりは、単に接し方がわからないだけじゃないかって思うんだ。愛情のやり方がわからないから、どうすればいいのかわからない。確か以前こんなことを漏らしてたっけ。 私は沢山貰っているよといえば、華那は特別だなんて言いやがるし……。そういうやつほど将来親バカになるんだよ。って冗談のつもりで言ったら、本当になっちゃったしね。これは私も予想外だったわ。元々面倒見が良い性格もあって、それは尚更だった。 「蒼華の好きなことは?」 「えをかくこと!」 「じゃあ、絵を描いてプレゼントしよっか! 蒼華の絵、お父さんも好きじゃない」 「うん、そうする!」 プレゼントも無事決まり、蒼華は床に置いていたスケッチブックを取るために、私の膝上からちょこんと小さくジャンプしながら下りた。そしてどこへ行くかと思えば、くるりと後ろを振り向き、私に向かって右手を差し出したのである。きょとんと蒼華と彼女の掌を交互に眺めていたら、いい加減焦れた蒼華が「あれ、あれほしい!」と何かを強請り始めた。あれと言われてもわからない。 「あれ、あれ! このまえかってくれたおえかきせっと!」 「お絵かきセット……ああ、あれね。ちょっと待ってて」 蒼華の求めているものがわかると、私は笑いながら押入れから少し大きめの箱を取り出した。箱と言っても一応は鞄で、開けると中には絵描き道具が納められているというものだ。色鉛筆にクレヨン、クレパスに水彩絵の具と、子供がお絵かきをするには十分すぎる道具である。これの便利な点は、やはり持ち運びできる点だ。ま、そのために作られたものだから当然なんだけど。 でもこのお絵かきセットをどうする気なんだろう。これは外で絵を描くときにだけ使うって言ってたのに。まさか外に行く気か!? 鞄を渡しながら、私は蒼華の次の行動にハラハラしていた。何を、何を描く気なんだ? 蒼華は鞄を持つと、いきなり部屋中を歩き回った。おまけに遠近を測り、色々な角度で部屋を眺めているのである。その光景はまるで画家が構図を考えているようだった。……構図を、考える? 「蒼華、何しているの?」 「これじゃだめだ。つまらない。でもこっちも……うーん」 気分は本物の画家なのだろう。ああでもないこうでもないと唸る蒼華に、私は小さく笑いながらその様子を見守ることにした。 *** その日の晩、ガチャリとドアが開く音がした。間違いない、政宗が帰ってきたのだ。私はキッチンから身を乗り出し、リビングで一生懸命絵を描いていた蒼華に慌てて声をかけた。蒼華にだけ聞こえるくらいの小さな、それでいて鋭い声色で。 「蒼華、お父さん帰ってきたよ。どう、描けた!?」 「もうちょっとー!」 「ならお母さんが時間を稼ぐから、その間に描いちゃって」 「わかった!」 なんとしてでも政宗を足止めしなくちゃ。私と蒼華は顔を見合わせると、力強く頷きあう。リビングを出ると、廊下を歩いていた政宗と目が合った。 「I'm home」 「おかえり」 政宗が優しい笑顔を浮かべながら「ただいま」と言うものだから、なんでかわからないけど急に恥ずかしく思えた。ただいまって言っただけじゃない。いつも言っていることじゃない。なんでこんなに嬉しいと思ってしまったのだろう。っていまは幸せを噛み締めている場合ではない。私はニコニコと笑いながら、政宗の顔を見つめた。政宗は怪訝そうに片眉だけ上げてみせ、「どうしたんだ?」と訊ねてきた。彼としては早くリビングのドアを潜りたいのだろうが、生憎とそれだけはさせるわけにはいかないのである。私は笑顔を貼り付けたままドアを背に立っていたが、政宗は首を傾げつつも無視することに決めたらしい。ドアノブに手を伸ばそうとしたが、私はそれを全身で遮った。 「Hey 何の真似だ?」 「別になにもないよ」 「じゃあどけ、邪魔なんだよ」 「それはやだな。なんかいま、こうして突っ立っていたい気分っていうか、邪魔したい気分」 「どんな気分だよ!」 お互い一歩も引かない姿勢でこう着状態に入った。政宗にすれば何故邪魔されるのかわからないぶん、腹立たしい気持ちも大きいかもしれない。仕事で疲れて帰ってきているというのに、そこへ奥さんから追撃をかけられたようなものだ。疲れも倍、腹立たしさも倍である。ごめん政宗、これも全て愛娘のためなの。 「もういいよー!」 ドアを隔てた向こう側から、蒼華の大きな声が聞こえた。政宗からすれば何がもういいのかわからず、彼は不思議そうに目を丸くさせる。私は「あはは……」と乾いた笑いしかでてこなかった。だってこれじゃあ、いかにも何かありますって言ってるようなものじゃない。蒼華もなんでもういいよって言っちゃったのよ。こういうときはこっそりと、こっそりと。バレないようにするものだって、今度教えなおさなきゃいけないな。 「何がいいんだ?」 「……かくれんぼしていたもので」 咄嗟の言い訳がこれだった。政宗は胡散臭そうな目で、じっと私を見つめてくる。私は居心地の悪さに身を捩った。政宗の全てを見透かすような瞳が、私の身体中に突き刺さる気分だ。 