短編 | ナノ

お隣さんちの恋愛事情

社会人と付き合うって、やっぱりムズカシイのでしょうか。突然こんなことを訊かれれば、誰だって頭上にクエッションマークが浮かぶに違いない。それがどんなに近しい人でも、何を言えばいいのか迷ってしまう。少しの間のあと「なにいきなり」や「どうしたの?」的な言葉が返ってくるのも、訊ねておいてなんだけど簡単に予想できていた。予想できていても言わずにはいられないあたり、自分でもどうしようもないと思われる。

「……は? いきなりどうしたのさ華那」

ほらね、予想どおりの返事が返ってきた。テーブルを挟んで座る佐助は、声だけでなく表情もどこか気が抜けている。そりゃあ酒の席でこんなことを訊かれたら、なんだこいつって思うのも無理はない。週末の夜だけのことはあり、居酒屋は若者やサラリーマンで賑わっていた。先ほどから喧騒が鳴り止まない。みんなが騒ぐものだから声も段々大きくなり、仕舞いには怒鳴っているのか叫んでいるのかすらわからなくなっていた。

ふとした拍子に隣の席に座る男と肩がぶつかる。男は酔っているのかかなり豪快に笑っていた。笑った際に肩がぶつかったのかもしれない。別にこういった席でぶつかったことに対して咎める必要性はない。むしろお互いの気分を害してしまうだけだ。私は何もなかったように振舞う。

「大学生なんて社会人からしてみたら子供だろうし? なにより生活時間が違うからなかなか会えないし? 相手の迷惑にはなりたくないから会えなくて淋しいなんて言えっこないし?」
「………華那、もう酔ってる? サークルの打ち上げが始まってまだ一時間も経ってないけど」
「酔ってないわよ。まだまだこれからだっつーの」

言うなり手元にあったカクテルを飲みながら、酒の肴として注文したから揚げを口に含む。

「今日は折角の打ち上げなのに、そんなつまらなそうな顔で酒を飲んじゃう? というよりなんでいきなり華那の恋バナが始まっちゃうのさ」
「だって年上との経験が一番豊富そうなのって佐助なんだもん」
「ってことは何? 華那、年上の男と付き合ってんの?」

ビールを口に含みながら、佐助は好奇心で瞳を輝かせ始めた。最初は怪訝な顔をしていたくせに、すっかりその気になっている。浮かれている佐助と対して私は仏頂面でチビチビとカクテルを飲み続けた。

「……付き合ってはいないけど、なんといいますかその……」

少し視線をずらして明後日の方向に目をやる。ごにょごにょと言葉を濁していると、佐助は「はっはーん」と怪しい笑みを浮かべた。全てを見透かすような目が恐ろしくて、私は明々後日の方向に目をやる。

「華那の好きな男は年上の社会人なんだ。年齢は……二十五くらい?」
「すごっ! 前者はともかく年齢まで当てるなんてすごっ!」

カクテルを飲む手を休め、佐助の洞察力に驚きの声をあげてしまった。おもわず目を見張る。先ほどの質問で年上の社会人ということは察しても、年齢まで当てるとは思ってもいなかったからだ。

「大学生って言っても所詮は二十一のお子ちゃまでしょ。やっぱり恋愛対象にはならないのかなーって……」
「恋愛対象になるかならないかはその人次第だと思うけどね。でもなんでまたそんな人と接点があるのさ? バイト先の人とか?」

大学生と社会人は接点なんてまるでない。精々バイト先で知り合いましたってところくらいだろう。しかし私の場合はそうではないので、ふるふると首を横に振る。

「実はその人お隣さんなの。よく一緒にご飯を食べたり、勉強を見てもらっているくらいかな。女性の出入りがないことから、独身彼女ナシと思われるかと」
「一緒にご飯なんて食べてんの?」
「お互い一人暮らしだから経済面を考えると、一緒に作ったほうが効率はいいでしょ?」
「まぁそうだけど……一体どうやったらそこまで仲良くなれるわけ?」
「その人ね、実は小さい頃少しの間だったけど近所に住んでた人なの。だから顔見知りっていえば、顔見知りだったんだ」

まだ小学生だった頃の話である。近所にやたらとかっこよくて怖い中学生が引っ越してきた。その容姿と言動から、あっという間に近所の有名人となったくらいである。私は事あるごとにその「おにいちゃん」に引っ付きまわっていたのだ。おにいちゃんもそんな私を面白がってか、いつもどこか行くたびに一緒に連れて行ってくれた。

しかしそのおにいちゃんの家族は所謂「転勤族」だった。一年少しした後、またどこかの地へ引っ越してしまったのである。それから十年近くした後、大学へ通うために実家を出て、私はマンションを借りて一人暮らしを満喫している。

そんなある日、今までずっと誰も住んでいなかったお隣に人が越してきたのだ。当然お隣なのでその人は引越しの挨拶にやってきた。私は慌ててドアを開けるが、途端に私の身体は硬直した。その人は口を開けたまま呆然としている私を怪訝に思ったのであろう。形の良い眉を顰めて、訝しげな視線を投げつけた。

