短編 | ナノ

戦う秘書の極秘報告書

「音城至、悪いが異動命令だ。明日からとある人の秘書をやってもらいたい」

本当にいきなりだった。いつもどおり秘書室で書類整理をしていたら、片倉専務から移動命令を言い渡されてしまったのである。私をはじめ秘書室にいる他の秘書達も呆然としてしまったのは仕方がないことだろう。だってあまりに急すぎたのだ。

秘書といっても私はまだ新人で、経験も浅く誰かの直属秘書になるなんて無理にもほどがある。もっと経験を積んでからのほうが双方のためになると思うのだ。そういう異動命令は私じゃなくて、周りにいる他のベテラン秘書達に言ってくださいよ。

だが片倉専務の命令は絶対で、逆らうことはクビを意味する。やっとの思いで就職できた会社をつまらない理由でやめたくなんかない。結局のところこの異動命令に従うしかなかったのだ。

***

で、肝心の「誰の秘書になるの?」という点だが、何故かいくら訊いても片倉専務は教えてくれなかった。「明日会えばわかる」の一点張りである。ただ、「その方が音城至を気に入ったようでな。俺の秘書にしろと命じたまでだ」とだけ言われたのだがますますわからん。気に入ったって言うのに名前は教えない。私に名前もわからない人の秘書になれっていうのかこの専務は。いくらなんでも無茶苦茶だ。ここの社長と同じくらい無茶苦茶である。

といっても直接社長と面識があるというわけではない。あくまで風の噂だ。失礼な話だけど私は自分が働いている会社の社長の名前を覚えていなかったのだ。というのも私が入社したときと今の社長が違うからである。今の社長は先代の社長のご子息で、歳を理由に私が入社してすぐに現役を引退したというわけだ。先代の社長ならバッチリ覚えているんだけれど、今の社長は未だ名前すら覚えていなかった。私のような平社員が社長の姿を拝めるなんてことないからね。

で、今の社長っていうのが噂によるととにかく凄いらしい。何が凄いのか訊いたら、「全部が凄いの!」といまいち答えになっていない答えが返ってきた。詳しいことはわからないが、業務面だけで考えれば確かに凄いと思わされる。今の社長になってからというものわが社の成績は著しく飛躍し、この不景気の時代に黒字を叩き出しているのである。営業成績のグラフは右肩上がりで、どこまで伸びるのか正直怖いくらいだった。どうやら会社経営の才能は先代以上にあるらしい。

が、こんな人間でも欠点はある。なんでも性格にかなり難があるとかないとか……? 
どんなに無茶な命令でもお構いなしに言いやがるし、「無理」なんて言ったら凄い形相で怒られるとか。多少強引な手段でも平気にするし、きっと色々なところで恨みを買っているに違いないというのが最近の噂だ。

………この話を聞くと、私は決まってある人物を思い出す。私の知り合いにも似たような人がいるのだ。自分勝手で横暴で、一言で言えば俺様で、超ド級のドSで、そして無駄にカッコイイ。あの声で囁かれることに、私はどうしようもないくらい弱かった。脳内で再生しただけでクラッとするときもある。

そいつとは大学時代に知り合い、卒業した今でもしょっちゅう連絡を取り合っていた。当たり前である、そいつと私は付き合っていたのだ。卒業後はお互い会える回数が減った分、よく連絡を取り合うようになった。しかしここ最近、連絡が取れないことが多くなったのもまた事実。どうやらあいつはあいつで忙しいらしく、遊んでいる暇などないらしい。

そんな彼とは今晩、約2ヶ月ぶりのデートの約束をしていた。場所は政宗の自宅である。こいつはどこぞのお坊ちゃまのようで、一人暮らしだというのに無駄に広い高層マンションに住んでいた。

「……というわけなのよ。せめて誰の秘書になるかくらい教えてくれてもいいと思わない!? ねえ、政宗ッ!?」
「……わーったからtieを引っ張るな。……ったく、もう酔っ払ってねえか、華那?」

