中編 | ナノ

日常連鎖

元の世界へ戻る方法がわからない。その事実は華那から全ての気力を奪うのには十分すぎた。この世界の全て、姿や声は同じでも、何かが根本的に違う。本当の意味で華那を知っている人はいない。もう二度と会えないなんて、それならもっとああすればよかった、こうすればよかったと、押し寄せるのは後悔ばかり。身体に力が入らず、その場で膝を抱えて座ったまま動くことすらできない。少女の幽霊は何も言わず、ただ華那の傍に居続けた。窓から差し込む光は今ではすっかりと赤く染まっている。

「……わたしは死んでしまいましたけど、貴方はまだ生きているのですから、戻る方法を見つけることだってきっとできるはずです」

それまで黙っていた幽霊の少女が、優しくも力強い声で囁いた。華那は顔を上げた。戻る方法がわからないと言われても、華那はこのまま諦めることなどできなかった。長い間座りこんだ結果、どうやっても戻りたいという気持ちばかりが強くなる。

情けなく床にへたりこんでいる場合じゃないと自分を叱咤し、とりあえずこの世界へ来てしまった原因である四時四十四分四十四秒、自分がどこにいたのか思い出してみる。四時四十四分にこちらの世界に来てしまったというのなら、どうして自分以外の生徒には何も起こらなかったのか、それが引っかかるのだ。

あの時間校内に残っていた生徒は華那だけではない。あのときの華那は政宗の部活が終わるのを待っていた。ということは少なくとも政宗達剣道部員は、間違いなく四時四十四分の時点で校内にいたはずなのだ。だが幽霊の少女の言うことが本当ならば、こちらの世界に存在している政宗はこちら側の住人のままだ。政宗は入れ替わることなく、どうして華那だけが入れ替わってしまったのか。時間だけが原因ではないのなら、残るは場所だ。

「階段の踊り場……あのとき私はあそこにいたんだ」
「……階段の踊り場? もしかして大鏡がある、あの踊り場ですか?」
「ええ。あなたが知っているってことは、あの鏡は昔からある……ってそうよ、鏡。あの鏡よ!」

四時四十四分、華那は階段の踊り場にある大鏡の前で立ち止まった。その瞬間、足元がグニャリと揺れたような気がしたのだ。おそらく足元が揺れたような気がしたそのときこそ、AとBの世界の華那同士が入れ替わってしまったに違いない。その時間鏡の前にいたのは華那だけだった。あの鏡を入口と考えれば、華那以外の生徒が入れ替わらなかったことも説明がつく。

「四時四十四分まで……あと少ししかないじゃない! 急がないと!」

四時四十四分にあの鏡の前で立っていれば、再び入れ替わり元の世界へ帰ることができるかもしれない。あくまで推測の域を出ないが、試してみる価値はあるはずだ。華那は慌てて教室を飛び出し、大鏡がある階段の踊り場へ向かって駆け出した。遅れて幽霊の少女も華那の背中を追った。華那は走りながらも腕時計を何度も確認する。一分一秒ですら今の彼女には惜しいからだ。

なんとか問題の時間までに大鏡の前に辿り着いた華那だったが、全力で走ったせいで息が苦しい。鏡の前で息を整え終えると、挑むような目で大鏡をじっと見つめる。時計の針は四時四十四分を指していて、秒針が四十四秒を刻むその瞬間を静かに待った。辺りに人気はなく、自分の心音がクリアに聞こえるほど静まり返っている。緊張からか、華那はゴクリと生唾を飲んだ。時計の針が静かに四時四十四分四十四秒を指す。だがあのとき感じた足元が揺れるような感覚がない。

「そんな……!?」

華那は信じられないというように辺りを見回した。すると自分の後を追ってきた幽霊の少女と目が合った。彼女の顔は辛そうに歪んでいる。華那と同じ経験をしたからこそ、これが何を意味するのかわかっているからだ。幽霊の自分と目が合うということは、ここは自分達が本来いた世界ではないということ。つまり―――戻れなかった、ということである。

「この鏡が原因じゃなかったの……?」

すっかり泣きそうになっている華那に、幽霊の少女はかける言葉が見つからない。自分だってそうだ。自分は元の世界へ帰る方法を見つける前に死んでしまったが、それでもこの鏡がなにかしらの原因の一つだと確信に近い思いを抱いていたのである。あの時間この鏡を見たせいでこの世界へ迷い込んだと、自分も思っていたのだ。だからその時間この鏡の前に立てば、何かが起こると思っていた。自分はもう帰ることはできなくても、実体のある彼女ならもしかしたら、と。