「Hey どうかしたのか?」
「………なんでここにいるの、政宗クン?」
「なんでオレのnameを知ってんだ?」

当時中学生だったから、大人となった今じゃ外見だってそれなりに変わる。目の前の彼だって変わっていたさ。サッと上から下へと全身を見る。私の記憶に残る中学生の初々しさはない。大人の男の色気っていうか、身長も伸びて体格もよくて……。シャツを着ているため見えないが、服の下の二の腕や腹筋には引き締まった筋肉があるんだろうなァ。想像しただけでも顔がニヤけそうになった。

だが彼の表情が気味悪いものを見るようなものなってしまったので、私は慌てて煩悩の塊と化した頭を現実に引っ張り戻す。もしかしてニヤけそうになった、ではなくてニヤけてしまっていたのかもしれない。

「私! 私のこと覚えてない? 政宗くんが中学生の頃、いつも引っ付いていた小学生のこと」
「引っ付きまわっていた小学生……?」

しばらく考え込む政宗くんを、私は少し緊張した面持ちでじっと見つめる。政宗くん以上に外見が変わっているはずだし、引越しを繰り返していた政宗くんからすれば私のことなんて覚えていないかもしれない。仕方がないことかもしれないれど、覚えていなかったって言われればやっぱり悲しいもの。祈るような縋るような、妙な気持ちで思い出してくれることを待ち続ける。

「Ah そう言われればなんかいたな。引っ付き虫のようなガキが」
「あえて否定はしないけどその言い方ちょっと酷くない?」
「たしかnameは……華那だったか?」
「そうそう! 私がその音城至華那だよ。うわー覚えていてくれたんだ、嬉しい!」
「そりゃ毎日引っ付きまわっていたらな……」

なんか覚えていてくれたというのに、政宗くんの言い方だとあまり嬉しくないのは何故だろう。

「しかしそう言われてみれば……」

政宗くんは艶やかな笑みを薄っすらと浮かべながら、嘗め回すような目で私の全身を眺める。なんだこの怪しい目つきは。ニヤニヤと面白いものを見つめるような視線が突き刺さる。

「あ、もしかして私が綺麗になっちゃったものだからびっくりしてる? そりゃあ小学生の頃と違って、私も色々と成長したもからねー」

「ふふん」と鼻を高くする私に、政宗くんは「Ha!」と鼻で笑いやがった。

「いや……見事に変わってねえなと思ってな。普通もっと成長するだろうが、特に胸」
「人が気にしていることをサラリと言わないでよ! すっごく失礼だよ!」

政宗くんと話している間に、私は忘れかけていた色々なことを鮮明に思い出していた。そうだったよ、政宗くんって昔からこんな性格をしていたんだった……。なんでこんな大事なことを忘れかけていたんだろう。まさか昔っから顔だけしか見ていなかったわけでもあるまい。

「……それで? なんでここにいるの」
「いるもなにもオレは引越しの挨拶に来ただけだぜ。ほれ、お前の横の部屋」
「え!? じゃあ今日からお隣さんってこと?」
「Yes つーわけで、今日からまたよろしく頼むぜ、お隣さん」

***

「………とまぁこれが再会したときのお話よ」
「なんつーか周りにいる人間を振り回しそうな男だね。つか飲み過ぎだよ華那」

佐助は呆れているのか感心しているのか、微妙な反応を示していた。彼の察するとおり、政宗くんは周りにいる人を振り回すタイプだった。だから私は反論せずお酒を飲む。私が何も言わなかったので、佐助もそれを肯定の返事と受け取ったようだ。私は更に話を続ける。

政宗くんが越してきてからしばらくして、それまでは平穏だった日常が一気にスリルなものへと変化した。昔から政宗くんの突拍子のない行動には驚かされていたけれど、大人になった今じゃ落ち着いているものだと思うじゃない。その代表的な例を一個あげることにしよう。

***

あれは夜の九時を過ぎた頃だったはずだ。その日はバイトもなく、大学が終わると家でゆっくりとしていた。ご飯も済ませ後はのんびりお風呂に入るだけである。お風呂が沸くまでテレビを見て過ごしていた、ちょうどそんな時だった。ベランダからコンコンと叩くような音がしたのだ。ここは四階だ、普通ならコンコンと叩いたような音などしない。見ると薄っすらだが人影のような影がカーテン越しに映っていた。窓からやってくる客など普通じゃない。私はゾッとして頭から冷水を浴びたような気分に陥った。人影はもう一度コンコンとガラスを叩く。まるでそこにいることはわかっていると言われているようだ。私はゴクリと喉を鳴らしながら、ゆっくりとベランダに近づく。少し震える手つきだったが、覚悟を決めて一気にカーテンを取り払った。

「え………!?」

目の前にいる人物が信じられなくて、私はすてーんと引っくり返りそうになった。だが気力だけでなんとか持ちこたえる。安堵したのも束の間、今度はわなわなと怒りが湧き上がっていた。

