短編 | ナノ

梅雨の日の悪夢

その日はまだ夕方だというのに窓の外は既に薄暗く、空はどんよりとした重々しい雲で覆いつくされていた。耳に聞こえる音はザーザーという雨の降る音だけ。土砂降りではないが傘がないことには歩けない、といった雨で、道行く人々は足元が濡れることに不快感を覚えつつ歩いていた。

雨が降っている日は室内の空気もどこかどんよりしている。灯りが点いているにも関わらずいつもより薄暗く、そんな部屋にいるせいか気分もどちらかというと下降気味だ。どんなに楽しみなことがあっても気分は下がる一方なときに、更に気分が滅入ることが起これば人間はどうなるのだろう。

「………今日は一日中雨、だねぇ」
「梅雨だから仕方がないのではないか?」

机に顎をのせて両腕をブラブラと動かしながら、音城至華那は退屈そうに口を尖らせた。彼女に言葉を返したのは彼女の横の席に座っている真田幸村だ。彼は彼女と違って真面目に座っており、目の前のプリントにペンを走らせている。が、走らせているだけで先ほどから全然進んではいない。書いては消し、書いては消しを繰り返していたのだ。

「………梅雨ってなんでこんなにジメジメするのかな。こう、纏わりつくような湿気さえなければ、ちょっとはマシだったかもしれないのに。この劣悪な環境にも、少しは耐えられたかもしれないのに」
「確かにこの湿気は酷いな。先ほどから手に汗をかいて、シャーペンが引っ付いて離れないのだが……」

雨が降るのは別に構わない。華那にも恵みの雨という自覚があり、雨が降るのはいいことだと思っている。しかし日本特有のこの湿気が耐えられないのだ。湿気さえなければと梅雨がくるたび思っている。いい加減懲りないかと思うほど思っていた。

「雨の日の教室ってさ、なんか薄暗いよね。蛍光灯もいつもより暗く見えるよ」

華那は大儀そうに目を動かし、天井でチカチカと点滅している蛍光灯を見る。太陽の光が差し込まないだけで、ここまで暗くなるとはちょっと意外だった。しばらくの間、華那は何もせずボーっと天井を見上げていた。虚ろな目で蛍光灯を見上げていたら、段々と不思議な気分になってくる。心が何かに蝕まれ、堪らず奇声を上げたくなってきていたのだ。ウズウズと身体が疼く。

「……ただでさえテンションガタ落ちの日にさァ、補習なんてしなくていいと思うんだけどォ!」

心身の疼きに耐え切れず、華那は机をバンッと叩きながら悲鳴を上げた。横にいた幸村も彼女の突然の行動に大きく肩を震わせる。その拍子に手に力が篭もり、シャーペンの芯がボキッと折れた。

今日は前回のテストで赤点をとった生徒の補習日である。放課後、ある程度の人数を複数の教室に集め、予め作っておいた問題プリントを解かせるのだ。できるまで家に帰ることは許されず、生徒達は仕方がなく問題を解く。

しかし華那達がいる教室の担当教師が先ほど用事で席を外し、今はちょっとした自習時間と化していたのだ。補習を受けるような生徒が教師のいない間もせっせと問題を解くわけがない。幸村以外の生徒は教師の姿が遠ざかるのを確認すると、華那を筆頭に残る生徒達はしばし休憩モードに入っていた。華那のようにダラける者、お茶やお菓子を飲み食いする者、せこい者はケータイで友人に問題の答えを聞きだすような真似もしていた。

「……先生がいないうちに教科書の答えを丸写しして、さっさと帰るのがベストだね。今日は見たい番組もあるっていうのに……」

ゴソゴソと鞄を漁り、お目当ての教科書を探す。しかしいくら探してもお目当ての教科書だけ見つからない。仕舞いには鞄の中身を机の上にばら撒き、鞄を逆さまにして揺さぶってみたのだが、それでもお目当てである生物の教科書だけ見つからなかった。教室に置き忘れたかと思った華那は、今日一日の行動を振り返ってみる。今日は生物の授業があり、生物室で実験を受けた。そのときは教科書があったはずである。となると、生物室に忘れてきたか、教室に置き忘れたかの二択だ。

「幸村。教室に忘れ物しちゃったみたいだから、ちょっと取ってくるね。先生が帰ってきたら旨く誤魔化しておいて?」

***

放課後の学校は気味が悪い。それはいつの頃からは不明だが、どの学校でも通用する常套句である。いくら部活中の生徒や職員室には教師がいるといっても、全校生徒がいるときほどの活気はないのだ。特に廊下は人気が感じられず、延々と続きそうな長い廊下が妙な不気味さを臭わせている。特に今日は雨。不気味さはいつもの三割り増しだった。

教室ならまだしもなんで生物室に忘れ物なんかしちゃうかな。特別棟ってただでさえ人気が少ないっていうのにッ!

