未来編 | ナノ

泡沫の邂逅

夢を見た。その夢の中では私と政宗が、「何か」を囲んで幸せそうに笑っている。私は目の前で笑っている自分を客観的に眺めていた。そこにいるのは確かに私。でも私の意識はそことは別の場所にある。その奇妙としかいいようがない感覚に酔いそうになった。

でも目の前で笑っている私と貴方があまりにも幸せそうで、眺めているこっちも不思議と穏やかな気持ちになる。ふと彼らが囲んでいる「何か」と目合った。「それ」は私と目が合うと、にっこりと笑ったような気がした―――。

***

その日、華那はあまりの気分の悪さに目を覚ました。辺りはまだ薄暗く、夜が明けているのかよくわからない。とりあえず起きようと身体を起こすが、途端に身体の奥から何かが這い上がってくる感覚を覚えた。華那は反射的に口元を押さえると、身体をくの字に折って襲ってくる感覚に懸命に耐える。目をギュッと閉じ、この独特の感覚を押さえ込んだ。しばらくすると次第に気分も良くなり、ようやくホッと一息をつく。

最近いつもこうだ、と華那は思った。ここ最近突然襲ってくる吐き気。吐いてしまえばラクになるかもしれないが、人間という生き物は生理的にその行為を嫌う。華那もなるべく我慢し、吐き気が収まるのを待つタイプだった。しかしどうしてものときはトイレに駆け込み、胃の中のものを出しきっている。

何故こんな症状が突然現れたのか、華那には未だわかっていなかった。生まれてこのかた大きな病気も怪我もしたことがない。まさに健康優良児である。なのに今になって急にだ。不安になるなというほうが難しいだろう。華那はこの不安を一人で抱え込み、そして悩んでいた。

隣で静かな寝息をたてている夫に言えば、少しはラクになるんだろうかと自問する。でも余計な心配をかけたくないという想いが邪魔をしていた。学業を終わらせ、名実共に伊達組筆頭となった彼。彼はようやく本当の意味で伊達組を背負ったのだ。

そんな彼に心配をかけたくない。いつも傍で彼を支えている自分だからこそわかる。彼は背負っているものが多すぎた。自分もお荷物になっているのかもしれないが、だからこそこれ以上余計な負担はかけたくない。だからこの身体のことは―――絶対に秘密だった。

***

が―――一人で抱え込むには限界だったのだろう。彼女はその日の朝、親友である遥奈に電話をかけていた。こういうときは夫よりも親友のほうが気軽に話せる。また伊達組の屋敷に女性の姿が少なかったのも原因の一つだ。彼女は結婚するなり伊達の屋敷に住むことになったが、ここの大半は男だ。男所帯といっても過言ではない。

本来なら新居に引っ越すところだが、政宗が伊達組筆頭という立場であるため、華那が屋敷に住むことは必然だったといえる。幸い彼女はすぐに捕まり、華那はおずおずと話し始めた。ここ最近体調が優れないこと、たびたび起こる吐き気のこと。全てを話し終えるまで黙って聞いていた遥奈は、華那が話し終えるなり突拍子もない言葉を口にした。

「アンタさァ、ここ最近……というより数ヶ月間で伊達君とヤった?」
「……開口一番がそれ!?」

人が真面目な話をしているのにと、華那は口を尖らせながらも呆れていた。遥奈の声は軽く、とてもじゃないが真面目に答えているとは思えない。おまけに内容も内容だ。昼間から話すべきことではない。が、遥奈はお構いなしに、「どうなのよ? 正直に答えなさいよ」と捲くし立てる。華那は顔を赤く染めながらも、「……はいはい、ヤりましたよ」と半ばやけくそに答えた。

「じゃあ生理はきたー?」
「……遥奈チャン、いい加減にしない?」

羞恥心や呆れよりも、苛立ちのほうが大きくなった気がする。そろそろ本気で怒ろうかと思案しながらも、華那の脳は遥奈の言葉の真意に気づき、知った。遥奈が脈絡もなしにこんなことを訊いてくるはずがない。こんなことを訊いてくるのは、それ次第で答えが変わるからだ。いくら鈍感な華那でも、こればっかりはすぐさま検討がついた。先ほどまでとは違った不安が華那を襲う。でも不思議とワクワクする。

