中編 | ナノ

日常崩落

華那の目の前にいる政宗は、左目に眼帯をしていた。今となっては決して見ることができなくなってしまった右目がある政宗。ふざけた夢だとは思っていたが、これは些か悪趣味だ。驚きのあまり呆然としている華那を、政宗は不思議そうに見下ろしていた。

「どうしてもなにも、右目はずっとあるだろうが」
「うそよ! 政宗は昔病気で右目を失ったはず……!」
「華那の記憶違いだろ? オレが失ったのは右目じゃなく左目だぜ」

政宗は真顔だった。とても嘘をついているようには見えない。先ほどまで安心感を与えてくれた彼の手は、とても温かった手が、今となっては酷く冷たく感じられた。目の前にいる政宗は本当に華那の知っている政宗なのだろうか? まるで政宗の外見をした別の何かのようだ。

政宗が得体の知れない何か別の生き物に見えて、そんなふうに思ってしまった自分自身に絶望した。大好きな政宗をそんなふうに陥れてしまったことに耐えられなかったのか、それとも政宗を怖いと思ってしまったのか、あるいはその両方か……華那は政宗の手を振り払うと、教室から逃げ出した。

どこか行くアテがあったわけではない。ただ政宗と同じ空間にいたくなかったのだ。いや、政宗だけではない。この夢の世界では自分以外の人間全員、どこかしらおかしい。鏡文字を見ても動じる様子を見せない。それどころか鏡文字を平然と受け入れてさえいた。

違う。そうじゃない。

誰も動じないということは、それが当たり前なのだ。となるとここでおかしいのは鏡文字を見て動じる側である。

おかしいのは彼らじゃない、私のほうなんだ……。

心のどこかではわかっていた。しかし認めたくなかった。認めてしまえば自分を否定されたような気がしていた。とにかく今は独りになりたかった。どこでもいい、独りになれるのならどこでも……。無我夢中で学校中を駆けて行く。まるで何かから逃げるように走る華那の姿に、すれ違う生徒達は揃って目を瞬かせた。

どれくらい走っただろうか。授業が始まったのか、廊下から人気が消えた。このままアテもなくウロウロしていたら先生に見つかりお説教が始まってしまう。だからといって今更教室に戻って授業を受ける気分ではない。どこか適当な場所で隠れて時間を潰そう。そう考えた華那は手近な空き教室に身を潜ませた。生徒の人数が減ったため使われることがなくなった教室の一つだろう。余った机や椅子が所狭し壁に背中を預け、そのまま崩れ落ちるようにしゃがみこむ。とりあえず落ち着けといわんばかりに大きく深呼吸を繰り返した。

「……夢だとわかっている夢ほど滑稽なものはないわよね」
「―――どうかしましたか?」

大きく息を吸い込んだものの、突然聞こえた声に上手く吐きだすことができなかった。息が詰まりヒュッと妙な声が漏れる。

「だっ、誰?」

この教室に入ったときには誰もいなかったはずなのに、一体どこから? 慌てて立ち上がると、窓の傍に一人の女子生徒が華那を見ながら佇んでいた。今にも消えてしまいそうな、儚げな少女だった。

彼女は華那と目が合うと、にっこりと優しい笑顔をうかべた。妙に大人びた笑顔に、華那はおもわずドキッとした。顔はたしかに華那と同じ十代の少女なのに、彼女の纏う雰囲気が大人の女性のそれだったのだ。実は年は三十ですと言われても驚かない。少女と女性のアンバランスさが彼女を儚げに見せているのだろうか。だがこの少女はどこか変だ。着ている制服も華那のものとどこか違う。失礼だと思いつつも少し古臭い。

「あ、あなたも授業をサボリですか?」

年齢がわからないので口調も自然と敬語になった。年上ということはあっても年下ということはないだろう。先輩には否応なしに敬語確定だ。

「あなたも、ということは……。貴方はどうして授業をサボったんですか? 嫌な科目だった……とか?」
「や、そういうものではなくて……ちょっと一人になりたくなっちゃったんです。私がおかしいのか私以外がおかしいのか、一人になって色々考えようと思って。って何言ってんだって話ですよね。忘れてください」

この世界の彼女にこんなことを言っても意味がわからないだろう。華那は慌てて表情を取り繕った。いっそのこと笑い飛ばしてくれたら少しはこちらの気が紛れるというもの。だが彼女は笑うどころか神妙な表情をし始めたではないか。華那は反応に困った。まさかこんなわけのわからない意味不明な話を真剣に受け止めようとしているのか? 

