中編 | ナノ

人体模型と感動のご対面

「ハァ……ハァ……ここまでくりゃ大丈夫。……って何から逃げてたんだろ、私」

乱れた呼吸を整えながら、華那はどうしたものかと立ち尽くしていた。無我夢中で走り続け、我に返ったときには既に他の四人の姿はどこにもなかった。キョロキョロと首を動かし辺りを見回すが、目に映るは真っ暗な闇のみ。長い廊下を包む闇は、終わりがあるはず場所さえ無限に思わせる。お化けは平気でもこの暗闇には耐えられない。華那は手に持っていた懐中電灯のスイッチをつけた。僅かながら灯りが廊下を照らす。

「ん?」

すると廊下の奥、丁度普通棟と特別棟を繋ぐ渡り廊下付近で、蹲っている黒い影が見えた。華那は慎重な足取りでその影に近づいていく。懐中電灯で影を照らすと、丸まっている背中がはっきりと見えた。影の正体がわかると、華那はホッと安堵の息を吐いた。同時にちょっと残念だったという気持ちもある。華那の目的はあくまでも幽霊を捕まえることにあったからだ。さっきは咄嗟のことで逃げ出してしまったが、今なら捕まえられる自信がある。

「……こんなところで何してるんですか、毛利先輩?」

ツンツンと肩を突きながら、華那は蹲っている元就に声をかける。瞬間、元就の肩が大きく震え、鬼のような形相で後ろを振り返った。その形相に華那は「ヒッ!」と引き攣った声を上げ、反射的に一歩後ろへ下がる。ある意味さっき見た謎の女より怖い。飛び退いた拍子に懐中電灯の光が元就の顔に照らされ、眩しさのあまり彼は目が眩んだ。

「……あ、スミマセン」

慌てて懐中電灯のスイッチを切ると、今度は「真っ暗ではないか!」と文句を言われた。華那はスイッチを入れると、今度は元就の顔を照らさないように床に光を向ける。

「毛利先輩はあんなところに蹲って何してたんですか?」
「く、靴紐が解けてしまってな」

ジトリと疑わしい眼差しを元就に向ける華那。それもそのはずだ、元就が履いている靴は上履きである。どこにも靴紐などないのだ。華那の視線に元就は居心地が悪そうに明後日の方向を見る。

「……へぇ、靴紐ですか」
「な、なんだ!?」
「いえ、別に」

元就に負けない冷たい目で華那は彼の横顔をじっと見つめた。

「と、ところでここはどこだ!?」
「どこって言われてもえーっと……」

華那も元就も夢中で走るあまり、ここがどこかわかっていなかった。二人とも気がつけばここにいて、気がつけばこうして言い合っていたのである。華那は懐中電灯を周囲三百六十度照らしていき、何か場所が分かる目印はないかと探し始めた。頭上を照らすと「生物室」と書かれたプレートが明かりに照らされる。先ほどまで普通棟一階にいたはずだ。どうやら走っている間に渡り廊下を越えて、特別棟にまで来てしまっていたらしい。

しかし生物室というプレートを見た瞬間、二人はなんとも言えぬ恐怖を感じてしまった。二人して同時に思い浮かべたもの。それは変態生物教師明智光秀である。元就は三年であるため彼の授業を受けているし、華那は授業こそ受けていないものの、ちょっとしたトラウマとなってしまった放課後の件があった。

元就は三年であるため、嫌でも三年生間で流れている噂を耳にしていた。主な噂は夜な夜な光秀が生物室で人体解剖をしている。生物室で得体の知れない生き物を育成または開発している。光秀が高笑いしながら骸骨とダンスしている。ホルマリンを見ながら悶えているなど、挙げていけばきりがない。だがそのどれもが光秀は変態というものばかりで、正直信憑性が高そうな分性質が悪かった。

一方華那にも苦い思い出があった。政宗達と生物室でちょっとしたおふざけをしてしまい、その現場を光秀に見つかりお説教を食らう羽目になったのだ。しかし政宗達は逃げることに成功し、必然的に華那だけがお説教を食らうことになる。あのあと逃げた政宗達を恨みながら、華那は目の前の恐怖と必死に戦った。逃げようにも逃げられず、結果最後まで光秀に付き合わされたのである。