この学校は普通棟と特別棟に分かれており、各階に設置されている渡り廊下で二つの棟が繋がっている仕組みになっている。華那がいまいるのは普通棟で、ここは主に通常の教室で占められている。特別棟は音楽室や生物室、化学室に美術室といった教室で占められていた。普通棟は放課後でも教室に残ってお喋りをしている生徒がいるためそこそこ賑やかなのだが、特別棟はただでさえ用事がない限り立ち入ることがないところだけに、放課後になると部活動以外の生徒はいなくなる。

だが華那の気が滅入るのはそれだけが原因というわけではなかった。いま向かっている生物室、そこの教室の鍵を持っている教師に遭いたくないからでもある。この学校には一癖も二癖もある生徒が集まるといわれているが、それはなにも生徒に限った話だけではない。生徒が集まれば、教師もまた一癖も二癖もある者が多いのである。

まず理事長からアウトよね。よくあんな人が学校経営なんてやろうと思ったなァ。

この学校の理事長、織田信長。まず人相からして子供を教育する人間の顔ではないと華那は思っていた。どちらかといえば政宗と同じ世界ですと言われたほうが素直に納得できる。白い粉を売ってますと言われるほうが、「あ、やっぱり」と思える辺り教育者として如何なものだろうか。

そんなことを考えつつ黙々と歩く。華那自身気づいているかわからないが、その足取りはいつもに比べると若干速い。無意識で早く忘れ物を見つけて帰りたいと思っているが故の行動だった。ただでさえ人気が少ない廊下。今日は雨で外は薄暗く、世界そのものが重たく淀んでいるような錯覚を覚える。

でも先生に「教科書忘れちゃったみたいで、鍵貸してくれませんか?」って言うほうが勇気いるッ! やっぱり無理やりにでも幸村を引っ張ってこればよかったかも……。

後悔してももう遅い。何故ならもう既に、生物室の前まで着てしまっていたからだ。閉まっているとわかっていても、もしかしてという淡い期待を抱くのが人間の愚かな性である。華那もこの性に逆らえず、閉まっているとわかっているにも関わらず生物室の扉に手をかけた。本来なら扉は開かず、どんなに動かしてもびくともしないのだが今回は少々事情が変わっていた。

「開いた……?」

どうやら鍵をかけ忘れていたらしく、閉まっているはずの扉がすんなりと開いたのである。予想だにしていなかった展開に、華那の口から呆けた声が漏れた。開いているのであれば話は早い。遭いたくない教師に遭わずに忘れ物を取って戻れると思っただけで心が軽くなる。本当ならここで鍵が開いてましたよと報告すべきなのだが、非優等生である華那にそんな芸当ができるはずもなかった。

サッと辺りを見回し、教科書がないか目を凝らして窺う。すると自分が座っていた近くの机に、一冊だけ無造作に置かれている本が目に入った。間違うはずがない、あれこそ自分が探していた教科書である。華那はすぐさま教科書を手に取り、自分のものかどうかチェックする。

ようし、目的のブツは手に入ったことだし。こんな不気味なとこ早くおさらばしちゃおう!

生物室ということもあってか、教室には不気味なものがそこらじゅうに置かれていた。骸骨に人体模型、挙句の果てにはホルマリン漬け。どれも年頃の乙女なら悲鳴の一つでも上げたくなるものばかりである。なるべくこれらのものを見ないように意識しながら教室を後にしようとしたときだった。視界の隅で、何かが動いたような……気がしたのである。扉を開けようとしていた華那の動きがピタリと静止した。

い、いま何か動いたような……き、気のせいっ、気のせいよね。大体、ここには私しかいないわけだし。

まるで自分に言い聞かせるように、バクバクと脈打つ心臓を落ち着かせるためにブツブツと呟き始める華那。傍から見れば彼女も十分危ない側の人間だが、いまの彼女に周りを気遣う余裕などない。