お互いソファに座り静かに談笑……とはいかなかった。私は政宗のネクタイを引っ張りこちらへと引き寄せる。政宗の息を肌で感じるくらい至近距離だというのに、私は何も感じていなかった。いつもの私なら政宗の顔が近くにあるだけでドキドキするし、恥ずかしくてその端正な顔を直視できない。でも今はお酒の効果もあり平然としていられた。なにより折角のデートなのに、さっきから私は仕事の愚痴ばかり漏らしていたのだ。そりゃ政宗もげんなりするだろう。

「……でもホント、誰の秘書になるんだろう私」
「そんなに不安になることねえだろ、大丈夫だ」
「どうしてはっきりと断言できるのよ?」
「さぁ、どうしてだろうな」

相変わらず政宗の言葉は自信に満ち溢れていた。彼の言葉には揺らぎがない。だからこそ聞いた者を安心させる。昔から政宗の言葉に勇気づけられてきたけど、それは大学を卒業した今でも変わらないらしい。おもわず笑みが零れた。

「ねえ政宗、どうせ家に帰っても一人で悶々と悩むだけだろうからさ……。今は何も考えたくないの、だから」
「だから……?」

政宗が妖しく笑う。きっと私が何を言わんとしているかわかったからだ。わかった上でこいつは私に言わせようとしているな。ドSなところは昔と変わっていない。が、そんな彼の笑みだけで感じてしまう私もどうかしているに違いない。

「……だから、今日は政宗の家に泊めてくれない?」

政宗のようにはいかないかもしれないが、私もできるだけ妖艶な笑みを浮かべ、政宗の耳元で甘く甘く囁いた。囁くだけでなく唇を彼の耳朶に触れさせ、そっと甘噛みする。

「珍しいな。今日は随分と大胆じゃねえか」
「ん……そう? 久しぶりだからじゃないかしら」

政宗はゆっくりと私をソファに押し倒す。その間も私は政宗の耳朶に舌を這わせ、彼を味わうことに夢中になっていた。その行為は激しさを増し、厭らしい水音が真っ暗な部屋に響き渡る。私の行為に満足しているのか、政宗の手が自然と私のブラウスに伸びた。わざと焦らすように一つ一つ、じれったいくらいゆっくりとボタンを外していく。私の身体は早くも熱を持ち、早く触れて欲しいと訴えてくる。

「ん……早くぅ……」
「せっかちな姫サンだな。何も考えたくねえんだろ? 早くしちまったら面白くねえじゃねえか。ま、もっとも……今晩は眠れると思ったら大間違いだけどな」

窓から差し込む柔らかな月光が政宗を照らす。そのときの政宗の表情は、美しい月の光さえ曇らせてしまうほど妖しく、実に艶やかなものだった―――。 今にして思えば、昨日と同じスーツで出勤って拙くないか? と、翌朝になって思った。

寝ている政宗を起こさないように気をつけながら、勝手に悪いかなと思ったがシャワーを借り、脱ぎ捨てられた衣服を見てようやくそのことに思い至った。下着や普段着なら政宗の家にも何着か置いているけれど、さすがにスーツまでは置いていなかったのだ。特に今日は直属の上司となる人と会う大事な日。今から家に帰って着替えている時間はないし、このまま出勤するしかないのだけれど……大丈夫かな。

「Ah……なんだ華那、もう行くのか?」
「あ、おはよう政宗。昨日はどーも……」

昨夜の寝かさない発言は冗談だと思っていたのだが、彼は本気だった。本気で私を寝かさないつもりだったんだなと、もはや何回目かわからないくらいイカされたとき実感した。途中で私が気絶しなかったら今頃どうなっていたんだろう。ただでさえ腰が痛くて、歩くことすら苦痛に感じてしまうのに。

