短編 | ナノ

美味しい一言

保健体育の授業は、授業であって授業ではない。そう思ってしまうのは、やはり通常の授業と覚える内容が違うせいだろうか。国語や数学のように文字や数字の羅列を目で追うのではなく、保健体育はある意味自然と身についている知識を再確認するようなものだった。身体の仕組や応急処置方法、スポーツの知識など、どちらかといえば通常の授業よりも気は楽だ。

が、言い換えれば退屈という二文字に置き換えることもできる。黒板に書かれていることをノートに写すわけでもなく、かといって先生の説明を熱心に聞いているわけでもなく。音城至華那は窓の外に広がるグラウンドを、ひたすら無心状態で眺めていた。

外では同クラスの男子達が元気に走り回っている。今日の授業はバスケで、さっきからコート内をあっちにいったりこっちにいったり、誰もがボールだけを夢中になって追いかけていた。誰もが最初は面倒臭いと思っていたのに、いざやり始めるといつの間にか本気になってやっている。現に開始して数分の間は遠目から見てもやる気を感じさせなかったのに、今ではすっかり全力でゴールを決めようと躍起になっていた。

やはりこのクラスには単純な性格をした男子達が多く集まっているようだ。込み上げる笑いを噛み締めながら、華那は男子達の繰り広げる試合を見物することに夢中になっていた。夢中になっていたからこそ、自分の名前が呼ばれていることに全く気がつかなかったのである。

「―――音城至? 音城至!?」
「……華那、呼ばれているわよ」
「は、はいっ!?」

後ろの席の遥奈に背中を小突かれて、ようやく華那は今が授業中だったということを思い出した。しかし全く話を聞いていなかった華那には、何故自分が呼ばれていたのかすらわからない。今の彼女には愛想笑いを浮かべてこの場を濁すことしかできなかった。先生もそんな彼女を見ながら、少し落胆したような溜息をつく。

「全くあんたというやつは……。今が授業中だってことわかっている?」
「えへへ……まぁそれなりに」
「それなり!?」
「い、いいえ! 全力で理解しています!」
「先生、華那は旦那の様子が気になって授業どころじゃないそうです」
「何を言い出すの遥奈チャン!?」

後ろから遥奈の冷ややかな攻撃が華那の背中に刺さった。本来なら華那の後ろは政宗なのだが、保健体育の場合のみ遥奈が後ろになる。この授業のみ各自好きな席に座ってもいいということが原因だ。

「あれ、違ったの? てっきり旦那が怪我しないか心配で見ていたと思ってた」
「重要なのはそこじゃなくて、私が誰を見ていたかってところよ。私がいつ政宗を見ていたと言った?」
「私、伊達君だなんて言ってないわよ。伊達君は私の旦那ですって、アンタも言うようになったわね」
「………はめられた!」

教室中から冷やかしの歓声があがり、後ろでは遥奈がしてやったりの表情を浮かべている。華那だけは自ら墓穴を掘ったことに対して頭を抱えていた。華那と政宗のカップル(そう言われると照れる)は、もはや学校中の生徒が知っている事実である。そのため旦那だと認めてもある意味間違いではないのだが、当の本人だけが未だにそういう扱いに慣れていないのが現状だ。ちなみに政宗はそう言われたら、あっさりと認めるどころかあることないこと色々と脚色する傾向がある。

「羨ましいわね。私もあんな人を旦那ですって言ってみたい」

実は意外とミーハーである遥奈は、溜息混じりに呟いた。すると周りの女子達がうんうんと頷いてみせる。クラスに味方はいないのかと、華那は内心こっそりと僻んだ。

「そういや音城至は伊達と付き合っているんだったな。よかったなー、将来安泰で」
「どういう意味ですか先生?」
「だって伊達の家はいくつもの会社を経営しているだろ。その中のほとんどが世界有数の大企業だ。おそらく普段ろくにニュースを見ない連中でも、一度は耳にしたことがある会社だったと思うが」
「確かにそうらしいですけど、それと私にどんな関係があるんですか」
「将来はどうせ結婚するんだろ? だったら必然的に職業はお嫁さんだ。この就職難、馬鹿は雇ってもらえないからな。良かったな、就職活動に苦労しなくて」
「なんですってー!」

憤慨の表情を浮かべる華那だが、周りではどっと爆笑が起きた。誰もが授業中だということを忘れて、大きな声でお腹を抱えながら笑いあっている。すっかり機嫌を損ねた華那はぷいっと窓の外に目をやった。丁度そのときグラウンドで試合中だった政宗が、相手のゴールにシュートを決めていた。その姿が妙に様になっていて、華那は悔しさのあまり口をへの字にさせる。

同じくその光景を眺めていた遥奈は感嘆の声をあげた。勉強は得意だが、運動神経のほうはあまり宜しくないからである。逆に華那は勉強こそは苦手だが、運動神経はそこそこ良いほうだった。

