短編 | ナノ

手を伸ばせば届く距離

オレンジ色の西日が廊下に差し込み、真っ黒な長い影を形作る。グラウンドや体育館付近からは運動部の掛け声が聞こえてくるのに対し、校舎内は時折足音や笑い声が聞こえてくる程度だった。そんな人気の少ない廊下を、華那は一人でトボトボ歩いている。その表情はどこか憔悴しきっており、誰が見ても疲れていると思うものだった。

うう、疲れた……。何もこんな時間まで補修授業しなくていいじゃんか。

テストの点数が悪かった華那は必然的に補習を受ける羽目になり、ついさっきまでみっちりと補修を受けていたのである。補習組の常連となっていた華那が補修が行われる教室に入るなり、担当教師の挨拶代わりのカミナリが落とされた。

「いい加減にしろ音城至! お前という奴は毎回、毎回……!」
「やだなー、先生。先生に会いたいからこうやって補修を受けにきているんじゃないですか」
「ふざけている場合じゃないだろ!?」
「イダッ!?」

頭部に容赦なく落された拳骨に華那は眉をしかめ、この暴力教師めと心の中で毒づく。拳骨が落された頭部に鈍い痛みが走るなか、さっさと席に着けと急かされた華那は口を尖らせながら渋々席に着いた。そうして始まった補習授業は過酷を極め、終了間近の頃になると、華那の顔はげっそりとやつれてしまっていた。

やっとの思いで解放された頃には日はすっかり傾き、賑わいを見せていた校舎は不気味な静けさを漂わせている。人が少なくなった校舎ってなんでこんなに不気味なんだろう。どんな学年でも、学校でも、この疑問だけは変わることがなく存在し続けている。この言いようがない纏わりつくような不気味さは、大人になっても変わらないのかもしれない。

自然と足早になっていたことに気づくことなく、A組の教室に辿り着いた華那は後ろの扉を開けまっすぐ自分の席へと向かう。華那の席だと前より後ろの扉のほうが近い。鞄を取り出し適当に荷物を押しこんだ後、「ふー……」と一息ついた。すると突然、ガタッと何かが動いたような物音が華那の耳に飛び込んできたではないか。彼女の肩がビクッと大きく揺れる。自分以外いるはずがない教室で、自分がいる場所から少し離れたところで物音がした―――。

言い知れぬ恐怖を感じながらも、華那は慌ただしく教室を見回していく。誰もいない……かのように思われたが、よく見ると教卓がガタガタと音を立てている。華那は恐る恐る教卓に近づき、息を顰めながらそーっと教卓の後ろを覗きこんだ。

「………何やってんの政宗?」

教卓の後ろにある狭い空洞に隠れるかのように、政宗が小さくなってしゃがみ込んでいた。華那の呼びかけに応えない彼の瞼は閉じられていて、静かに寝息を立てている。両足はだらりと前に伸ばされているので、横から見れば誰かが隠れていることは一目瞭然だった。前の扉から教室に入っていればすぐにわかったのだろうが、生憎華那は前ではなく後ろの扉から入ってしまったため気づかなかったのだ。

「政宗起きなよー。こんなところで寝ていたら風邪ひいちゃうよ?」

政宗の頬を無遠慮にペチペチと数回叩くと、彼は鬱陶しげに眉間にしわを寄せる。小さな呻き声を漏らしたかと思いきや、政宗の頬を叩いていた華那の右手を掴みグイッと引き寄せた。バランスを崩した華那は前のめりに倒れ、政宗のおでこに強烈な頭突きを食らわせてしまう。

「痛っ!?」
「Ouch!?」

寝ぼけていた政宗も華那の頭突きで目が覚めたらしい。形の良い唇から流暢な英語が放たれる。

「いきなり何しやがる!?」
「それはこっちのセリフ! 政宗が急に引っ張るから悪いんじゃない」

どうやら無意識で華那の腕を引っ張ったらしく彼は覚えていないと言う。華那は納得がいかないといわんばかりに頬を膨らまし、少し赤くなりかけているおでこを擦った。華那も政宗も石頭故、ぶつかれば普通の人よりも痛いのだ。

しかし寝起きに頭突きとはなんとも色気のないことか。ぶつかったのが頭ではなく唇だったら……。そんなことを考えたところで、政宗は自分自身に呆れて失笑してしまった。相手は色気より食い気の華那だぞ。こいつに色っぽいことを期待するほうがどうかしている。

「で、なんでこんなところで何やってたの?」
「それは……」
「―――ねえねえ、本当にこっちに行ったの?」
「―――本当だよ。確かにこっちに行ったもん!」

廊下から数人の女の子の甲高い声が聞こえた。怪訝そうに華那が外に目を向けると、政宗は鬱陶しげに目を細め短い舌打ちをする。それだけで華那には政宗がここで何をしていたのか、なんとなくだが察することができてしまった。

「政宗、また女の子達に追いかけられてるの? モテる男は大変だね」

自分で言ったくせに胸のあたりにズキッと鈍い痛みが走った。一瞬の痛み。今は全く痛くない。この痛みは何だろう。華那は内心で首を傾げた。最近よくこの痛みを感じる。政宗が他の女の子達に追いかけられているのが面白くない? でも私は別に政宗の恋人じゃないしなあ……。しかしただの友達という言葉で括れるほど浅い関係でもない。ただの友達にしては二人ともお互いの心の大事な部分で支え合っているところがある。幼少時、政宗の右目の問題に関わってしまった瞬間から、きっと二人はただの友達という言葉では足りない関係になってしまっていたのだろう。だからといって恋人のように愛し愛される特別な関係ではないことも事実。

