短編 | ナノ

秘書と野獣

この不景気の時代に日本大手の企業に就職できただけでも十分幸せだった。おまけに憧れの秘書課に配属され、このときが私の人生で最も輝いていたときかもしれない。毎日の仕事にやりがいを感じ、どんなに厳しくても、どんなに忙しくても、純粋にこの仕事が好きだったので文句を言わずやってきたつもりだった。

が、この仕事にもようやく慣れ始めたと思い出した頃、私の人生は大きな転機を迎えることになった。まさかこの私に「社長の秘書をやれ」っていう人事が下るなんて、想像もしていなかったんだもの―――。

***

「おはようございます社長。本日のスケジュールは十時に役員会議。十一時にはデミル社社長と会談。十二時十五分にテヴェール社社長との昼食会。一時三十分に……」
「Ok ok……もういい、それだけで十分だ」

そう言うなり目の前の男は、デスクに腰掛けながら面倒臭そうにネクタイを緩めた。シャツのボタンも上二つは留められておらず、こちらの気などお構いなしに惜しみもなく逞しい肌を曝け出している。スーツも皺こそないが、ビシッと着こなしているわけでもなく、ボタンなど一つも留められていなかった。

男、もとい社長はポケットからタバコとジッポーライターを取り出すと、流れるような手つきでタバコに火を点けた。悔しいけれど、その一連の動作に見惚れてしまう。赤くなった頬を隠すために手に持っていた書類を近づけ、顔ごと赤くなった頬を覆い隠した。全く、どうしてこの男はいつもデスクに座るのかしら。イスがあるのに何故イスに座らず、デスクに座ろうとするのよ。長い脚を自慢したいのか。

「そういやこの間頼んでおいた資料は完成したのか?」
「はい、こちらが先日頼まれました資料です。社長が仰った事項は全てまとめてあります」

手にしていた書類を社長に渡す。すると社長はすぐさま資料に目を通し始めた。自分が言ったとおりにできているかチェックするためである。毎度のことだけどこの時間はあまり好きでじゃない。こんな外見をしているが、仕事に関してはかなり厳しいお方なのだ。一つのミスも許さず見逃さず、妥協を許さず。まるで判決を言い渡されるかのようなドキドキ感を味わうこの瞬間だけは、社長秘書となって早一年ほど経った今でも慣れずにいた。

「よし……相変わらず非の打ち所はねえな。大したもんだ」
「恐れ入ります」

言うなり短く頭を下げる。すると社長が小さな声で、「相変わらず面白味に欠けるぜ」と呟いたのを私は聞き逃さなかった。私が社長秘書に配属されてからというもの、こういった資料に関しては一度もミスをしたことがない。そのことが社長は気に入らないらしく、私がミスするのを心待ちにしていた。だから書類のチェックは人一倍入念で、私も負けず嫌いの精神のせいで提出する前に何度も間違いはないかチェックしている。何度も何度も同じ箇所をチェックし、誤字脱字もないように心がけているのだ。このことを社長が知っているかはどうか怪しいところである。

「あと明後日なんだが、急遽取引先のセリユ社の重役と会うことになっちまった。なんとかしてscheduleを割り込ませろ」
「かしこまりました。お時間はいかほどで……?」
「あんな奴らの話なんざろくなことじゃねえ。十分も相手してやりゃ十分だろう」

明後日のスケジュールを変更しろ、ね……。随分簡単に言ってくれるじゃないの。暇人なら割り込ませることくらい簡単だけど、社長のように常にスケジュールがぎっしり詰まっている人だと苦労するのだ。そういうときは優先順位で予定をずらさなくてはいけない。簡単に言ってしまえば、多少待たせてもよい相手との予定をずらし、そこにできた隙間に新たな予定を無理やり埋め込むのだ。こういう仕事は秘書の腕の見せ所だろう。社長のスケジュール管理も秘書の大事なお仕事なんだから。

「ではわたくしはこれで。失礼致します」
「Hey 華那………」

華那、と名前で呼ばれたことで、私は失礼ながらも社長をキッと睨みつけた。社長も「しまった」という風に、口元を手で覆い隠しながら眉を顰めている。勤務中に下の名前で呼ぶと私が怒ると知っているからだ。

「社長、今は勤務中でございますので、わたくしのことは音城至と、苗字でお呼びくださいませ」
「別に構わねえだろ。この部屋にはオレとお前しかいないんだぜ?」

たしかにこの社長室にいるのは社長と私だけ。だがしかし、そういう問題ではないのだ。

「そういう問題ではありません、意識の問題でございます。勤務中は常に苗字でお呼びいただかないと、いつどこで襤褸が出てしまうかわかりませんわ」
「ンなヘマをこのオレがすると思うか?」

社長はデスクから下りると、妖艶な笑みを浮かべながらゆっくりとした足取りでこちらへ近づいてきた。社長はまだ何もしていないというのに、私の身体は早くも熱を帯び始める。まだどこにも触れられたわけではないのに、ただ見つめられているだけなのにどうしてこうも熱くなってしまうの? 