まさにそんなときだった。彼女の肩に、何かが触れたような気がしたのだった。華那は声にならない悲鳴を喉の奥で止めることには成功したが、心臓の鼓動がますます早くなる。このまま後ろを振り返らないで立ち去ればいい。そうすれば何もなかったまま終わらせることができる。

しかしこういうとき、確認しないことには安心できないのも人間の性である。なにより恐怖心と好奇心を秤にかけた結果、僅かながら好奇心に傾いてしまったのだ。華那は覚悟を決め、ぎこちない動きで首を動かし、背後を振り返る。

華那の肩には白い手が触れていた。誰もが羨むほど真っ白で細い手。女なら誰もが憧れるような手である。しかし華那はその手に憧れを抱かなかった。目玉が飛び出るのではないかというほど目が飛び出し、数秒の間華那の思考は停止した。何故なら背後にいたものが―――不気味なまでに真っ白な骸骨だったからだ。

「うっぎゃぁぁあああっ!」

華那の女らしかぬ悲鳴が、雨が降り注ぐ校舎中に響き渡った。丁度そのとき、空では閃光が走り轟くような雷鳴が鳴り響いていたという。


外は灰色の雲が光を遮り、雨が絶え間なく降り注ぐ。纏わりつくような湿気の効果もあって、誰もがジメジメとした気分でいる中、剣道場内だけは張り詰めた空気が漂っていた。

剣道着を纏った一人の青年と制服を着崩した長身の男子生徒が、竹刀を構えながら互いを見据えている。ただ睨み合っているだけなのに、二人を見守る大勢の男子生徒達はゴクリと息を呑んだ。二人から放たれている気迫に、身体の震えが止まらない。お互い見合ったまま動かないのは、隙を突こうとしているためか、それとも先に仕掛けたほうが負けると察しているからだろうか。お互い適度な距離を保ちつつも、攻撃を仕掛ける様子はない。

しかしここで勝敗は決した。制服を着ている男子生徒がこの空気に耐え切れず、先に攻撃を仕掛けてきたのだ。すると剣道着を纏った青年は、一瞬で間合いを詰め強烈な一手を相手に食らわせる。審判役を兼ねていた一人の男子生徒が「一本!」と凛とした声で高らかに宣言した。この声を合図に剣道場を包んでいた緊張感は一瞬で消え、二人の試合を見守っていた生徒達は長い溜息をつく。そして口々に勝者に賛辞の言葉を投げかけた。

「すっげぇ! やっぱ主将はかっこいいや!」
「オレ達も主将のように強くなりたいぜ!」
「今年の大会はいただきっスね!」

次々と賞賛を投げかける部員達に、主将と呼ばれた男は不敵に口角を上げる。

「Ha! 当たり前だろ? このオレがこいつに負けるなんてありえねえんだよ」

当然だと自信満々な尊大な態度で言ってのける彼―――伊達政宗はこの剣道部の主将だった。彼は剣道部部長だけでなく生徒会の会長も務める、この学園で一番の有名人である。

彼の剣道の腕はずば抜けており、高校二年にも関わらず既に参段という実力の持ち主だ。全国大会でも優勝候補として名を上げられるほどの実力保持者に勝負を挑んだのは、政宗より一つ年上の長曾我部元親である。彼は剣道部員でもないし、有段者でもない。ただ暇つぶしのつもりで政宗の勝負を挑んだ、所謂お遊びだったのだ。

しかしお互い負けず嫌いな性格をしているためか、遊びのつもりでもいつの間にか本気になっているということがよくある。勿論有段者である政宗は手加減をしている。だがそれでも負けたくない故に、周りからは大人気ないといわれるような素振りを見せていた。その結果、元親はこてんぱんにやられてしまったというわけである。

「お前なァ、ちったァ手加減しやがれ! 俺は素人だぞ!?」
「素人が有段者にケンカ売るんじゃねえよ。よしオメーら、各自二人一組になって練習しやがれ!」
「ハイッ!」

政宗の号令一つで、部員達はすぐさま行動する。誰もが嫌そうな顔色一つせず、心から政宗を尊敬している証拠といえよう。部員達を見ながら元親は壁際でしゃがみこみ、政宗は壁に背を預けしばしの休憩に入った。