「メシの前にhide-and-seekとは……珍しいじゃねえか」 「たまには変わった趣向も試さないと、マンネリ化しちゃうでしょ?」 「確かに華那の言うことも一理あるな。なら今から、変わったplayに挑戦してみるか?」 「政宗さーん、まだ晩御飯の時間ですよ。なーにいきなり下のほうへ持っていこうとしているんですか?」 「誰もンなこと言ってねえじゃねえか。華那こそヤラシイこと考えてんじゃねえの?」 「あははは、ぶん殴っていい?」 お互い爽やかな風を感じるほど、不自然なまでの爽やかな笑顔で笑い合う。政宗がそういうこと言うと、全てがエロく聞こえるのがいけないんでしょうが。私はエロくないもん。言動がエロい政宗が悪いんだもん。獣が舌なめずり、政宗にぴったりの言葉だと思う。そういう顔でさっきみたいなこと言われたら、誰だって私と同じこと言うと思うんだ。と、暢気にそんなことを思っていたら、急に政宗の顔に戦慄が走った。 「―――華那っ!」 「な、なに……うぎゃっ!?」 叱責にも似た、悲鳴にも似た声で私の名前を呼ぶ彼に、ただただ私は呆然とすることしかできない。政宗が慌てた様子で私との間合いを詰める。そんなとき、私の背後から前へ押し出されるような強い衝撃が加わった。急なことで私は衝撃に逆らうことができず、前へとつんのめる。 幸い政宗の胸に飛び込む形となったので、すっ転ぶ真似だけは避けられた。政宗は私を自身の胸で受け止めると、弱い力で私を抱き締める。そのまま私の背中を労わるように擦ってくれた。と思いたい。下心はないよな、ないよな!? 「………蒼華」 「へ、蒼華?」 政宗の低い声が廊下に響く。彼の目は鋭く細められていて、少し怒っているように窺えた。私の身体は固定されているので、首だけを動かして背後を見る。するとリビングのドアを勢いよく開けたらしい、小さな蒼華の姿があった。そうか、だから私は押し出されたわけね。ドアに背中を預けていたものだから、開いた拍子に前へ倒れかけたんだ。勢いよく開けなかったら、こんな目に遭わなかったのに。 「Doorは静かに開けろっていつも言ってんだろ?」 「それ言っているのは私だよ、政宗じゃないよ」 「……………」 政宗は面白くなさそうに唇を噛み締める。ここでそんなこと言うなよと囁いた声が耳に入り、私はおもわず噴出しそうになった。抱き締められているせいで、どんなに小さい声でも聞こえちゃうんだもん。 「ごめんなさい」 「よくできました」 私は政宗から離れると、蒼華の前にしゃがみ込み頭を撫でた。ちゃんと謝ったんだもん、それはとても素晴らしいことだ。素直に謝ることを知っているのなら、それは良いことだと思うから。ふと視線を下げると、蒼華の手に丸められた白い紙が握られていることに気がついた。なるほど、さっきまで描いていた絵ね。私は蒼華の横に立ち、政宗に向き直る。もじもじと恥ずかしそうに俯いている蒼華に、「ほら、さっき教えたでしょ」と次の行動を促した。政宗は相変わらずわからないようで、蒼華の様子を黙って見守っている。 「おとーさん、おたんじょうび、おめでとう」 「Ah……?」 蒼華はそう言うと、丸められた白い紙を政宗に差し出した。政宗は「Thank you」と、どこか放心しているような声で呟くと、覚束無い手つきで紙を開いていく。白い画用紙には、クレヨンで描かれた政宗の似顔絵が描かれていた。それを見た瞬間、政宗が息を呑むのがわかった。 「……蒼華からの誕生日プレゼントです。どう?」 政宗は画用紙に視線を落としたまま、一言も喋らなかった。だが声に出さなくても、彼の顔がいまどんな気持ちでいるのかを表している。嬉しくて、声も出ないという気持ちを。 「やったね蒼華、お父さん喜んでいるよ」 「ほんと?」 「ええ! 嬉しすぎて、何も言えないんだって」 蒼華の頭を撫でてやると、彼女ははにかんだ笑顔を浮かべた。一方政宗の様子もおかしかった。彼はさっきから黙り込んだままで、それどころか微動だにしないのである。画用紙を見たまま動かない彼を不審に思い、私はそろりと彼の手から画用紙を奪った。 「もしも〜し、起きてますかァ?」 「ますか〜?」 「あ、ああ……」 「……本当に起きてる?」 政宗は私の横ではしゃいでいる蒼華を抱き上げ、頬と頬をくっつけた。触れられることが好きな蒼華は、相手が大好きな父親ということもあり無邪気な笑い声をあげる。 「Thank you 最ッ高のpresentだぜ!」 「さいこうか! それはよかった」 「ほら二人とも。いつまでもこんなとこで突っ立てないで、部屋に入りましょう。折角のご馳走が台無しになっちゃう」 最初は軽い気持ちで発案したが、政宗がここまで喜んでくれたのだ。私も蒼華も、政宗に隠れて互いに顔を見合わせる。蒼華がニカッと笑いながらVサインをするものだから、私もニカッと笑ってVサインをした。なにはともあれ、計画は大成功を収めたわけだ。 「政宗、お誕生日おめでとう!」 完 ← |