「……自分がいた世界と同じはずなのに何かが全く違う。だから自分以外の誰もが信じられない。違いますか?」
「なんでそれを……」

華那に起こっていることを知っているかのような、自分の心を見透かすかのような口ぶりに華那は瞬きすることを忘れ大きく目を見開いた。

「例えばそう……左右反転した鏡文字とか?」

華那は息を飲んだ。この世界の文字を鏡文字と称する人間は、文字が左右反転していると思っているからこそ鏡文字という言葉を使う。文字が左右反転していると認識していないと出てこない言葉のだ。となると鏡文字こそが当たり前のこの世界の人間では、この言葉は出てこない。

「どうやら貴方もわたしと同じようですね。ええ、わたしも貴方と同じ、おそらく貴方と同じ世界の側の人間です。そしてある日突然、こちら側にやってきてしまった」
「ちょっと待って、何を言って……」
「先に言っておきます。これは夢ではありません、現実です」
「夢じゃないって……同じ世界とかこちら側とか、一体どういう意味なのよ!?」

華那は敬語を使うということをすっかり忘れてしまっている。だが彼女はそんなことは元々気にしていないようで、驚く華那に落ち着くよう言い、更に話を進めていく。

「まずこの世界が一体何か、そこからお話します。簡潔に言って、この世界は鏡の中に存在するもう一つの世界……俗にいう並行世界です。世界は一つではなく、幾つもあると考えてみてください。わたし達が本来いる世界がAとすると、今いるこの鏡の中の世界はB。このAとBは見えない壁に阻まれて、お互いが決して交わることがない。まるで世界そのものを鏡に映したかのように、何もかも同じ。でも全てが同じというわけではありません。やっぱりどこかがおかしいんです。その証拠に……」
「この世界の文字は全て左右反転の鏡文字……」

彼女は大きく頷いた。ここが鏡の中の世界だとすると、この世界の文字が全て左右反転していることも合点がいく。

「そしてBの世界はAと同じです。Aの世界に存在する人間はBの世界にも存在し、Bの世界に存在する人間はAにも存在する」
「ということはBの世界の私もいるってこと? じゃあ今このBの世界に私が二人もいるってこと!?」
「いいえ、同じ世界に同じ人間が二人も存在できません。貴方がこのBの世界に来たと同時に、Bの世界の貴方はAの世界に弾き出されたはずです」

つまりAの世界の華那とBの世界の華那が入れ替わってしまったということだろう。非常に想像しにくいが、昨日一晩家には華那以外の人間がいなかった。仮にBの世界の華那が本当に存在しているなら、夜中になっても自分の家に帰ってこないことはおかしい。

「じゃあどうしてこの世界の政宗には右目があったのかな……。鏡の中の世界っていうことはわかったけど、それだけじゃ政宗の目のことは説明できない。えっと、政宗っていうのは私の幼馴染なんですけど、昔病気で右目を失っちゃって……でもこの世界の政宗には右目があった。逆に左目がなくなってた」
「その政宗という人はAの世界で右目を失っているのなら、このBの世界では左目を失ったということになるでしょう。この世界は文字だけじゃなく、何もかも正反対なんです。その一番代表的なのが性格です」
「性格?」
「はい。極端な例はAの世界で消極的で大人しい性格の人は、Bの世界では積極的で大胆な性格として存在しています」

何もかも真逆。そう言われると納得できることが何個かあった。政宗が部活を面倒くさいと言ったり、時間に余裕をもって登校してきたり、思い返せば真面目に授業を受けていたような気がする。いつもなら授業中は寝たりサボったりしているのに、今日はそれらが一切なかった。

ならAの世界にいるというこちらの世界の自分はどうなんだろう。自分の性格はそれなりに理解している。素直になれない意地っ張り。その真逆ということは……今頃Aの世界でBの世界の自分が何をしているのかあまり想像したくない。素直な性格と言えば聞こえはいいが、普段思っていても決して言えない心の奥の感情まで吐露していないか心配だ。普段自分の心の奥で渦巻く醜い嫉妬心や欲望まで暴露されているかもしれないと気が気ではない。

「ちょっと待って。一番肝心なことを聞くのを忘れてた。どうしてAの世界にいる私がBの世界にいるわけェ!?」
「………四時四十四分四十四秒」

その言葉に華那はハッとした。

四時四十四分四十四秒に何かが起こるっつーのが、この学校の七不思議。

佐助から聞いたこの学校の七不思議の一つだ。四時四十四分四十四秒に何かが起こるという、あまりに漠然とした、どこの学校にもありそうなものである。だが何が起こるかはわからない。誰も知らないはずだ。まさか四時四十四分四十四秒に起こる何かというのは、もう一つの世界の自分と入れ替わるというものなのではないか。あのとき、一瞬だったが足元がグニャリと揺れたような気がしたが、きっとそのときAとBの華那が入れ替わったのだ。

佐助は言っていた。たしかに何も起こらなかったけど、その後の女子生徒の様子がちょっと変だったからこの話が残ったらしいぜ。前より積極的な性格になったんだってさ……と。

Aの世界で消極的なこの少女が急に積極的になった。ということはこの女子生徒は四時四十四分四十四秒にAとBの世界で入れ替わったに違いない。急に積極的になったのはそのためだろう。ならその女子生徒は今頃どうしているのだろうか?