「つーかなんでテメェがここにいやがる?」
「この前のテストで赤点を取っちまってよ。今日はその補習日なんだがあまりにつまらなくて、センコーの目を盗んで抜け出してきた」

元親も華那と幸村同様、今日は補習を受ける日だった。学年が違うので決して一緒になることはないが、元親と華那は補習仲間として妙な連帯感を持っている。補習というものに全く縁がない政宗は、そんな二人の連帯感が妬ましいと思うときがある。どんな理由にしろ、好きな女が自分以外の男と仲良さげにしている光景は面白くないのだ。それが人一倍嫉妬深い政宗なら尚更だ。が、かといって華那と一緒に補習を受ける気は皆無だった。一緒に補習を受けたらそれこそ本当の馬鹿である。

「今日の補習はよりによってアイツだしよォ……。野郎共全員逃げたがってたぜ」
「Ah―n? 誰なんだよ、そのアイツって?」
「最近赴任してきた生物教師だよ……知らねぇのか!?」

あんなやつ、一目見たら絶対忘れねえぞ!? と目を丸くさせる元親に、政宗はムッと眉を顰める。元親の言い方に腹が立ったからだ。知ってて当たり前だと言わんばかりの言い方に、政宗は馬鹿にされたと感じたのである。

「赴任してきたやつがいるってことくらいは知ってる! だがそいつの担当は三年だろうが。二年のオレには縁がねえんだよ」

教師というものは授業がないと意外に接点がない。元親が言っている生物教師は主に三年の授業を教えているため、二年の政宗には縁がないのである。いくら生徒会長であるからといっても、教師全員を知っているわけでもなかった。

「いいよなー……あいつの授業がないなんて」
「What?」

元親はげんなりとした表情を浮かべながら膝に顔を埋める。彼の言いたいことがわからず、政宗は器用に片眉だけ上げてみせた。

「あいつの授業はあれだ、一種のトラウマだ……。オメーだってあの噂くらいは知ってるだろ?」
「Ah あれだな、命惜しくば生物室に近づくな、だろ。華那に聞いたことがある」

政宗がこの噂を聞いたのは丁度一週間前のことだった。

「―――命惜しくば生物室に近づくな」
「Ha?」

おどおどしい声で突然こんなことを言った華那に、政宗はおもわず読んでいた雑誌から顔を上げた。それまで政宗は雑誌を読み、華那はそんな彼を見ながら、いつもの昼休みを過ごしていた矢先の出来事である。華那がなんの前触れもなく、唐突にこんなことを言ったのだ。

「………っていう噂が、三年生の間で流行っているらしいのよ」

政宗の注意を惹けたことで、華那は若干口を綻ばせる。政宗は彼女の言葉に黙って耳を傾けた。

「私もよくは知らないんだけどね。放課後、誰もいない生物室に行ったら、二度と生きては出られないんだって。他にも噂があったんだけどなんだったけなー…。そだ、生物室からは夜な夜な奇声が聞こえ、そこで人体実験をしているとかしていないとか。で、どっちにしても物騒だから、結論が「命惜しくば生物室に近づくな」ってことになったらしいよ」
「どっちだよ?」

どこの学校にもよくある怪談話だと思い、政宗は短い溜息をついた。こういった類の噂が流行るのは精々小学校までだと思っていたが、どうやら高校生にも通用するらしい。馬鹿馬鹿しくてなんとも言えない話だ。あからさま信じていない政宗の態度に華那は頬を膨らませる。

「勇気のある先輩達がこの噂の真意を確かめようとしたけど、何があったのか翌日以降姿を見せていないって言ってるもん!」

風の便りによると、自宅で床に伏せているとのことなのだが(何やら意味不明の言葉を呟いているらしい)、それらの真意を確かめる術はない。実際に学校を休んでいるのだが、それは噂の信憑性を上げるための演技だと政宗は思っていた。妙なところで素直な華那は、すっかりその話を信じている様子だ。

「華那は怪談話、平気だったよな?」
「怪談話は好きだともサ! でもこれって怪談話とちょっと違うっぽくない?」

華那は俗に言うお化けや幽霊が苦手ではない。むしろ好きなほうに入る。彼女が苦手としているものは台所にいる生きた化石と、人気がなくて真っ暗な場所だ。そのため放課後の学校という部分に華那は引っかかっていたわけである。生物室は昼間に訪れても、置いてある物のせいで不気味に感じるような場所だ。不気味さは何倍にも膨れ上がる。

