中編 | ナノ

日常汚染

「政宗。一緒にお昼食べよー」
「おー」

なんだか今日の華那は変だ。どこが? と訊かれると答えられないのだが、とにかく変なのだ。授業中はともかく、それ以外の時間は常に政宗にべったりとひっついている。何があっても政宗の傍から離れないと言わんばかりにぴったりと彼の傍から離れない。移動教室も一緒に行動し、休み時間は政宗がどこかに行こうとするとついてくるほどだ。普段の華那からは考えられないくらい積極的。

これには周囲の生徒も目を見開いた。皆は口を揃えて一体あの二人に何があったのかと華那の親友である遥奈に訊ねたが、彼女も何が何だかわからず珍しく困惑する始末。

ここ最近特に何かあったというような話は華那から聞いていない。もしかして遥奈に話していないだけで何かあったのかも? と言うクラスメイトには華那は態度に出るからすぐわかると返した。現に彼女は何かあるとすぐに態度に現れる。元々人間観察は得意な方だ。華那に限らず、その人に何かあればなんとなく察することができる。その遥奈の目をもってしても華那はいつもと変わらなかった。だからわからない。

好きな人と一緒にいたいという気持ちは遥奈もわかる。だが付き合いたてのカップルならまだしも、華那が政宗と付き合い始めてかなりの時間が経過している。今更四六時中一緒にいたいと言うのもどうだろう。

気になる点は実はもう一つある。政宗が華那以外の女子生徒と話しているときだ。政宗が自分以外の女子と少しでも会話をしようものなら、すぐさま鬼の形相をした華那がそこに現れ、その女子生徒を追っ払ってしまうのだ。おまけにそのとき言ったセリフが「私の政宗と勝手に話さないで」ときた。自分が政宗の彼女だと言わんばかりに、政宗の腕に自分の腕を絡みつけたり抱きついたりして、あからさまに周囲の生徒に自分達の仲を見せつけているのである。悔しそうな表情をうかべその場から逃げ出す女子生徒の背中を見送る華那の表情はとても優越感に満ちていて、遥奈ですら嫌悪するほどの勝ち誇った女の顔をしていた。普段のお馬鹿な華那からはとてもではないがありえない。

まさかこの私が開いた口が塞がらないという言葉を、身をもって体験する日がくるとは思ってもいなかったわ……。

遥奈は政宗が自分以外の女子と話している姿を、少し離れた場所からつまらなそうに眺めていた華那を知っている。ただつまらなそうな表情をしているだけで今のように何か行動を起こすというわけではない。遥奈が「気になる?」と指摘すると、「気にしてなんかない!」と早口で捲し立てるのが常だ。気にしてなんかないと言っても、華那は面白くないのか少し頬を膨らましていたのが遥奈には滑稽だった。

「いくらなんでも今日の華那は変よね……」

一体あの子に何があったのだろうか。このまま考えているだけでは埒が明かない。いっそのこと本人に何かあったのか問いただしてみよう。ずっと考え続けていたせいなのか、いま目の前にいる華那は本当に華那なのかと、わけのわからないことまで考えてしまった。どうやら遥奈も相当煮詰まっているようである。

「華那、ちょっと話があるんだけど……って、あら?」

さっきまでそこにいたはずの華那の姿が見当たらない。教室中を見回してみるが、華那だけでなく政宗の姿までない。すると近くにいた一人のクラスメイトが遥奈に、

「音城至さんなら伊達君と一緒にお昼食べに行ったよ」

と教えてくれた。お昼を食べに……どこへ行ったのだろう。食堂……は考えにくい。二人とも弁当を持参している。となると屋上か? いやでもこの炎天下、屋上でお弁当を食べるということは考えにくい。誰が隙好んで暑い中で弁当を食べたがる。

「となると冷房が効いている生徒会室ね……!」

あそこなら冷房完備だし、二人きりでゆっくりお弁当を食べることができるはず。生徒会メンバーは会長である政宗に気を遣ってか、なるべく昼休み中は生徒会室に近づこうとしない傾向があるのだ。まあ遥奈の予想では気を遣うというよりは、二人っきりのお昼休みの時間を邪魔された政宗の報復を恐れて近づこうとしないだけと思っているわけだが。

「私は伊達君の報復を恐れるタイプじゃないのよね」

昼休みというチャンスを逃したら放課後まで華那を問い詰めることができなくなってしまう。生徒会室に行こう。珍しく気持ちが急いていたのか、遥奈が慌てて教室を飛び出そうとしたときだった。

「あ……!」

身体が華那の机に当たってしまい、彼女の机の上に置かれていた数冊の教科書やノートが床に散乱してしまった。見ると四時限目で使っていた教科書とノートだった。机の上に置きっぱなしにするとは珍しい。落としてしまったことへの罪悪感と、始末の悪い華那への苛立ちを抱きながら教科書とノートを拾っていく。ノートに至っては落ちた拍子に中のページが開いていた。

授業中ちゃんとノートをとっているのかしら? 

中を見る気はなくても自然と視界に入ってしまう。

もしかして人には見られたくない恥ずかしいラクガキとか描いてあったりして? 