華那が受けたお仕置きとは、ホルマリンの解説。詳しく言えば、光秀がお気に入りとしているホルマリンの自慢話というもの。見たくもないホルマリンを見ながら、光秀の話を長時間に渡り聞かされるのだ。並みの人間ではすぐギブアップすること間違いなし。もう二度と明智光秀に関わるものかと固く誓った矢先だったのに。華那は拳をギュッと握り締めながら、生物室と書かれたプレートを忌々しそうな目で見上げる。

光秀の件を除いても、夜の生物室は怪談話の宝物庫みたいなものだ。ガイコツの標本から人体模型、ホルマリンといった不気味なものが数多く保管されている。学校の怪談話にこれらが登場しない話はまずない。それを知ってか知らずか、華那同様元就の様子も若干おかしくなり始めていた。二人して挙動不審という言葉がよく似合う。

「とりあえずここから移動する。気味が悪い」
「そ、そうですね!」

さっさとここから離れたかったのか、元就は足早に廊下を進む。彼の後を追うように駆け出した華那だったが、あるときピタリと止まった。後ろに続いていたと思われる華那が急に立ち止まったので、元就もまたその場に立ち止まり、「どうしたのだ、音城至?」と眉を顰めながら声をかける。

「毛利先輩、あれ……なんですかね?」

華那はある場所を指差しながら、元就の顔を見ずに呟いた。動く気配を見せない華那に痺れを切らした彼は、渋々といったふうに彼女に歩み寄ると、華那が見ている先と同じ方向に目をやった。

「何かあるのか?」
「何かというか……なんか動いてません?」

二人が見ている先にあるのは、廊下と生物室を遮っている一枚の窓ガラス。まじまじと見つめていた元就の目が大きく開かれた。華那の言ったとおり、ごそごそと何かが動く気配を感じたためである。僅かだが衣擦れする音も聞こえ、目の前に何かがいるのは確実だった。華那は懐中電灯を照らそうと試みるが、元就が鋭い声で叱責する。邪魔されると思ってもいなかった華那は口を尖らせた。

「何するんですか毛利先輩!」
「大声を出すな! 迂闊に灯りを向ければこちらに気づくではないか」
「そ、そうですけど……でも見えないとあれが何かわからないじゃないですか」
「馬鹿者! 見つかって食われでもしたらどうするのだ!?」
「く、食われるの!?」

元就の意外な発言に、華那は目を大きく見開いた。いくらなんでも食べられるという発想は華那になかったからである。人間を食べるとなると肉食、それも大型だろうか。確かに黒い影は大きいが、人を食べるような生き物が学校内にいるはずがない。

窓ガラスからこっそり頭だけを覗かせて中の様子を窺う。灯りがないと形しか捉えることができず、それが何かまではわからない。黒い影がゴソゴソと動く。その様子を華那と元就は息を潜めて窺っていた。次第に目が暗闇に慣れてきたおかげで、黒い影も少しだけ浮き彫りになってきた。黒い影は二つあり、一つはゴソゴソと動いているが、もう一つは全く動いていないことがわかる。

「……なんですかね、あれ」
「し、知るか! 我に訊くな!」

華那は元就が怖がりだということを思い出した。必死になって平静を装っているつもりだろうが、いつもに比べて早口だし、喋り方に余裕が感じられない。どちらかといえば怖いものが平気な華那にとって、元就の恐怖心はまさに見ていて楽しいものだった。納豆嫌いな人に納豆を食べさせる同様、嫌いなものや苦手なものを押し付けるのは、どうしてこれほどまでに楽しいのだろう。政宗ほどではないが、華那の加虐精神に仄かな灯りが点った。

「見ていてもラチがあきません。突撃しましょう!」
「なんだと!?」

華那は驚愕な表情をする元就の腕をグイグイと引っ張る。本当に嫌なのだろう、元就は鬼の形相を浮かべながら抵抗した。しかしこれくらいで引く華那ではない。

「私達の本来の目的はお化けを捕まえることですよ! これは絶好のチャンスですってば」
「お化けなどこの世にいるはずがないだろう! それとその目的は私達ではなく音城至、貴様だけだろうが!」
「そんな冷たいこと言わずに」
「冷たくなどない! 当たり前の意見だ!」