「どんなに騒いだところで所詮は噂話だろ。すぐに消えるに決まってる」

***

そう吐き捨ててこの会話は打ち切られたわけなのだが、元親は項垂れながら小さく首を横に振った。

「ありゃ真実なんだよ……」
「オメーまでンなことぬかしやがるか」

華那だけでなく元親もこの噂を信じているようで、政宗は呆れた眼差しを彼に向けた。やっぱり単細胞同士そういう部分も似ているのかと内心で馬鹿にしながら。

「あのセンコーがきてからというもの、生物室じゃロクなことが起きねえ。絶対あのセンコーが一枚絡んでやがるぜ!」
「だからそのセンコーってどんなやつなんだよ?」

話の根底にある生物教師が誰なのか知らないので、政宗は何も言うことができない。元親の結論が堂々巡りで、政宗はいい加減にしろと言いたくなる。もっと正直に言えばウザイ、だ。話を進める前に、その生物教師の説明をしてほしいものだ。

「一言で言えば変態だ」
「Perversion?」

何を言い出すと思いきや、いきなり変態と言われ政宗は目を細めた。一言めに変態だと力強く断言されるような人間がここの教師なのかと、政宗はこの学校の人事を疑ってしまう。この学校の採用基準は何なんだ。

「変態っつっても色々あるだろうが」
「人の身体を見て「解剖しがいがある」って言っちまうような変態だ」

まずい、正真正銘の変態だった。政宗は自分が訊いたくせに訊くんじゃなかったと後悔した。生物教師という肩抱きが、その変態度を増している。変態にも色々な意味があるが、これ以外の変態ならまだ救いがあったかもしれないのに。

「生物準備室に入ったことはあるか? そいつのせいでとんでもねェことになってるぜ」
「そういや生物室の物が増えてたような気がするぜ……」

普段なかなか立ち入らない教室だけに確証はないが、ガラスケースに入れられているホルマリン漬けの数が微妙に増えていたような気がする。それもよくあるようなホルマリン漬けではなく、少々マニアックな生物のものが、だ。正直、この生物はなんですかと訊ねたくなるほどのものである。

「筋金入りの変態教師ねぇ……。そこまで言われちまったらこっちまで気になってきたじゃねえか。今からその生物教師の面でも拝みに行くか!」
「はぁ!? 正気か政宗ッ!?」

政宗の発言に元親は大きく目を見開いた。元親はなんとか政宗を引きとめようと試みるが、好奇心に火が点いた政宗を止めることなど誰もできやしない。この場に華那がいたら可能性はあったかもしれないが、彼女は今頃補習授業中だ。いない人間に希望をもつほど愚かな真似はない。

嫌がる元親を無理やり引き摺って、政宗は剣道場を後にした。結果的に政宗に付き合う羽目になった元親は、既に疲れきった表情を浮かべながら生物室に向かっていた。肩を並べて歩いている政宗の表情は怖いもの見たさなのか活き活きとしている。あまりに対照的すぎて泣けてきた。

こいつはあのセンコーに会ったことがねえから……!

あの教師を一度見た者なら皆口を揃えて、「できることならもう関わりたくない」と言うだろう。ここ最近では生物の授業があると誰もが憂鬱な気分になり、クラスのテンションは一日中低いのだ。

「普段特別棟になんざ行かねえからか、随分と気味が悪く感じるぜ」
「夜だったら完璧にお化け屋敷だな。あの怖がりなオクラが必死に平静を装う姿を想像しただけで笑えてくるぜ」
「An? 毛利の野郎、怖いのが苦手なのか?」

政宗は意外そうに眉を上げる。怖いものが苦手なのは幸村だけだと思っていたが、実はそうでもないらしい。あの涼しい顔が恐怖で歪めば、普段から彼と言い合っている元親からすれば面白いだろう。

「ああ、そうだな……ここで悲鳴が聞こえたりしたら、それだけでもビクっと……」
「―――うっぎゃあぁぁあああ!」

ヒヒヒ、と元親が笑ったときだった。遠くのほうから悲鳴とも断末魔とも気合の掛け声とも取れる叫び声が聞こえたのだ。丁度そのとき、窓の外では轟くような雷鳴が響き渡る。薄暗い廊下に灯りを点すように、一瞬だけ廊下が真っ白に包まれた。突然聞こえた悲鳴に元親の身体はビクッと電気が走ったように震え、政宗も何が起きたのかと隻眼を丸くさせる。