「……ありがとう遥奈。早速病院に行ってくるわ」
「はいはい。結果でたら真っ先に教えなさいよ」

そう言った遥奈の声は、子供のように無邪気だった。

***

「政宗ェ、いい加減仕事しろよなー」
「うっせェ、してるじゃねえか」
「全然進んでないじゃん」
「そうですよ、早くこの件を処理してください!」
「成実と小十郎のsurroundかよ」

成実と小十郎の言うとおりでどこか癪に障る。政宗は忌々しそうに舌打ちし、成実はそんな彼を見ながら肩を竦め、小十郎は点を仰いだ。成実の言うとおり、さっきから政宗の仕事は進んでいない。仕事用のパソコン画面は、最初の頃と変わらず真っ白なままだ。本来なら今頃白ではなく文字でびっしり埋まっているはずなのに。

極道といえども政宗はいくつか会社を経営している。一応その全てがビルを保有し、世界にも名の知れた会社だ。少なくともこの屋敷に住まう者達全員を養えるくらいは稼いでいる。古風な造りなこの屋敷にある、数少ない洋室。政宗が自宅用のオフィスとして使用しているこの部屋を除けば、成実の部屋と政宗と華那の寝室だけだ。ちなみに改装したのは全て政宗の独断である。

「まさか華那のこと考えてる? もう新婚じゃねえんだしさー……いい加減にしろよな」

幼馴染だった二人が結婚して早一年余り経過しようとしている。さすがに新婚気分は抜け落ちても良い頃だろう。でもなァ、と成実は内心で溜息をついた。華那はともかく政宗は華那一筋だったし、それは今も変わらないしねぇ。

「……最近アイツの様子が変なんだよ」

成実がこっそりと呆れていたら、ふと政宗が遠くを見ながら呟いた。成実と小十郎も「ん?」と政宗を見る。華那が変なのはいつものことだろうと、彼女からすればとても失礼なことを思いながら。

「食欲がねえっつーか元気がねえっつーか……。ときどき辛そうにしているしよ」
「確かに……最近食欲がないとは思っておりましたが」
「え、まじで体調が悪いのか?」
「まじでってどういう意味だ?」

政宗の凄みが効いた鋭い睨みが成実に突き刺さる。成実は「おっかなねえな」とおどけながら、何事もなかったように話を続けた。

「具体的にはどんな症状なんだ?」
「よくtoiletに駆け込んで……ありゃ吐いてんだろうな。あとよく気持ち悪そうにしているな。でも何があったのか訊こうとすりゃ、なんでもないの一点張りだ」
「ふーん……まるで妊娠してるみてえ」

何気なく呟いた成実の言葉が、やけに大きくクリアに聞こえた。成実の予想外の発言に、政宗と小十郎はしばらくの間絶句する。二人からすれば珍しく少々マヌケな表情だ。

「いや……いくらなんでもそれはねえだろう」

うん、ないない。と、不自然なくらいにまで首を縦に振る政宗に、小十郎と成実は揃って顔を見合わせた。 そんなどうしようもない空気が流れ出している中、コンコンという無機質な音が三人の耳に届く。扉をノックする音に、政宗と小十郎は表情を引き締めた。

「誰だ?」
「私!」

「私」だけで、この声だけで、誰かがわかる。それは三人に共通することだ。機嫌でも良いのか彼女の声は明るい。政宗は手短に入室を許可すると、そこに現れたのは声だけでなく表情も明るく愛妻の姿だった。今朝までは違いその活き活きとした表情におもわず見惚れてしまう。華那が元気だと自分達もつられて元気になる。政宗は表情を緩め、柔らかな声で華那に「どうした?」と訊いた。

