ホスト連載 | ナノ
ラブコール

たった一日で初恋と失恋の酸いも甘いも噛み分けたわたしはどうしたらいいんでしょう? なんて誰かに訊いてみたところで答えなんて返ってくるはずがない。家に帰ってくるなり自室のベッドにダイブして、うつ伏せに寝転んだままかれこれ一時間が経過した。制服のスカートがしわになるとか、床に放り投げた鞄の中身が飛び散らかしちゃっているとかそんなことはどうでもいい。

「……好きって気づいた途端失恋なんて、あんまりなんじゃないですかお兄ちゃん」

弱々しい声で、まるでうわ言のように呟く。ぎゅっと目を硬く閉じると、先ほど目に飛び込んできた光景がフラッシュバックした。思い出したくないのに頭に焼きついて離れない。見たくもなかったし、知りたくなかった。どうしてあの時間、あの場所に、わたしはいたのだろう。おにいちゃんと綺麗な女の人が並んで歩いている姿など、見たくなかった。

道路を挟んだ反対側の歩道を二人は仲良さげに歩いていた。女の人はおにいちゃんの腕に自分の腕を絡めて、ぴったりとくっついて歩いている。表情までは窺えないが腕を組んであるいているのだから悪いはずがないだろう。わたしは信じられないものを見たと、反対側の歩道で呆然と立ち尽くした。

「どうしたの華那? そんなところで立ち止まっちゃ危ないよ」

少し先を歩いていた友達が振り返り、立ち尽くしているわたしに声をかける。そんなこと言われても身体が言うことを聞いてくれないのだ。目がおにいちゃんから離せない。動こうにも、何か喋ろうにも、頭の中がまるで麻痺したように真っ白だった。

どうしてここまで動揺しているんだろう。おにいちゃんは大学生で、彼女がいたっておかしくない。世間的にはモテる側の人間だし、むしろ彼女がいないほうがおかしいというものだ。そう、おかしくない。至って普通のこと。じゃあなんでわたしはこんなに動揺しちゃっているんだ?

おにいちゃんとわたしは何か特別な関係というわけじゃない。強いて言うなら年の離れた幼馴染というだけで、そんな脆い繋がりなんて些細なことで簡単に崩れてしまうくらいだ。幼馴染なんて学校やクラスが別々になっただけで離れてしまうこともある。年が離れているなら尚更だ。わたしにはわたしの、おにいちゃんにはおにいちゃんだけの世界がある。

ただ、それだけのこと。の、はずなのに……。ただそれだけのこと、と言うにはわたしの心は思っていた以上にショックを受けていた。小さい頃からおにいちゃんの後ろを付きまとっていたので、おにいちゃんがどれだけモテるか決して知らないわけじゃない。わたしは当時小学生だったので、おにいちゃんの周りにいた女の子達は、子供なんて敵じゃないと相手にすらしなかったけど。ん? 相手って何の相手だろう?

「部屋の電気も点けねえで何やってんだ華那?」
「………別にっ!」

開けっぱなしだった窓の向こうからおにいちゃんの声が聞こえた。おにいちゃんの家はわたしの隣で、部屋もわたしの部屋とちょうど隣接しているため、窓越しでよく会話をしている。ベッドにうつ伏せになったままなのでおにいちゃんの姿は見えないが、大方窓から身を乗り出しているんだろうな。けど今はそんなおにいちゃんの声すら腹立たしい。明らかに拒絶の意を含んだわたしの言葉に腹を立てたらしいおにいちゃんは、「ああそうかよ」と言うなり。

「って何やってんの!? 乙女の秘密の花園に無断に入ってこないでよ!」

窓を超えてわたしの部屋へ不法侵入してきたじゃありませんか。せめて玄関から入ってきてほしいと思うのは、わがままでしょうか?

「今更ンなこと言いっこなしだろうが。今日はちょいと華那に話があってよ……」
「わたしにはないもん!」

なんだかおにいちゃんの顔をまともに見ることができなくて、おにいちゃんに今のわたしの顔を見られたくなくて、わたしはぷいっと明後日の方向をじっと見つめている。おにいちゃんもそんなわたしの態度に若干腹を立てたのか、声に少しの棘が感じられるようになった。

「ならそのままでいいから聞け。華那にはずっと黙ってたんだが、今度留学することになったんだ。結構長い間そっちにいることになると思う」
「…………へえ、それで?」

淡々とした口調で、と意識しないと動揺がおにいちゃんにばれてしまう。内心はこれ以上ないってくらい混乱していた。おにいちゃんが留学? それって遠くに行っちゃって、会えなくなるってことじゃない。いつも隣にいた、隣にいることがあたりまえの世界が壊れちゃう。わたしのおにいちゃんの唯一の繋がりが消えちゃうの……?