「華那が言ったんだろうが、何も考えたくねえってな。だからオレは何も考えられないくらい激しくしてやっただけだぜ?」
「限度っていうものがあるでしょうが。ただでさえ今日は平日! 仕事があるの休みじゃないの!」

翌日が休日ならまだマシなのだが、今日は平日。普通に仕事の日だ。腰の痛みのせいで一日中ゴロゴロしているわけにもいかず、私は自分の身体に鞭を打ちながら懸命に支度をしていく。

「仕方がねえな……オレの車で送ってやるよ。支度するからちょっと待ってろ」

面倒臭そうに頭をポリポリ掻きながらも、まだ眠たそうな顔で支度を始めた。車で送ってくれるのは嬉しいけれど、普段ならそんなこと頼まれても絶対にしないよね。あ、もしかして通勤のついでかしら。でも政宗って車で通勤してたっけ……? あれ、そもそも政宗は何の仕事をしているんだっけ? どこかの企業で働いているとは聞いたが、具体的にどこの企業かまでは聞いていない。

「なにぼさっと突っ立ってんだ華那。早くしねえと乗せてやらねえぞ」
「あ、ごめん。今行く!」

が、政宗に急かされこの疑問は無理やり頭の片隅に追いやられた。今はそんな疑問を抱いている場合ではなく、今日顔を合わせることになっている上司のほうが問題だろう。私の直属の上司、どんな人だろう。優しそうな人だったらいいんだけれど……。

***

「送ってくれてありがとう政宗。でもね……どこまでついてくる気なのかしら!?」
「そりゃ華那の仕事場までに決まってんだろ? このオレがescortとしてやってんだ。あり難く思いやがれ」

本社ビルの入り口でこんなやりとりをし始めて早数分。会社の前まで送ってくれたことには素直に感謝しているが、あろうことか政宗は中までついてくると言い出したのだ。冗談じゃない。常識で考えてもありえないだろこの発言は。もともと多少ぶっ飛んでいる男だと思っていたが、まさかここまでだったとは信じられない。

ビルの敷居を跨がせないとする私の努力も虚しく、政宗は私の腕を引いて無理やりビルの中に侵入した。け、警備員さーん。ここに、ここに不審者がおりますよ捕まえてください! 政宗はエントラスホールを我が物顔で抜けると、エレベーターが来るのを待つ。その間も私の腕は掴んだままだ。声を上げようにも大勢の人が行き交う場所ではしたない行為はしたくない。ただでさえ周囲から見られているのに、これ以上恥ずかしい目に遭いたくない。そりゃ手を繋いで仲良くエレベーターを待っている姿なんて、こういった会社のビルで拝めることなんてないものね。場違いにもほどがある。

そしてようやくエレベーターが来た。私達しかいないエレベーターの中、彼は迷うことなくボタンを押した。あれ、秘書課が何階にあるか政宗に言ったっけ……? だがエレベーターが止まり、ドアが開いても、私はそこから動くことができなかった。呆然としている私を政宗は無言で引っ張り、強引に歩き始める。強引に引っ張られているものだから、私の足は縺れて転倒しそうになった。でも政宗はお構いなしに長い廊下をスタスタと進んでいく。最奥の部屋に繋がるドアを些か乱暴に開けると、広いその部屋の中には既に誰かの姿があった。私も見覚えるのある、あの人がそこにいたのである。

「……片倉専務?」
「おはようございます、政宗様」
「Good morning 小十郎。悪ィな、少しばかり遅くなっちまった」

え……どういうこと。片倉専務と政宗が……知り合い!?