「あのねっ、さっき遥奈に言われて病院に行ってきたの!」
「……は? で、結果はどうだったんだ?」

ここ最近華那の体調が悪いことには気づいていた。その検査に病院に行ったのだと安易に想像はつく。彼女の表情が明るいということは、少なくとも大きな病気ではなかったということだ。それに越したことはないと、政宗も内心でホッと安堵する。しかしこの喜びようは尋常ではないだろう。何が彼女をここまで嬉しくさせているのか、政宗達には理解できずにいた。

「あ、行ったって言っても産婦人科だからね」
「病気じゃねえならどこの科でもいいぜ」
「うん、だから産婦人科」
「…………産婦人科」

政宗達の表情が無表情へと変わる。小十郎と成実は絶句しているし、政宗も自分が言った言葉に驚きをかくせない。ニコニコと満面の笑みを浮かべている華那に対し、男達は言葉をなくしていた。やがていち早く思考が戻った成実が、まさかという思いを顔に貼り付けながら華那に質問する。

「産婦人科に行って、先生になんて言われたの?」

産婦人科に行ったからといっても、成実が言ったことが原因だとは限らない。病気の検査でたまたまこの科を訪れただけかもしれない。が、華那の言葉は成実の言葉を裏切る結果となった。

「先生にね……おめでとうございますって!」
「できちゃったの?」
「できちゃいました。あ、三ヶ月だってー」

子供のようにキャーキャーはしゃぐ華那に、三人は互いに顔を見合わせ呆然としていた。てっきり一緒に喜んでくれると思っていた華那は、政宗を見ながら「……え、もしかしてイヤだった?」と、今にも泣きそうな顔で呟いた。その声は震えていて、少し力を加えれば砕けてしまうほどだ。政宗は停止した思考を慌てて引き戻し、力強く華那を抱き締める。

「ンなわけあるか。ただ成実の言ったことが現実になって、びっくりしただけだ」
「成実ちゃん何言ったの?」
「華那が来る直前に、妊娠してたりしてーって話してたんだ。まさか現実になるとは、俺も思ってなかったなー」

小十郎も成実も嬉しそうに頬を緩ませている。華那からでは窺えないが、政宗もだらしがないほど頬が緩みきっていた。自分のそんな顔を見せたくなくて、政宗は華那を抱き締める腕に力をこめる。

「では早速、お二人にはこの屋敷を引っ越す準備をしていただかないと」
「ええ!?」

政宗の腕から離れた華那と成実が声を上げた。政宗も小十郎の突然の言葉に目を見開いた。何故自分達が出て行かなくてはならない、と華那と政宗は思う。自分達の家はここだし、ここ以外ない。

「生まれてくるお子様のためにも、お二方はここを出られたほうがよいでしょう。ここだと胎教にも悪いですし、何より家族水入らずの時間を過ごしていただいたほうが、後々のためになるかと」
「アァ!? どういうことだよ小十郎!」
「……このように乱暴な言葉遣いをさせたくないでしょう?」
「………確かに」

成実を見ながら、華那と政宗は同時に呟いた。自分を例に挙げられたことで成実は更に口を尖らせる。彼には悪いが、生まれてくる子供にはここはあまり良い環境とは言いがたい。一応ここは極道の屋敷だ。荒くれ者の集まりで言葉遣いもよくはない。物心つく前からここにいれば、何もしなくても彼らの影響を受けてしまう。

もし生まれてくる子が女の子なら、それだけは避けたい事実だった。小十郎の有難い提案に、華那と政宗は素直に感謝する。危うく気づかないところだったからだ。

「んじゃ、俺達はゆっくりと新居を探すとするか」
「そうだね。時間はまだまだあるんだし」
「ともあれ、これで小十郎の肩の荷が一つ降りたってわけだ」
「そうだな。この目で無事政宗様の跡継ぎが見られれば、更に楽になるんだが」

まるで全ての責任が自分にあるようで、華那はうっと言葉をつまらせる。が、そんな彼女の肩を政宗が優しく抱き寄せた。それだけで大丈夫なような気がして、華那は「任せといて!」と胸を張って言った。