「本当はもっと早く言おうと思ってたんだがな……。色々あって言うのが遅くなっちまった」
「そりゃあわたしなんかより彼女さんのほうが大切だもんねー。遠距離恋愛なんて大変でしょうに」
「Ah? 彼女だと? 誰のこと言ってんだ?」
「今日見ちゃったんだ。おにいちゃんと同じ制服をきた女の人が仲良さそうに歩いてるとこ。留学前に少しでも彼女と思い出を作ろうってやつ?」

ずいぶんと厭味ったらしい言い方だと自分でも思う。なんかよくわからないけどおにいちゃんの声を聞いているだけでイライラしてきた。お願いだからこれ以上惨めな思いをさせないでよ。わたしをいやな子にしないで。

「もしかしてあの女のことか? あれのどこをどう見れば仲良さげに見れるんだ?」
「だって腕組んでたし!」
「ありゃあの女がしつこく絡んできただけだろうが。露骨に嫌な顔をしても引かねえもんだから、適当にあしらって帰ったんだよ」
「…………そ、そうなの?」

おにいちゃんの話が信じられなくて、思わずおにいちゃんの顔を正面から見てしまった。今日初めて見るおにいちゃんの顔はこの上なく不機嫌そうで、それでいてなんだか疲れているようだった。

「ん? なんだよその面は。ニヤニヤと気持ち悪いぜ」
「え、あ、ニヤけてなんかないもん……!」

気持ち悪いと言いながら、おにいちゃんはふっと優しい目で私を見つめている。滅多に見られない悪意がない純粋な笑顔に、わたしは胸が締め付けられるような、不思議な痛みに襲われた。

「あの女とオレがなんともないと知ってそんなに嬉しいのか」
「ちっ、違うもん……多分……! あ、それで留学っていつから?」
「Ah………明日だ」
「明日……!?」

色々あって言うのが遅くなったって……遅いにもほどがある。明日なんて急すぎる。おにいちゃんに言いたいことも、したいことも、きっとまだまだ沢山あったと思うのに。
明日おにいちゃんがいなくなるなんて、いきなりすぎて心の準備ができないじゃない……。

「じゃあな華那。しばらく会えないからって泣くなよ?」
「な、泣かないわよ失礼ね!」

そう言うと荷造りがあるとかでおにいちゃんは部屋を後にした。勿論帰りも窓からだ。もうその点については何も言うまい。わたしはおにいちゃんが出て行った窓をじっと見つめていた。隣の部屋は明かりがついていて、そこにおにいちゃんがいるんだと思うとなんだが安心する。でも明日からあの部屋に明かりが灯ることはないんだ。なんでだろう。

おにいちゃんが目の前からいなくなるって聞いただけで、心にぽっかりと穴が空いてしまったような気分だ。もう一度ベッドに顔を埋め、傍にあった枕をギュッと握りしめる。ずっと会えないわけじゃない。数年会えないだけだ。でもその数年があまりにも長く感じられ、酷く苦痛だったのだ。

ずっとおにいちゃんの隣にいたい。おにいちゃんの隣で、ずっとあの横顔を見ていたかった。いつも自信に充ち溢れているまっすぐな目をした、あの凛とした横顔を見つめていたい。

「…………あ、そっか。わたしおにいちゃんのことがずっと好きだったんだ」

昔からずっとひっついて回っていたのは、おにいちゃんに認めてほしかったから。わたしという存在を認めてほしかったから……。わたしという存在を好きになってほしかったから、わたしがおにいちゃんのことを好きだったからずっと隣にいようとおにいちゃんの腕にしがみついていただけなのだ。

早くわたしのことを隣の子ではなく、女の子として見てほしかった。だから昔からよくおませな態度をとっていたように思う。おにいちゃんのことが好きだと自覚した途端、それまで平気だったことが恥ずかしく思えるのはなんでだろう。

「………明日。明日になったらおにいちゃんに会えなくなっちゃう」

留学先で彼女を作っちゃう可能性は大だ。きっとおにいちゃんの容姿や性格は、外国の女性にだってウケるはずである。まだ会ってもいないのに、彼女なんていないというのに想像しただけでムカムカしてきた。もしかしてこんな想いを抱えたままこれからを過ごさなくちゃいけないのかな。

それは……嫌だなあ。毎日こんなに不安でやりきれない気持ちでいるなんて、そんなの耐えられない。近くにいるならまだマシかもしれないのに、想い人は遥か彼方の異国の地。

なによりおにいちゃんにわたしの気持ちを知られないことが一番嫌だ。ふられることはわかりきっている。でもせめてわたしの、おにいちゃんをずっと好きだったっていう気持ちだけは知っていてほしい。

「明日……空港に行けば見送りくらいできるかな?」

そして言い逃げと言わんばかりに「好きです」って伝えたい。もしかしたらただの幼馴染という関係は崩れてしまうかもしれない。今までみたいに構ってもらえないかもしれない。それでもー――わたしは、好きだと伝えたいのだ。

「決めた……明日おにいちゃんにわたしの本当の気持ち、伝えよう」

ねえおにいちゃん。わたしね、ずっとおにいちゃんのこと好きだったんだよ。知ってた?

完 BACK

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