「華那と伊達君が真剣に勝負したら、どっちが勝つのかしら」
「そりゃ伊達君よー」
「そうそう、伊達君にはいくら華那でも敵わないよ」

遥奈の素朴な疑問に、クラスの女子達は揃って政宗のほうが強いと支持した。華那は誰か一人くらい自分を支持しろと悪態をつく。女子同士の友情が儚く散っていくようだ。

「そんな顔するくらいなら、いっそのこと自分の目で確かめてみれば?」

思えばこの一言こそが悪夢の引き金だったような気がすると、後に華那は語ったという。

***

「なので、勝負を申し込みたいと思います」
「……何がどうして「なので」という言葉に繋がるんだ?」

行儀悪く机の上に足を組みながら雑誌を読んでいた政宗は、華那の突然の申し出に眉を顰めた。華那の表情は真剣そのもので、さきほどの発言が冗談ではないと理解できる。しかし突然勝負を申し込まれても、前後関係がわからないため話が全く見えない。

「私の頭の中で話は繋がっているから大丈夫よ」
「テメェの頭の中なんか知るかよ」
「とにかく! 今日の放課後私とバスケ勝負をして」
「だからなんでいきなり……」
「負けたほうが勝ったほうの言うことを何でも聞くっていう条件でも?」
「―――のったぜ!」

相変わらず話は見えてこない。しかしあまりに美味しい条件に、政宗は後先考えず即答した。

***

「……あまり時間がないので、先にゴールを決めたほうの勝ちってことでいいわね?」
「ちょっと、なんでそんなギリギリの勝負に持ち込もうとするのよ。第一私は時間あるし。つかなんで遥奈が審判しているのよ?」

オレンジ色の空が体育館を包み込む中、バスケットゴールがある体育館の中では、華那と政宗の他に遥奈の姿まであった。華那としてはここにいるのは自分以外に政宗だけと思っていただけに、いるはずのない彼女がいることで多少動揺してしまう。
「五月蝿いわね、私に時間がないのよ。あと公平にするためにも、第三者の目は必要でしょ」
「……確かに政宗が不正をした場合、遥奈がいれば証拠にもなるわね」
「誰が華那如きに不正するか」
「はいはい、じゃあさっさと始めるわよ。はい、試合開始ィ」
「え、ちょっと!?」

本当に時間がないのか、華那と政宗の試合準備ができていないにも関わらず、遥奈は勝手に試合開始の合図をしてしまう。当然コート内に漠然と立っていただけの華那は、ジャンプボールの反応に一瞬遅れてしまった。もともと政宗と身長差があるため、この一拍の遅れですら致命傷になる。

「悪ィな、いただくぜ」

難なくボールを取った政宗は、ドリブルしながら華那の横をあっさりとすり抜ける。華那はすぐさま政宗の背中を追いかけ、そして追い抜くなり彼の進路を邪魔しに入った。政宗はドリブルしながら華那を見据え、また華那も真っ直ぐに政宗を見据えている。

お互い一瞬の隙を待っているのだ。華那はてっきりこのまま政宗が前に向かってくるものだと信じきっていた。しかし華那の予想ははずれ、何を思ったのか彼は後ろへと後退し始める。

「ま、華那にはできねェだろうがな」

政宗は嫌味ったらしく、華那を挑発するかのような笑みを浮かべる。華那はカチンときたのか、あまり深く考えず政宗の後を追った。ふと足元を見ると、そこにはよく見慣れたラインが引かれていることに気づく。

「スリーポイントライン……げっ!?」

政宗が何をしようとしているのか気づいたときには、既に全てが遅かった。華那の頭上を放物線を描くように、見慣れたボールが飛んでいく。それはまるでゴールに吸い寄せられているようだった。あまりに見事なスリーポンイトシュートである。華那と遥奈は呆然とボールの行方を見ることしかできない。そんな二人を現実に戻したのは、ガンッという衝撃音と、ボールがバウンドする音だった。

「……だ、伊達君の勝ち!」
「…………負けた」

ここまで見事なシュートを決められたら反論する気さえ起きない。華那はガクッと項垂れると、そのまま無言でゴールを見上げた。

「よくわかんねェが、オレの勝ちってことでいいんだよな。んじゃ約束どおり、言うこと聞いてもらうぜ」
「あ、あはは……」

これ以上ないほど極悪な笑みを浮かべている政宗に、華那は早くも身の危険を感じていた。

***

「……で、何でも言うことを聞くと約束した華那さん。一体どんな命令を聞いているのかしら?」
「一週間、お弁当を作ってこいってね……」

政宗が華那に言ったことは、一週間お弁当を作ってこいという、華那からすれば比較的軽い内容だった。もともと自分の弁当を作っているぶん、それが二人分になっただけだからだ。手間的にはさほど変わらない。

「でもお弁当の中身を全て指定してくるのよ! あれ食べたいこれ食べたいって……くっそー、そのうち伸びきったラーメンでも詰めてやろうか!?」
「はぁ……仲のよろしいことで」

そんな遥奈の溜息は、冬の寒空へと消えていった。

完