***

「Hey ちゃんと足元を見ろよ。ただでさえお前は危なっかしいんだからな」
「もう、大丈夫だよー……おお!?」

足を滑らせ階段から落ちかける華那を、政宗が慌てて自分のほうへと―華那からすれば後ろへ―引き寄せた。政宗も珍しく少し焦ったのか、額から冷や汗が流れ落ちる。華那は後ろを振り返り、目を見開いている政宗を見つめた。華那は苦笑しながら「ごめん」と謝っているが、政宗からすればそれどころではない。

華那のお腹はだいぶ大きくなり、誰の目から見ても妊婦だと見てとれるくらいになっていた。あと一ヶ月もすれば自分達に姿を見せる赤子。だが少しドジなところがある華那に、政宗は気の休まる日がなかった。今のように自分のいないところでドジを踏まれれば、赤子だけでなく母体も命の危険に晒される。

何よりも大事で愛おしいものが自分の知らないところで喪われる。それが政宗には怖くて怖くてたまらない。そんな心配を知るはずがない華那の言動に、時折苛立ちを覚えるくらいだ。今も大丈夫と言った傍からこれである。

「政宗は過保護すぎるんだよ。少しは運動しないと。運動しないほうが危ないんだよー」
「その運動のたびにドジを踏まなかったら、オレも安心するんだけどな」

憎まれ口を憎まれ口で返された華那は不服そうに頬を膨らます。しかし事実なので反論できない。故に悔しいのだ。可愛らしく頬を膨らます彼女に、政宗は「可愛い」と思いつつ薄く笑う。自然と緩む頬が鬱陶しい。本来なら厳しい表情で注意すべきなのに、彼女を見ていると自然と笑ってしまう。きっとそれは自分が心の底から愛おしいと思っている証拠なのだ。あと一ヶ月。一ヵ月後にはそう想えるものがまた一つ増える。そう考えただけで、どうしようもないくらい幸せだと政宗は思った。

***

華那はベッドで横になりながら、愛おしそうに隣に眠る新しい家族に魅入っていた。傍には政宗と小十郎、それに成実もいる。彼らは皆、華那の隣で眠る新しい命に目を奪われていた。この子はまだ気づいていないのかもしれない。こんなにも温かい目で、貴方を見ているということに。無事に生まれてきてくれてありがとうと、何回も言っていることに。

「すっげー……ちっちぇ」
「元気な女の子、か。頑張ったな、華那」
「うん。ありがとう、小十郎」
「Hey 小十郎。それは本来旦那のオレが言うべきことだろうが」

生まれてきたばかりのこの子供を見ているだけで、彼らは胸の奥が穏やかになるのが感じられた。この先大変なことも沢山あるはずだ。でも今日という日を忘れなければ、どんな苦難でも三人なら乗り越えられるような気がする。

「ちゃんと育てられるかな……?」
「それは大丈夫じゃね? 小十郎がいるし」
「ちょっとなるみちゃん。そこでなんで小十郎なの?」
「だって小十郎は政宗の面倒をみてきたわけだし、どんな我侭な子でも大丈夫な気がする」

成実が言うことには一理ある。昔からやんちゃという言葉が似合う政宗を、小十郎はこうして面倒をみてきたのだ。政宗にとってはよき兄であり、また彼の人格を構成した人物でもある。色々苦節はあったが、それでもこうして立派に育ち、いまや伊達組を背負う男になった。子供を育てるという意味では、ある意味華那の先輩にあたるのかもしれない。小十郎はまだ独身なのだが。妙に説得力がある成実の言葉に、華那は素直に頷いた。

「……よろしくね、小十郎」
「なんでオレじゃなくて小十郎なんだよ!」
「わかった。わかる範囲なら教えてやる」
「Hey 小十郎!?」

いつの日だったか、夢を見た。私と政宗が「何か」を囲んで、幸せそうに笑っている夢。あのときはそれが何かわからなかったけど、今ならそれが何だったかはっきりとわかるよ。私達が笑っている先には、貴方がいたんだね。貴方が生まれてくる前、私は貴方と目が合った。首を傾げる私に、貴方はにっこりと愛らしい笑みで応えてくれた。ああ、私と貴方はもう出逢っていたんだね―――。

完