短編 | ナノ

VOICE

―――声が聴きたい。彼にとってその声は特別だった。どんなに離れた場所にいても必ず聞こえ、雑音に紛れても決して聞き逃すことはない。その声を聴いただけで癒される、まるで太陽のような不思議な声。その声が彼の名を呼べば、彼はそれだけで幸せになれた。だからこそ、聴けなくなったら……酷く恋しくなるのである。

「……………」
「む? どうした、政宗殿?」

冬の屋上は寒い。だが寒いとわかっていても、ここは生徒会メンバー以外立ち入り禁止区域。誰にも邪魔されない絶好の場所であるため、どんなに寒くても雨が降ったり雪が降ったり矢が降ったりしない限り、彼らはここに集まる習性があった。それに教室は暖房が効きすぎている故、むしろ心地よいくらいだ。そんな寒空の下でお弁当を食べていた幸村は、先ほどから無言で空を見上げている政宗に声を掛けたのだが、やはり返事は返ってこない。

何度か名前を呼んでみるが、政宗は返事をしないどころか、空を見上げたまま視線を動かそうとしない。名を呼ばれれば返事はなくとも反応はするはずだ。反応すらしないということは、幸村は政宗の眼中にないということになる。

「佐助………」

かまってもらえないことで涙目になりながら、幸村は隣で同じく弁当を食べていた佐助に縋る。彼は困ったように苦笑し、「う〜ん」と声を漏らした。

「仕方ないよ旦那。この二日華那ちゃん風邪で休みだから、竜の旦那も淋しいんだよ」
「Hey! 余計なことぬかしてんじゃねぇよ猿!」

無反応だった政宗が語尾を荒くして佐助に反論する。「ムキになることが肯定の返事だぜ」と佐助が言うと、政宗はますます面白くない顔をした。当たっているだけに言い返せないのである。

華那が風邪で学校を休んで、今日で二日目。見舞いに行こうとも考えたが、「うつるとアレだからこなくていい」というメールがきてしまったために、この二日間会えず仕舞い。日にちが経つにつれ、政宗の機嫌は悪くなる一途を辿っていた。たった二日くらい会えないだけでここまでストレスが溜まるとは、政宗自身も思っていなかっただけに動揺は大きい。

「竜の旦那じゃなくて兎の旦那だね、こりゃ」

幸村がきょとんとしていると、佐助は「だって兎って淋しくなると死んじゃうって言うし」と補足する。幸村は大きく首を縦に振りながら納得するが、政宗は納得できず佐助に噛み付いた。

「このオレがrabbitだと!? 馬鹿ぬかしてんじゃねぇぞ!」
「でも竜にしては弱々しいぜ、今のアンタは」

華那がいるときといないときの差がここまで極端だと、もう笑うしかないというのが佐助の心情である。素直ではない政宗の性格だけに、口では憎まれ口を叩いていても態度でバレバレだった。口ではどんな憎まれ口を叩いていても華那がいないと淋しいのだ、この竜は。だからこそからかいがいがあるのだと佐助は思っているが、今の政宗にそれを見抜く眼力はないらしい。普段ならいとも簡単に見抜いてしまうのに、だ。

「しかし……華那がいないと淋しいのは事実だな」

箸を止め、幸村はポツリと呟いた。佐助も空を仰ぎながら「そうだねぇ」と、少ししんみりした声色で相槌を打つ。佐助はさらに続けた。

「華那ちゃんの声とか笑顔とか……本当、いつも元気だからねぇ、あの子」
「Ha! なに年寄り臭ェこと言ってんだ、猿」
「そう思っているのは他ならぬアンタじゃないの? 俺様、華那ちゃんの笑った顔見るの好きなんだけどなー……」
「…………なんだと?」

佐助の思わぬ「好き」という発言に、政宗の眉がピクリと動く。

「Foolish あ、あいつのアホ面にlikeなんていう感情を抱くなんざ……。猿、テメェ女見る目ェないだろ?」
「旦那、動揺しすぎじゃねーの……?」

佐助のそんな呟きは、突然吹き荒れた突風にかき消された―――。

***

「…………An?」

翌日。学校に登校してきた政宗は教室のドアを潜り、視界に飛び込んできた人物を見て足を止めた。

「―――華那」

政宗の前の席には華那が座っていた。その姿を見たのは三日ぶり。三日ぶりに見た華那の顔は、いつもと変わらぬ元気で活き活きとしている。風邪はもう治ったのだろうか。

「Foolでも風邪になるんだな」

華那の傍に歩み寄りながら声をかける。嬉しさのあまり顔がニヤけそうになるのを、憎まれ口を叩くことでカモフラージュしながら。大袈裟かもしれないが、それほど嬉しかったのだ。大好きな声が聴こえる、そう考えただけで胸が高鳴る。大好きな声が自分の名を呼ぶ。それがどれほど幸せなことか、この三日で嫌というほど教わった。