じゃあこの胸に残るモヤモヤとした感情は一体何だろう。……きっと幼馴染故の独占欲だろう。華那はそう勝手に納得する。こんな光景はこの学校、強いてはA組の人間なら日常茶飯事である。政宗の行くところに女の影がありとはよく言ったもので、彼の傍には常に沢山の女子生徒の存在があった。政宗の意思とは関係なく女子生徒が集まってくるのだから、一般男子からすれば非常に羨ましい環境にいることは間違いない。

が、政宗からすれば見知らぬ女子生徒が傍に寄ってくるだけなので、鬱陶しいことこの上ない。現に今も教室の外にいるであろう女子生徒達に追いかけ回されているのだから、この学校には政宗の心休まる場所はないのかもしれない。彼にとって唯一特別で、自分の傍にいることを許したといえる存在は目の前にいる幼馴染の華那だけだ。

ただの友達ではない。かといって恋人でもない。恋愛に疎いお子様な幼馴染は政宗が抱く特別な感情に未だ気づく気配はないが、今はそれでもいいと思っている。ただの幼馴染とはいえ、華那にとって自分は少なからず特別な存在であることには変わらないのだから。

「―――もしかして教室に隠れているのかもしれないよ?」
「―――あ、そっか!」

外から聞こえたこのような会話に政宗と華那はハッと顔を見合わせる。外にいる女子生徒達も政宗が教室に隠れていると勘づき始めた。逃げ場がない教室で見つかるのも時間の問題だ。今教室から出ていってもどのみち見つかってしまう。もしかして今の政宗って、逃げ場なし?

「さすがにこの状況は拙いな」

珍しく声に若干の焦りが窺える。こうなったら窓から飛び降りて逃げるかなどと物騒なことを呟き始める政宗を横目で見ていた華那は、仕方がないなとでもいうような溜息をついた。一体彼はここを何階だと思っているのだろうか。華那なら窓から飛び降りた時点で病院送りになることは確実だ。政宗なら……精々保健室送り程度ですむかも、などと思いつくあたり華那も末期かもしれない。

「政宗、しっかり隠れてなさいよ」
「What?」

華那の言葉の意味に内心首を傾げつつも、政宗は言われたとおり身を縮め隠れる姿勢をとった。と、政宗が身を隠すと同時に教室の扉が開き、数人の女子生徒達が姿を現した。みんな明るく目立つ子達ばかりで、そんなわけがあるはずないのに何故か目が眩む。廊下で政宗を捜していた女子生徒達で間違いないだろう。彼女達は華那の姿を見るなり少し驚いた様子を見せたがすぐさま気持ちを切り替え、さっと教室を見回した。

「音城至さん、伊達君がどこにいるか知らない?」
「さあ……私も今教室に戻ってきたばかりだから。あ、でも鞄がないってことはもう帰っちゃったのかもよ?」

我ながら少し白々しいかな? 上手に嘘がつけているか内心不安で堪らない。せめてこの不安を表には出すまいと、華那は無意識のうちに表情を硬くしていた。

「えー!? また逃げられたのぉ?」
「やっぱりあのとき見失っちゃったのがマズかったんだよ。もう遅いしあたし達も帰ろっか」
「そだね」

意外とあっさりと諦めただけに、華那のほうが少し拍子抜けしてしまった。女の子達が教室を出てしばらく経ち、もう大丈夫だろうと判断した政宗は隠れることを止めた。スッと立ち上がり、おもいっきり身体を伸ばす。ずっと縮こまっていたせいで身体が硬くなってしまっている。力いっぱい伸ばす気持ちが良い。

「鞄がないねえ……よく見りゃちゃんとそこにあるんだけどな」

政宗が隠れていた場所のすぐ隣に、鞄が無造作に置かれていた。机になかっただけで教室にはちゃんとあったのだ。よく見ればすぐに見つかるのだが、あの子達はそこまで観察しなかったようである。

「Thanks 助かった」
「幼馴染のよしみってヤツね。お礼はそうだな……クレープでいいよ」
「ったく、しゃあねえな」

口では文句を言いつつもその表情は満更でもない様子だ。どういうわけか少しだけ楽しそうに見えるのは華那の錯覚だろうか。そんな柔らかい表情で文句を言われても、逆にそんな文句ですら可愛く思えてくる。

「ならあいつらに見つからねえうちにオレ達もとっとと帰るか」
「うん!」

幼馴染以上恋人未満。二人の関係にこの言葉がぴったり当てはまるということに華那は気がついているのかいないのか。きっと気がついていないであろう鈍感な幼馴染の背中を、政宗は愛おしげに見つめる。華那も何かを感じたのか訝しげな眼差しを政宗に向けた。どうしたの? と目でだけ訴えかけてくる華那に、政宗はなんでもないというように肩を竦める。

今はまだ、たまにヤキモキさせられるこの距離感が丁度良い―――。だがこの距離感に我慢できなくなったときは……覚悟してろよ?

完