「…………な、なんだァ?」

最初に口を開いたのは元親で、まだ呆けているのか浮いているような声色である。しかし政宗は廊下の奥を睨みつけるようにじっと見続けていた。

「………………華那?」
「は?」

心ここにあらずといった声で、政宗は華那の名前を呟いた。怪訝そうに目を細めながら元親は呆然としている政宗に目をやる。政宗が呆けていたのは僅かな間で、彼の目がピクリと動くと、いきなり走り出したのだ。元親は何事だと思いつつも、前を走る政宗に追いつこうと走り出す。政宗は生物室の前で止まると、壊すような勢いで扉を開け放った。そして教室に足を踏み入れるなり、彼にしては少し焦っているような声で最愛の少女の名を叫ぶ。少し遅れて元親が到着し、壁の隅にある電気のスイッチを押した。教室に灯りが点り、全てのものを浮き彫りにしていく。

「………………What happened?」

二人の目に飛び込んできた光景に、政宗と元親の口から揃って間抜けな声が漏れた。二人の視線の先には床にしゃがみ込み、骸骨の標本と仲良く抱き合っている華那の姿があったからだ。骸骨の標本と仲良く抱き合っている彼女を見たら、彼氏はどんな反応をするべきなのだろう。

オレ以外の男と抱き合うなと嫉妬するべきなのか。が、それ以前に骸骨の性別が男なのかも定かではない。ではどういった反応をすべきか。あえて見なかったふりをするか、気にしないふりをするべきか。最近寝不足だったからなと自身に暗示をかけ、一度外に出てもう一度扉を開けてみるのは如何なものだろう。そうすればさっき見た光景は幻で、骸骨と抱き合っている彼女の姿など初めからなかったことにできるかもしれない。

「………何やってんだ、華那?」

政宗はなんともいえない複雑そうな表情を浮かべながら、とりあえず最初に思った疑問を口にすることにした。だが彼女は彼の問いかけに反応せず、ただ骸骨と抱き合ったままである。ギュッとしがみ付いて離れない、というより一度しがみ付いたら放さないと言わんばかりだ。

しばらく黙って華那を見ていたが、彼女は一向に動く気配を見せない。政宗にも苛立ちが募り、組んでいた腕を無意識に人差し指でトントンと突いていた。今にも舌打ちしそうな雰囲気である。

「おい政宗、よく見りゃ華那の様子おかしくねえか?」
「どこの世界に彼氏の目の前で骸骨と抱き合っている女がいるんだ!? それだけでも十分におかしいだろうが!」

政宗もどこか壊れ気味だった。しかし元親が言いたいことはそんなことではない。確かに骸骨と抱き合うなんてこと自体がおかしいが、よく見てみると華那の目線は上を向いていて、骸骨と視線が交わっていないのである。最初から骸骨に目はないので視線が交わることなんてありえないのだが。

「それを言ったら話が進まねえだろうが!」
「オレは当たり前のことを言ったまでだ」

華那は上を向いており、口を大きく開けている。例えるなら魚が餌を貰うときの顔に似ていた。今にも口からポンッと魂が抜け出しそうな顔である。普段からなにかと阿呆な顔が、拍車をかけて阿呆になってしまったようだった。政宗はまじまじと華那の間抜け面を眺める。彼は華那が瞬きすらしていないことに気づき、そこでようやく骸骨と抱き合っている以外でおかしな点を見つけたのだった。これは抱き合っているというよりも……。

「華那の奴、目ェ開けたまま気絶してやがる……」

器用なやつだなと少しだけ感心しつつも、政宗は華那の肩を揺さぶった。ガクガクと激しく揺さぶられ、華那の頭がブンブンと上下左右に動く。しかし些か乱暴に肩を揺さぶっても、華那は気絶したままだった。どうしたものかと政宗が手を拱いていると、横から元親が「ならショック療法ってやつを試してみるか?」と言い出した。