「……まさか」

華那は目の前にいる女子生徒から目が離せない。

「あなたが七不思議の女子生徒?」
「……七不思議?」
「昔四時四十四分四十四秒の怪を試した女子生徒がいるって話。婆娑羅学園の七不思議の一つなの」
「それは少し違います。わたしは試してなんかいませんし、そもそもわたしが学園にいた頃はそんな七不思議はなかった。わたしは偶然その時間にこちらの世界へ来てしまっただけ。きっとわたしのことがきっかけで七不思議になったんだと思います。そして年月が経つうちに七不思議の噂も変化したんではないかと」
「年月が経つって……あなた、年はいくつ?」
「年齢ですか? 正確な年齢はわかりませんが……軽く五十歳は超えていると思います」
「五十ゥ!?」

華那は目を丸くさせた。落ち着いた雰囲気の女子生徒だとは思っていたが、まさか五十歳を超えているとは。こんなに若々しい五十歳は見たことがない。自分の母親より年上なのに、外見年齢は華那とそう変わらないのだ。クラクラする頭をなんとか奮い立たせる。よく考えてみろ、そんなデタラメな話があるものか!

「ってさすがに信じられるか! 冗談ならもっとマシな冗談を……!」
「いいえ、冗談じゃないんです。変だと思いませんか? わたしの着ている制服、貴方が着ているものと違うでしょう? これは昔の婆娑羅学園の制服なんです。わたしをよく見てください」

よく見てみろと言われても、華那はさっきからずっと彼女を見ている。理由はわからなくても制服が違うことには気づいていたし、これ以上目を凝らして見たところで一体何がわかるのか。

「年齢は五十歳以上なのに、わたしの外見は貴方とそう変わらない。変でしょう?」
「それは……そうだけど……あ?」

彼女が何を言いたいのかわからず、華那は視線をさ迷わせた。そして彼女が何を言わんとしているのか、なんとなくだが理解した。

「あなたの姿だけ………窓ガラスに映ってない」

窓ガラスには華那しか映っていなかった。窓ガラスに背を向けている彼女が映り込んでいないのだ。この世界に存在しているはずなら彼女の姿も映るはず。映らないということは、彼女は既にいない存在ということになる。

「この世界に来たわたしはとても混乱していました。全てが同じようで全てが違うこの世界で、初めて孤独という恐怖を体感したんです。当時のわたしも今の貴方と同じように逃げ出しました。その途中、わたしは突然飛び出してきたトラックに……」

撥ねられ、死んでしまった。

「じゃああなたは幽霊……!?」
「はい。死んでもなお元の世界に戻ることもできず、実体がないままこの世界に留まり続けています。わたしのこの姿は死んだときのまま。フフ、わたしの姿が見えたのは貴方が初めてでした。こうやって誰かと話すのは何十年ぶりかしら」
「元の世界に戻ることもできないって言ってたけど、本当に元の世界に帰る方法はないの!?」
「どうやって元の世界に帰ることができるのかは、誰にもわかりません。そもそも自分がどうやってこの世界に来たのかもわからないのです。来た方法もわからないのに、帰る方法がわかるはずもありません……」
「そんな……」

幽霊の少女は悔しそうに唇を噛み締めている。何も言わなくても彼女の表情から、彼女が味わった無念さや絶望が伝わってきた。明確な出口があるわけではない世界からどうやって出ることができるのか、華那には想像することすらできない。華那の全身から力という力が抜けていく。

もう元の世界に帰ることができない……。元の世界に帰ることを諦めてこちらの世界で生きていくという選択肢もあるだろう。自分の知っている人がこの世界にも存在して、同じ笑顔で接してくれる。華那を知っている人はちゃんといる。政宗だっているのだ。この世界の政宗も元いた世界の政宗と同じように華那のことを愛してくれている。

それでもやっぱり、元いた世界に帰りたい。右目を失った政宗の傍に帰りたい。どんなに帰りたいと願っても帰る方法がないなんて……華那は力なくその場にへたり込んだ。

続