社長と私の距離が一歩一歩、確実に縮まっていく。すぐ後ろにあるドアから退室すればいいのに、私の思考は麻痺したように機能していなかった。動けない、逃げられない。

「……ったく。ついさっきまではオレの下で、イイ声で啼きまくってたっつーのに。なんでもういきなり秘書modeになっちまってんだ?」
「そ、それは……!」

社長にそう言われると、いやでも昨夜の出来事を思い出してしまう。厳密に言えば昨夜じゃない。本当についさっきまで、だ。思い出すだけで羞恥が身体中を駆け巡る。まるで自分の声じゃない甘ったるい声で、私は社長と……。うう、思い出しただけなのに、あまりの恥ずかしさから口から火が吐けそう! 社長の指が私の顎に触れ、クイッと上に向けられる。すぐ近くに社長の顔があり、それだけで私の頬は真っ赤に染まってしまったことだろう。恥ずかしくて涙が出そうになる。

「その顔がオレを煽っているってことにまだ気づいてねえだろ、華那?」
「んっ………!」

社長の唇が私の唇と重なった。啄ばむような優しいキスではなく、奪うような荒々しいキス。社長の舌と私の舌が厭らしく絡み合い、私から理性を奪っていく。

「んっ…んん……っ……」

何度も何度も。逃げようとすれば捕まり、さらに深く絡み合う。舌と舌が絡み合う厭らしい音が、私の耳をも犯し始めた。どれくらいお互いの唇を貪ったかわからないほど、気がつけば私達はお互いを貪りあっていた。

「……っ……はぁ、はぁ……」

ようやく離れた頃には、私は肩で息をする羽目になっていた。

「クク……随分とエロい顔してんな、華那……。なんなら仕事の前に今からもう一回ヤるか?」
「なっ……昨夜といいさっきといい、もう散々したでしょうに!」

失いかけた理性をなんとか呼び戻し、社長のこの提案だけは却下しようと試みる。

「今の私は政宗の恋人じゃないの、伊達社長の秘書なの! いい加減仕事とプライベートの区別をつけて!」
「そうか? その割に身体は……」

言うが早いか、社長の手が私の太ももをスッと撫でた。さっきのキスで敏感になっていたせいもあり、私の口から普段は出ないであろう甲高い声が漏れた。その様子に社長は満足そうに口元を緩める。

「クク、身体は素直じゃねえか。我慢は身体によくねえぞ。素直にオレが欲しいって言ったらどうだ?」
「ぜーーーったいに言いません!」
「……仕方ねえな。なら今晩、オレに我慢させる分も含めて、たっぷりと啼いて、善がってもらうとするか」

ハァ……こういったことがなければ、この職場は言うことないくらい素晴らしいんだけどな。

そう、こんなことは日常茶飯事なのだ。まさか入社した会社の社長が大学時代から付き合っている恋人だったなんて、ありえなさすぎて笑えないだろう。私が社長直属の秘書になると決まったとき、どうして私が社長秘書に? と人事の人に訊いたことがあった。すると人事の人は「社長が気に入ったからだ」と口を揃えてこう言ったのだ。

今ならわかる。独占欲が強い彼のことだもの。自分の目が届く範囲に置いておきたかったに違いない。それだけじゃない、ここ最近は合コンや飲み会にも誘われなくなった。私と政宗の関係は会社には秘密にしているので、私達が社長と秘書という関係の前に恋人同士と知っている人間は数少ない。なのに何故合コンや飲み会に誘われなくなったのか。それも急にだ、急に! 政宗の秘書になってから、急に誘われなくなってしまったのだ。

きっと私の知らないところで政宗が手を回しているに違いない。だってあまりに不自然すぎるんだもの。これじゃあ何のために仕事モードと恋人モードを使い分けているかわからない。あーあ。私のOL生活はどうなっちゃうんだろう。朝、昼、晩。色々な意味でずっと社長のお世話をするだなんて、私の身体はもつだろうか……? 

「今夜は眠れると思うなよ? ずっとイカせてやるから覚悟しとけ」

……もしかしたら本気で転職を考えたほうがいいのかもしれない。

完