「おい華那、さっさと目ェ覚まさねえと政宗の野郎に襲われるぜ?」
「――――それだけはいやッ!」

今までどんなに激しく揺さぶっても目を覚まさなかった華那が、元親のこの一言で一瞬のうちに目を覚ました。ご丁寧に「それだけはいや」だと全身で拒絶しながらだ。半ば条件反射といっても過言ではないだろう。そんな華那の様子に元親はゲラゲラと笑い、当の政宗は顔には出していないが怒りと悲しみに暮れていた。怒りは自分を拒否したこと、悲しみは仮にも恋人なのに拒絶されたことである。

「あれ、私ここで何してたんだっけ?」
「それはこっちのセリフだぜ。華那の悲鳴が聞こえたと思って駆けつけてみれば、骸骨と抱き合って気絶してたんだ。華那こそなんでここにいるんだよ?」

気絶したことで気絶する前後の記憶が曖昧になっていたらしい。だが一つを思い出すことができればあとは芋蔓式に思い出す。骸骨と抱き合っていたという政宗の言葉に、華那は自分の身体にくっついている何かに目をやった。

華那の眼前にあるものといえば、当然のだが骸骨である。しかし華那には骸骨だと認識するのに、少しだけ時間がかかってしまった。至近距離で骸骨と見詰め合うこと数秒。ぽくぽくちーんというふうに華那の頭の中で目の前にあるものが骸骨だと認識した途端、彼女は本日二回目の甲高い大声を上げた。

「…………が、がいこつぅぅううう!」

骸骨を乱暴に捨て去ると、華那は反射的に近くにいた政宗に抱きついた。今度は骸骨のような無機質なものではなく、正真正銘生きている人間である。触れれば温かい。骸骨のように冷たくなかった。そんなお化け屋敷でよくあるドキドキハプニングのようなことをやられ、政宗が嬉しくないはずなかったのもまた事実である。

普段からこういうことに関しては消極的な華那だけに、嬉しさは半端ない。甘い空気などこれっぽっちもないのだが。

「もうさっきからなんなのよー! さっきもここで骸骨に襲われたし、一体ここはどうなってるの!? いつから生物室はお化け屋敷と化したのよ」
「骸骨に襲われただァ?」

元親があからさまに信じていないというふうに眉を顰めた。華那はコクコクと激しく首を縦に振る。

「ここに忘れ物しちゃって、私はそれを取りに来たのよ。で、教室から出ようとしたとき、後ろから肩を叩かれたのよ。そう、この骸骨に!」

ビシッと指で床に転がっている骸骨を指した。しかし先ほど華那が乱暴に扱ったために、見事にバラバラに砕けていた。五体満足という言葉からかけ離れた無残な姿に、ちょっとばかり同情してしまう。四肢はありえない方向に曲がり、肋骨はどれがどれだかわからなくなっている。特に頭蓋骨が下の胴体と繋がっていないあたり、なんかすみませんという気分に陥った。

「……そういや二人はなんでここに?」
「三年を受け持っている変態生物教師の面を拝みにきたんだよ」
「三年の生物教師………って明智先生のこと?」
「知ってるのか?」

政宗は華那が知っているとは思っていなかっただけに、彼女がその生物教師のことを知っていたことには意外だった。華那は心底嫌そうな顔をしながら小さく身震いする。その教師のことを思い出しただけで寒気がしたからである。

「そりゃ私もできることなら遭いたくないしね。だから明智先生がいなくてラッキーって思ってたのに」
「そりゃそうだろうよ。アイツは今頃俺のクラスで補習授業してるしな」
「……なんだと? じゃあ最初からここにくる意味なかったじゃねえか!」

政宗が左手で元親の胸倉を掴む。彼も自分で言ってようやくこの事実に気づいた様子だった。間抜けにもほどがあるだろう。お互い責任を擦り付けようとしている二人を冷めた目で眺めていた華那は、やれやれというふうに口を尖らせる。

「もう! 用事がないなら早く行こう。こんなとこ、もし明智先生に見られでもしたらどんなお仕置きが待っているかわかったもんじゃない」
「―――そうですねぇ。私なら生徒達に壊した物の代わりをして頂きます」
「……っていう変態発言が飛び出すかもしれないぃぃいいい!?」

背後から聞こえた不気味な声に、三人はギョッと大きく目を見開きながら驚いた。バッとすばやい動作で振り向くと、三人の背後には長い髪を垂らしながらゆらゆらと揺れている男が一人。三人は数歩後ずさり、適度な距離を保つ。華那に至っては政宗にしがみ付く始末だ。