「あ、あの、片倉専務! これはどういう……」

よく見ればこの部屋って……社長室じゃないか! わ、私はどうしてこんなところにいるの。じゃなくて社長室に私みたいな平社員が、政宗みたいな赤の他人が入り込んでいいものなの? 片倉専務はいいとしてさ! 混乱している私を見て、片倉専務はゆっくりと口を開いた。

「音城至。この方が昨日言ったお前の上司になるお方だ。我が社の社長―――伊達政宗様だ」
「………………え?」

今の私の「え?」は、今まで一番ポカンとした「え?」だっただろう。うっそだーと思いながら政宗を見上げると、彼はニヤッと笑って「ま、そういうこった」と言ってのけた。え、じゃあ私は政宗の部下になるってこと? なによりこの会社は政宗の物で、てことは先代のご子息がこいつで、私は政宗が経営する会社に勤めていたってことで……。あれ、なんか段々わけがわからなくなってきた。簡単に言ってしまえばこの会社の社長は、実は政宗でしたーってオチか?

「って……え、ええええぇぇぇえええ!?」
「つーわけで華那。お前はこれから一生、このオレのために身も心も尽くせ。Are you ok?」
「お、オーケーなわけないでしょ! ふざけるなバカ!」
「それが上司に対する口の聞き方か……? 躾がなってねえ部下にはお仕置きが必要だなァ」
「ぐ……!」

昨晩見せた厭らしい笑みを浮かべながら、政宗は私の腰にスッと腕を回す。なんかその手つきが妙にやらしいのは気のせいでしょうか。お尻を撫で回すような、まるで痴漢がするようなものに近い。私の自意識過剰ですかね? 本当に政宗が社長なら口の聞き方には気をつけないといけない。でも政宗に敬語を使うなんて気持ち悪くないか? でも敬語を使わないと何されるかわからないしなー……。

「そういや上司の疲れを癒すのも秘書の仕事だろ……? ここ最近仕事をやりすぎて疲れてんだよ」
「だったらその場合、疲れているのはむしろ私のほうなのですが……?」
「そりゃ気づかなくてすまなかったな。なら今からオレが華那を癒してやるよ……全身でな」
「余計に疲れてしまいそうになるのです、が!」

なんとか政宗は引き剥がし、片倉専務に助けを求める。

「政宗……じゃない。伊達社長の秘書になる件ですが、申し訳ございませんが納得いきません!」
「どうしてだ?」
「それは……」

政宗が私のことを「気に入った」から秘書にしたいと言った。それってつまり私が政宗の恋人だからってことだよね? 私の能力が認められたわけじゃない……。仕事の実力を認められていないのに、ただ政宗の恋人だからという理由で傍に置いておくなんてあまりに残酷だった。そんなのはただのお飾りで、私の代用品なんていくらでもある。もし私と政宗が別れたらそれまでのことで、そのときは新しい恋人が秘書になるのだ。

「……確かにオレは華那を「気に入った」から、オレの直属になるように推薦した。だがな、その「気に入った」っていう意味は、お前の仕事に対する能力が「気に入った」のであり、華那がオレの女だから秘書にするっていうわけじゃねえ。ま、下心がないと言えば嘘になるがな」
「…………政宗」

信じられない。……私の知らないところで、彼は私の仕事を見ていてくれたの? 私は何も見ていなかったのに、政宗はちゃんと見てくれていたんだ。そうだ、政宗はこういう人だ。口では憎まれ口を叩きながらも、誰よりもまっすぐに人を見ている。そのことを言えば可愛くないことを言うし、つまらない意地も張ることだろう。だから私は何も言わない。政宗のぶっきら棒な優しさに感謝しているなんて、言う必要なんてないのだ。私だけが知っていれば、それでいい。

「仕事に関すりゃ、使えないヤツなら切り捨てるし、使えるヤツなら傍に置く。それだけだ」

この人になら、ついていける。そう確信した。迷いなんてない。

「どうするんだ華那? 嫌ならこの話はなかったことにするが……」
「いいえ。その話、お受けします。他の誰かに社長の秘書をやらせるわけにはいきませんわ」

これは、私の小さな独占欲。

「―――これからよろしくお願い致します、社長」

完