ギャーギャーと言い合っていれば、知らないうちに声はどんどん大きくなっていくものである。華那と元就も同じで、彼らの意思に反して声のトーンは段々と大きくなっていった。特に華那も元就もお互い違う意味で必死だったため、声に込められた気持ちは本物だった。だが隠れている身で大声を出せばどうなるか。そんなこと、言わずともわかるだろう。

「怖いのに無理すると余計に怖くなるって知ってます? 怖いときは虚勢を張らず、素直に怖いって言えば怖さもマシになるんですよ。お化け屋敷でキャーキャー叫ぶのと一緒です。叫ぶ人より叫ばない人のほうが心拍数上がってるんですよ」
「誰が怖いなどと言った? 我は恐怖など感じていない」
「またまたァ、それが虚勢だって言ってるんですってば」
「くどいぞ! 我は恐怖など感じていないと何度言えば……」

華那の言葉に苛立ちを隠せない元就が立ち上がろうとしたときだった。二人の頭上にある窓ガラスが、小さな音とともに開いたのである。まさか開くとは思ってもいなかった二人は、ギョッと目を見開き視線を上にずらす。二人の視線の先にいたものは、窓ガラスから身を乗り出し、華那と元就をじっと見つめている人体模型だった。

瞬きをしないというのもアレだが、大きな目でじっと見つめられるのは居心地が悪い。おまけに無表情で全てを曝け出しているのなら尚更である。華那はまじまじと見つめ、元就は声が出ないのかパクパクと口を動かしていた。

「これって動く人体模型!?」

何故か華那の目はキラキラと輝きを持ち始めていた。純粋無垢な子供のように、目の前の異形な物に憧れに近い眼差しを向けている。その心理に元就は驚きを隠せない。目の前のものと横の人、元就は周りにいる者全てに驚きを隠せずにいた。

「何をそんなに嬉しそうにしているのだ音城至!?」
「だって動く人体模型が本当にあるなんて思わなかったから。これって一種の感動じゃないですか!」
「よく考えろ。人体模型だぞ!? 動くはずがない人体模型が動いているのだぞ!?」
「動くはずがない……」

冷静に考えれば動くはずがない人体模型。それが窓から身を乗り出し、こちらをじっと見下ろしている。そもそも窓は閉まっていたはずだし、それが勝手に開いた時点でおかしい。となると誰が窓を開けたのか。少なくとも華那と元就に開けた記憶はない。じゃあ他に誰がいる?

「窓開けたの、貴方ですか?」

と、華那が訊ねた相手は、先ほどからじっと二人を見下ろしている人体模型だ。まさか真顔で人体模型に質問をするとは考えもしなかった元就は、ヒィッと顔を引き攣らせる。妙なところで華那は強かった。が、人体模型が喋るはずがなく、じっと華那達を見下ろし続ける。

「……随分と目がパッチリですね」

間が持たなくなってきたのが、仕舞いにはこんなことを言い出した。そりゃ人体模型なのだから、目はパッチリしているし瞬きもするはずがない。いきなり何を思い立ったのか、華那は懐中電灯を人体模型の顔に照らした。人体模型の不気味な顔が、懐中電灯の灯りによく映える。

「な、なな何をしているのだ音城至!?」
「いや、眩しさで目が眩まないかなと思いまして……」

凄い剣幕で迫る元就に、華那がゴニョゴニョと言い訳をしようとしたときである。

「……おや、今日はとても眩しいですね」

という、華那と元就以外の第三者の声が聞こえた。この場にいるのは二人を除けば人体模型だけ。二人がまさか、という面持ちで人体模型を見上げる。すると人体模型の背後になんともいえぬ不気味なものが見えた。見間違いであってほしいと思いつつも、華那は懐中電灯をそちらへと向ける。灯りに照らされたのは、顔面蒼白でニタリと笑っている「何か」だった。

続