この男、全くといっても過言ではないほど気配を感じなかった。伊達組筆頭である政宗はこの中で誰よりも気配に敏感だと自負している。故に全く気配を感じることができなかったことに、内心では若干の焦りをみせていた。

「生徒達に壊した物の代わりをさせるって……どうやってやるんだ?」

内心では焦りをみせていても、態度にまでそれを出すようなヘマはしない。政宗はいつもの態度で怪しい男に声をかける。そんな彼を、華那と元親は愕然とした面持ちで眺めていた。あんぐりと開いた口が塞がらない。二人の様子など知るはずがない政宗は、先ほど華那が壊した骸骨の標本の腕の骨と思われる部分をおもむろに掴む。それを男の前でクルクルと器用に回転させた。

壊した物の代わりをさせる、この場合だと政宗達がこの骸骨の代わりをしなくてはいけないということになる。一体どうやって骸骨の標本の代わりを務めさせるのか。政宗の口元に挑発的な笑みが浮かぶ。

「ああ……フランソワ」
「Francois?」

男は床に転がっている骸骨の頭蓋骨を手に取り、愛おしそうに頬に摺り寄せた。その異常な光景に政宗の背筋に悪寒が走る。今にも嫌な汗が吹き出そうだ。頭蓋骨を大事そうに抱きしめている男は、何度も頭蓋骨をゆっくりと撫でていく。

「もしかしなくてもFrancoisって……その骸骨の名前なのか?」
「追い討ちをかけるようで悪いけど。政宗、あの人がアンタの捜してた明智先生よ」

政宗を更なるショッキングな真実が襲う。目の前にいるこの男こそ、三年の生物を受け持っている変態生物教師こと明智光秀だったからである。

「……貴方達がフランソワをこんなふうにしたのですか。なら貴方達にはフランソワの代わりを勤めて頂かなくてはいけませんね」
「どうやって骸骨の代わりを務めるんですか……」

華那が呆れた眼差しを光秀に向ける。華那は骸骨の標本みたいに、その場に立っていればいいだろうくらいのレベルで物事を考えていたのだ。しかし世の中とはそんなに甘くない。ピリリと辛い山椒のようなことが現実なのである。

「簡単ですよ……。筋肉に内臓、それと余分な水分さえとれば。大丈夫ですよ。私、メス捌きは得意ですから」
「それって肉を剥いで骨だけにするってことですか!?」
「安心してください、私は何一つ無駄にはしません。肉も内臓も、美味しく調理して食べて差し上げます」
「いやぁぁあああ!」

華那と光秀のやり取りを傍観していた政宗と元親は、教師というか人間とすら思えない光秀の言葉にドン引きだった。華那と光秀には聞こえないよう、政宗は小声で、横で同じように固まっている元親に話しかける。

「…………確かにあれはperversionだな。それ以外の何者でもねえ」

よくあんな男が教師になろうと思い、なれたものである。この学校の人事はもはや駄目だなと、政宗はこっそりと失礼なことを考えた。元親が、華那が、三年生全員が、彼を苦手とする理由がこの短時間でよ〜くわかった。わかりたくなかったがわかった。確かにこれでは、誰もお近づきにはなりたくない。

「それより、私の愛しいフランソワをこんなふうにしたのは誰ですか?」

政宗と元親は同時に華那を指差した。華那は二人の顔を交互に見つつ、裏切られたと絶望する。光秀は「そうですか、貴方ですか」と不気味なまでに静かに呟いた。

「なら貴方だけは……ここから帰すわけにはいきませんね。あとの二人は出て行って頂けませんか? ここからは私と彼女だけの時間です……」
「へっ? ちょっと待ってくださいよ! なんで、なんで帰っちゃいけないの!?」

いよいよ本気で身の危険を感じた華那は本気で焦り始める。華那があたふたとしている間に、政宗と元親の姿はいつの間にか消えていた。二人は華那を生贄にし、逃げ出したのだ。

「さぁ、今日は帰しませんよ……?」
「いやいや、ちょっと。ちょっとまっ……」

直後、生物室からは断末魔が響き渡り、廊下を走っていた政宗と元親は聞こえないふりといわんばかりに両耳を塞ぎ、全速力で剣道場に戻っていった。華那に何が起きたのか、それは誰も知りません。これは、とある梅雨の日に起きた悪夢のような出来事である。

完