「…………」

しかし華那は一向に口を開こうとしない。それどころか視線を逸らし、困惑した表情を浮かべている。彼女自身もどうしたものかと手を拱いているようだが、それ以上に困惑しているのは政宗だ。いつもなら憎まれ口で返ってくるはずなのに、今日に限って無言。怒るでもなく、泣くのでもなく(というか泣くっつー選択肢はハナからねぇな)、かといって暴力を振るうのでもなく、何故か困る華那。そんな彼女を見て、政宗は混乱を通り越して恐怖を覚えた。背中に冷たい汗が流れる。

「Hey まだ熱があんのか!?」
「………?」

華那は不思議そうに首を傾げる。政宗は彼女の額に手を当てて熱を測るが、熱いわけでも冷たいわけでもない平熱だった。どうやら華那の様子がおかしいのは熱のせいではないらしい。

「お、おい……何か喋りやがれ」
「………」

するとふるふると首を横に振り、しおらしい表情を浮かべた華那はそのまま俯いてしまった。俯きながらぎゅっと唇を噛み締める。ここまで弱った華那を見たのはもしかしたら初めてかもしれないと、こんなときになんだがふと考えてしまった政宗。なんだ、この三日で華那の身に何があった!?

「―――あー……駄目よ伊達君。今の華那に「喋れ」は禁句」

いつの間にか二人の傍には華那の親友である遥奈の姿があった。彼女は華那とは対照的にコロコロと笑っている。口ぶりからして華那の身に何があったのか知っているようだ。

「Talkが禁句ってどういうことだ?」
「声が出ないのよ、彼女」
「Voice?」

遥奈の言う意味がわからず、首を傾げる政宗。華那のほうを見ると、彼女は心底嫌そうな顔をしていた。ますます意味がわからず、政宗は交互に華那と遥奈を見る。

「どうやら風邪で喉をやられたらしくてね。熱はすっかりなんで学校には来てるけど、喋ったら酷い声なの」

やれやれと首を振る遥奈を見てから、華那に視線を移す。彼女は頭をかきながら苦笑していた。そしておもむろにノートを取り出し、スラスラと何かを書き始める。書きあがるとそれを政宗に見せた。そこには「そういうこと。だからのど飴が手放せなくって」と、可愛らしい字で書かれていた。

「……まさか華那、声が出ないっつーんでcommunicate in writingで過ごすつもりか!?」

しかし華那には政宗の言う英語が理解できず、目を細めながら首を傾げる。遥奈が「筆談するつもりかって聞いてるのよ」とフォローすると、華那はパアッと表情を明るくさせまたもやノートに書き始めた。書かれた文字は端的に「うん。ナイスアイディアでしょ?」とだけ書かれている。どこか楽しそうな華那を見て、政宗はガックリと肩を落とした。ずっと聴きたかった声だったのに、もうしばらくお預けになりそうだ。

昼休み。まだ本調子ではない華那を気遣い、今日の昼食は屋上ではなく生徒会室で食べることにした。一般教室とは違い、人の出入りがない教室だけに入った瞬間は冷える。が、寒さ以上に耐えられないものがあった。

「………」
「どしたの、政宗?」
「いや……なんでもねぇ」
「なんでもねぇって言うけど、なんかありそうな顔してるよ?」

教室に響く声が一つだけ。政宗にとって寒さ以上に身に堪えた。喋れば華那は返してくれるが、全て紙の上に書かれた可愛らしい文字。まるで独り言のようで居心地が悪い。

「なぁ……酷ェvoiceでもいいから、なんか喋ってくれねぇか?」

政宗にしては珍しいお願い事である。どんなに酷い声でもいい。いいから声を聴かせて欲しい。しかし華那は首を振ることでそのお願いを断る。声が聴けない、ただそれだけのこと。ただそれだけのことだと何度自分に言い聞かせてみても、ただそれだけのこととは割り切れないのだ。

聴きたい。聴きたい。声が聴きたい。その想いの強さは自分がいかに彼女に依存しているかの証であり、どれほど大切かの重みでもある。小さい頃から自分はこの声に救われてきた。彼女がいてくれたからこそ、今の自分がある。華那自身は思ってもいないだろう。小さな彼女が言った言葉全てが今の政宗を構成するものであり、自分をここまで強く生まれ変わらせたなどとは。華那がいてくれたからこそ、暗闇に捕まることがなかった。華那が自分の名前を呼んでくれたから。小さな腕を精一杯伸ばして、自分に差し出してくれたから―――。

「なに? さっきからじーっとこっち見てる」
「……喋れねぇってことは、何されても黙ってるってことだよな、華那?」

少しだけ身を乗り出し、自身の唇を華那の唇に重ねる。華那は突然のことで目を丸くさせ、政宗はそんな彼女を見ながら満足げな笑みを薄っすらと浮かべた。本当なら今すぐにでも叫びたい衝動に駆られているのだろうが、声が出ないのでぎゅっと唇を噛み締め顔を赤くすることしかできない。しかしその目はとても素直で、「いきなり何すんのよ!?」と訴えかけてきている。
―――なんだか急に愛おしく思えてきたから、なんてことは口が裂けても言えない政宗だった。

完