人の物を勝手に見るのはいけないこと。と頭で理解していても、一度気になってしまうとこの好奇心は抑えようにも抑えられない。

これは私の意思じゃない。偶然、偶然よ。落ちた拍子に中が見えちゃっただけ。悪いのは机の上に置きっぱなしにしていた華那であり私じゃない……と。

心の中で見苦しい言い訳をしながら、遥奈はパラパラとノートを捲っていく。一応ちゃんとノートはとっているようだ。しかし完璧ではない。ところどころ抜けている箇所がある。大方居眠りをした箇所だろう。

こりゃ次のテストのときも私にノートを貸してって泣きついてくるんでしょうね。

「あら……?」

とあるページを見た途端遥奈の手の動きが止まった。そこは今日の授業の分のページである。遥奈はこのページに書かれていることが信じられず、不思議に思いながらこのページより前のページをもう一度開いた。そしてまた最後のページを開く。最後のページだけ明らかにおかしかった。普通ならこんな書き方は絶対にしない。する必要がない。

「なによこれ……?」

最後のページだけ、何故か全ての文字が左右反転―――鏡文字で書かれていたのだ。

***

華那が異変に気付いたのはその日の朝だった。いつもと変わらない自宅、通学路、学校。ただ一つだけおかしい点を挙げるなら、この世界にある全ての文字が左右反転、俗に言う鏡文字だったということだけである。逆にどうして昨日は気づかなかったのか、それが不思議でならないほどだ。自宅にある物で文字が書かれているものは全て左右反対だった。

最初は何の冗談だと思った。自分の目がおかしいのかと思ったがどうやらそうでもないらしい。気持ち悪くなって慌てて家を飛び出すと、道路の標識、街の広告、ありとあらゆる文字の全てが鏡文字だった。華那の視界がグニャリと歪む。気持ち悪いを通り越して怖いという感情が生まれつつあった。少なくともここでは鏡文字が当たり前なのだ。むしろおかしいのは華那だけという状態である。

それは学校で確信した。黒板に書かれている文字、壁に貼られているポスターの文字、これら全ての文字も左右反転だった。そして誰一人としてそれを疑おうとしない。そんな馬鹿なと、華那は自分のノートを一冊ずつ全てチェックした。そこに書かれていた文字は全て左右反転……鏡文字だった。

「うそだよ……こんな文字、書いた覚えがないもん」

これは夢……そうだ、夢に違いない。夢から覚めるにはどうしたらいい。誰かに起こしてもらえば早いのだろうが、生憎と一人暮らしの華那には起こしてくれる誰かはいない。目覚まし時計くらいなものだ。華那は机に突っ伏して、世界の全てを拒絶するかのように両耳を塞いだ。

誰か……誰か……! 誰でもいい。なんでもいいから早く私を起こして! こんな変な世界から連れ出して……政宗……!

「大丈夫か、華那!?」

華那の頭に、誰かの手がそっと触れた。触れられただけで誰の手かわかる。触れた場所がとても温かく、これ以上ない安心感を華那に与えてくれる。こんな魔法のような手を持つ人物は華那が知る限り世界で一人きりだ。

「政宗ぇ……」

顔を上げると、心配気に華那を覗きこんでいる政宗と目が合った。例え夢の世界の政宗であっても、彼の顔を見ただけで我慢していたものが溢れだしそうになる。さっきまでこんなにも大勢の人間に囲まれているのに、まるでこの世界に独りぼっちというどうしようもない孤独感に襲われていた。人前で泣くなんて情けない真似はしたくない。しかし華那の意思とは関係なく、彼女の両目は今にも決壊寸前だった。

「どうしたんだよ、ンな顔して……腹でも痛いのか?」
「ううん……政宗の顔を見たら、なんだか安心しちゃって」
「今日は本当に変だな。いつもより早く登校してきたと思ったら泣きそうな顔してるしよ」
「………いつもより、早い?」

そんなに早かっただろうか。朝はあまりにも頭が混乱していて、まともに時計すら見ていなかったような気がする。壁にかけられている時計に目をやるが、時計の針は華那がいつも登校する時間を指している。別に早くもないが遅くもない。いつもと同じ時間に登校しているのに、どうしていつもより早いなどとふざけたことを言っているのだろう。それどころか。

「早いのは政宗のほうじゃん。いつも遅刻ギリギリに来るくせに……」

この時間で政宗が教室にいることのほうが珍しい。

「は? オレはいつも早いだろうが。遅刻ギリギリなのは華那のほうだろ」

政宗は怪訝そうな顔をうかべた。華那も政宗と同じく、怪訝そうな顔をする羽目になった。どういうことだ。話がまるで噛み合わない。

「それに今日はいつもみたいにひっつかねえだろ? マジで腹でも壊したか?」
「いつも……ひっつく?」
「いつもひっついてんだろ。オレがどこかに行こうとすると必ずついてくるしな。あとオレが他の女と話そうとしたらものすっげぇ剣幕で怒るしよ。ま、惚れた女に嫉妬されること自体は、悪い気はしねえんだけどな」

愛されている証ってことだしよ! そう言って政宗は二カッと笑っている。だが華那は笑えない。なんだその女版政宗のような私は。女版といっても政宗はそこまで酷くない。自分が言うのもアレかもしれないが、そういう女ははっきり言ってウザイ。好きな人と一緒にいたいという気持ちはわかるが、物事には限度というものがある。

いやそうじゃなくて。私にそんな恥ずかしい真似できるわけないじゃないか!

「ほんと、夢なら早く覚めてください……」
「なに言ってんだ、お前?」

政宗は華那の顔をまじまじと見つめた後、自分の手を華那の額にあてた。熱でもあるのかと思っているのだろう。しかし華那は至って健康だ。熱なんかあるはずもない。つまりそれほど華那の言動がおかしいと政宗は思っているということだろう。これはこれで屈辱的だ。

「政宗、いい加減に……!」

華那は咄嗟に息を飲んだ。言葉が続かない。政宗の顔から目が離せない。ただ政宗の顔をじっと、信じられないものを見るかのような疑惑の目で見つめることしかできずにいた。

「ど、どうしたんだ華那……?」
「どうして……?」
「なんだよ?」
「どうして右目があるの……?」

どうして今まで気づかなかったのだろう。華那は呆然と、失ったはずの右目がある政宗を見つめ続けた。

続