だがこの鏡が原因ではないとすると、もう自分達にはお手上げだった。華那は先ほどまでとは打って変わって、重い足取りで教室へ戻るために鏡の前を後にした。

「あら……? 待ってください。鏡が!」

幽霊の少女の声に華那はぼやけた視界で鏡を捉えた。先ほどまで変化がなかった鏡が、突如波紋のような模様を描き始めたのである。一体何が起ころうとしているのかわからない。それでも二人は鏡の前から目が離せずにいた。

「……政宗? と……私……?」

鏡の中に映し出された光景に華那は絶句した。そこに映っていたのは華那がよく知っている政宗と、酷く見慣れた自分自身だった。政宗のように勘が良いわけではないが、何故かこのときだけは鏡に映った光景の意味を即座に理解できた。ここにいるはずのない政宗と一緒にいる自分。鏡に映し出された光景は、本来自分がいるべき世界の今の姿だ。鏡に映った自分こそ、この世界で存在しているというもう一人の自分に違いない。

「政宗! それは私じゃないよ! 政宗っ!」

鏡の向こうに自分の声が届くとは思えない。しかしこの光景を目の当たりにした華那は両手で鏡を叩きながら、その子は私じゃない、私はここにいると、叫ばずにはいられなかった―――。

***

部活を早めに切り上げた政宗は、教室で自分を待っている華那の元へと向かっていた。すると待ち切れなかったのか、階段を上がった先に華那の姿が見えた。彼女は政宗の姿を見つけるなり、笑顔で階段を駆け下りてくる。華那は階段の踊り場まで降りてくると、勢いよく政宗に抱きついた。抱きついてきた華那の背中に腕を回しながら、いつになく積極的に甘えてくる彼女に若干戸惑いを隠せない。

政宗が抱きつけば「こんなところで抱きつくな!」と顔を真っ赤にさせて怒るのが常だ。そんな彼女がいくら人気のない校内といえども、自分から抱きついてきたのである。嬉しい半面、彼女の変化にまだついていけない政宗だった。

今の華那なら多少のことは大目に見てもらえるかもしれない。そう思った政宗は人気のないことを良いことに、自分を見上げている華那の顎に手をかけ、唇に触れる程度の軽いキスをした。突然のキスにも関わらず華那は甘い声を漏らす。すると華那はもっとしてほしいと言わんばかりに自分の唇を政宗の唇へと近づける。これ以上すると自分を抑えられるか自信がない。あの華那が自分からそういう行為を求めてくるという事実が、否応なしに政宗の理性を奪いにかかっていたのだ。さすがに焦った政宗は慌てて華那を引き剥がす。華那の顔は見る見るうちに不機嫌になった。しかしそこは女性慣れしている政宗だ。宥め方も心得ている。

「続きは帰ってから、な?」

華那の耳元でそう囁くと、彼女は顔を赤く染め、嬉しそうに微笑んだ。先ほどまでの不機嫌面が嘘のようである。だが次の瞬間、彼女は信じられないことを口にした。

「今日の政宗はとっても積極的なのね! いつもこれくらい積極的になってくれたら私も嬉しいのにな」
「……は? そりゃどういう意味だ?」

それはむしろこちらのセリフである。恥ずかしがり屋で素直じゃない華那のおかげで、政宗は色々と我慢させられることが多い。人目を気にしない政宗からすれば、公衆の面前であろうがお構いなしだ。抱きしめたいと思ったときに抱き締めるし、キスしたいと思ったときにキスをする。

だが華那はそれを嫌がった。嫌われたくはないので、政宗は渋々我慢をしているわけだが……華那の口ぶりでは自分のほうこそ我慢していると言いたげだ。堪らず政宗が目を細めると、華那は政宗の手を掴み、「早く早く! 今朝の約束を忘れちゃったわけじゃないでしょ?」と明らかに話を逸らした。訝しげに思いながらも華那に手を引かれながら階段を上ろうとしたときだった。

―――政宗っ!

自分の名前を呼ばれたような気がして、政宗は踏み出そうとした足を止めた。声の方向は後ろ、おまけに耳によく馴染んだ女のものだった。だからこそ政宗は眉を顰める。何故ならその女は政宗の目の前にいるのだ。それなのにどうして反対方向からその女の声がしたのか。

「どうしちゃったの? 早く行こうよ」
「なあ華那、お前いまオレの名前を呼んだか?」
「ううん、呼んでないけど?」

華那はそう言って首を横に振った。だがいま、間違いなく華那に呼ばれたのだ。政宗は声がしたほうへ振り返る。そこには自分達以外には誰もいない。あるのは踊り場にある大鏡だけだ。鏡には自分と華那が映っている。別におかしい点は何一つ見当たらない。やはり気のせいだったのかと思い、政宗が華那のほうへ向き直る。

―――政宗!

まただ。また華那が自分を呼ぶ声が聞こえた。咄嗟に後ろを振り返るが、そこにあるのは自分達が映った大鏡だけである。目の前の華那は口を閉じていた。見ていたのだから間違いない。そのため華那の声が聞こえるはずがないのだ。

「政宗っ!」

その場から一向に動かない政宗に焦れた華那は、彼の腕を半ば強引に引っ張り歩くよう促した。政宗を呼ぶ声にも僅かな苛立ちが窺える。

―――政宗!

前と後ろから自分を呼ぶ声が聞こえる。どちらも同じ華那の声。同じはずなのに、何かが絶対的に違う声。そのとき何故このようなことをしたのか、政宗にはわからない。もしかしたら深い意味などなかったのかもしれない。

「……華那?」

政宗は目の前の華那にではなく、後ろの大鏡に向かって彼女の名前を呼んだ。次の瞬間、足元がグニャリと歪む気持ち悪い感覚が政宗を襲う。身体が鉛のように重く、手足を動かすことができない。あまりの不快感に政宗は目を閉じた。だがその気持ち悪い感覚はすぐに消え、身体が重かったことが嘘のように軽い。あれは一体なんだったのか。ゆっくりと目を開けた政宗は華那の様子が気になり、大丈夫だったかと声をかけようとしたのだが。

「……華那?」

目の前の華那は呆けたまま動かない。両腕をだらんと下げ、瞳を大きく開けたまま固まってしまっている。何度か呼びかけてみるが反応がなく、些か乱暴だと思いつつも政宗は華那の肩を揺さぶった。間近で見ると華那の瞳は焦点が定まっていないように見える。普通ではない彼女の様子に政宗は不安になった。

「あ……政宗……?」

かっと目を見開いたかと思えば、華那は政宗の顔を両手で掴むなりじっと見つめ続けた。突拍子のない奇怪な行動をとる華那に、政宗は珍しくされるがままである。

「右目がない……」
「……なに今更なことを言ってんだ、お前」
「戻って……これたんだ……よかっ……た……」

今にも泣きだしそうにしながらも、華那は安堵の表情をうかべている。だが言葉は最後まで続かず、華那は政宗の胸に倒れ込んだまま気を失ってしまった。

***

目覚めた華那の目に真っ先に飛び込んできたのは、心配げな目でじっとこちらを覗きこんでいる政宗の顔だった。政宗に支えられながら上半身を起こした華那は、ここが政宗の部屋で、彼のベッドに寝かされていたのだと気づいた。窓の外はすっかり暗い。気を失ってからどれくらいの時間が経過したのだろうか。

「まだ夜の九時だ。日付は変わってねえから安心しな」

窓をじっと見ていたこともあり、政宗は華那が考えていることがわかったらしい。そう言った政宗は右目に眼帯をしている。部屋のそこかしこにある文字は鏡文字ではない。自分がいるべき世界に帰ってきたと実感した華那は、ホッと安堵の息を吐いた。

「一体何があったんだ? 急に倒れるしよ……病院に連れていこうと思ったんだが、小十郎が言うには気を失っているだけだっつーし」
「あー……緊張の糸が切れたっていうか、色々あったのよ」

政宗としてはその色々が訊きたいのだ。だが今まで別の世界に行ってましたなんて言ったところで、いくら政宗といえども信じてくれるかどうかわからない。全部夢だったと言われてしまえばそれまでなのだ。華那ももしかしたら全部夢だったのではないかとさえ思う。だが夢にしてはリアルすぎる。あのとき感じた恐怖や孤独といった感情は今まで味わったことのないものだった。

「……きっとあとで笑うだろうし、信じられないということもわかってる。それでも聞いてくれる?」

政宗は迷うことなく首を縦に振った。華那も頷き返す。本当に色々ありすぎてわからないことだらけだけど、最初に言うべきことはこれしかないと思った。

「きっと……きっと政宗が私に向かって私の名前を呼んでくれたから、帰ってくることができたと思うの」

完