「な……何やってんの政宗くん!?」
「ンなことより早く開けろ。寒いんだよ」
「ああ、はいはい……」

ベランダから人が現れただけでも十分驚くのに、それが政宗くんだったことで私の驚きは数倍跳ね上がった。政宗くんに命令されるまま鍵を外し、窓を開ける。彼は何食わぬ顔で私の部屋に上がりこんだ。

「どうしてここに!? じゃなくてどっから来たの!?」
「Verandaを跨いだだけに決まってんだろ。なに驚いてんだ?」
「ま、跨いだだけって……」

私は慌ててベランダに飛び出し、政宗くんが跨いできたという場所に目をやる。確かに政宗くんの部屋は私の隣で、跨ごうと思えば跨げるのかもしれない。しかし隣とは敷居があり簡単に行き来することはできない。ベランダを行き来するためには手すりから身を乗り出し、そこから渡る必要があるのだ。一歩間違えて身体を滑らせば、一瞬であの世に行けることだろう。

「………普通に考えて無理だわ、うん」
「そうか? これくらい楽勝だろ」
「楽勝じゃないもん。うちに来るなら玄関から来てください」
「そんな面倒なことはしねえよ」

ベランダから命を危険に晒して来るか玄関から普通に来るか。答えはわかりきっている。誰だって玄関から来る、普通に来るよ。なんでうちに来るだけで身を危険に晒す必要性があるのかわからない。

「……で、こんな時間に一体何の用なの?」
「夜這いに来た」
「よばっ……!?」

なんとか平静でいようと努力している私に、政宗くんはニヤリと笑いながらとんでもないことを言い出した。瞬間的に顔を中心にして体温が上がる。意味もなく拳で口元を覆い隠し、あわふたとその場で慌ててしまう。そんな、純情少女に何を言いだすのよ政宗くん。

「……随分と初な反応じゃねえか。こりゃ苛め甲斐がありそうだぜ」
「な、何を仰いますやら……?」

言うなり政宗くんの腕が私の腰に伸びる。咄嗟に反応できなかった私の腰を掴むと、グッと自分のほうへと引き寄せた。今まで見たことがないくらいの至近距離に頭がクラクラする。目の前にあるのは端正な顔。獣のように射抜く瞳に囚われたら最後、私は身じろぐことすらできなくなった。右手で私の腰を掴んでいる政宗くんは、何を思ったのかがら空きだった左手で私の顔にかかっていた髪を払う。政宗くんが触れたところだけがやけに熱い。そこからビリビリと電流が流れているかのように甘く痺れるようだ。

「そんな泣きそうな顔すんなって、誘ってんのか……?」

声を聞くだけで私の脳は麻痺を起こす。どうやってこの場から逃げ出すか考えなくてはいけないのに、思考が麻痺して考えることができない。ゆっくりと政宗くんの顔が近づいてきて、フッと息を吹きかけるように私の耳元で囁いた。

「知っているか? そういう表情はな……逆に男を煽るんだぜ」

政宗くんの唇が私に耳に触れたと思えば、次の瞬間には甘噛みされていた。私の口から声にならない悲鳴あがる。なんだこれ。身体の奥から何かが湧き上がるような感覚。こんなの初めてだ。でもこのまま流されるわけにはいかない。残り少ない理性を総動員して、私は決死の思いで声を発した。

「…………ま、政宗くんっ!」
「―――そういや腹減ったな、なんかねーか?」
「……………へ?」

鳩が豆鉄砲を食らったような顔。今の私がまさにこれだった。さっきまでの艶やかで厭らしい妖艶さは消え、昔と変わらない高圧的な表情に戻ってしまっている。なんてことない、いつもの政宗くんだ。呆気らかんと突っ立っている私を他所に、政宗くんはさっさと台所へ向かっていた。きっと食べるものを探しに行ったんだと思う。どこまで自分勝手なお人なんだァ……?

***

「……華那、一つ訊いていい?」

話が終わるまで口を挟まず聞いていた佐助だったが、私の話が終わると冷静な声で質問があると言い出した。私は黙って首を縦に振る。了承の合図だ。

「……そんな男のどこがいいの? 一体どこに惚れたのさ?」
「……………ナンデダロウネ」

確かに、この話だけを聞くとどこがいいのかわからない。ただの自分勝手な最低男である。佐助の疑問は至極当たり前のことだった。しかしそこは惚れた弱み。どんなに破天荒だろうがオレサマだろうが、つい許してしまうしかっこよく見えてしまう。恋は先に惚れたほうが負けだ。

「……でも政宗くんは私にとってはヒーローみたいなんだよぅ。私が困っているとき必ず助けてくれたも〜ん、アハ」
「華那、やっぱ相当酔ってるよね……?」

***

スースーと静かな寝息が聞こえる。佐助は横でうつ伏せに寝ている女をじとっとした目で見つめていた。酔い潰れてそのまま寝入ってしまったため、どうするべきかと手を拱いているのだ。打ち上げはそろそろ終焉だろう。酔いが回ってきてテンションがおかしい者や、「ふわあ……」と欠伸を堪える者もいた。数回肩を揺さぶってみるが、華那が起きる気配はない。もし起きたとしても酔い潰れた華那のこと、女一人で夜道を帰らせるわけにもいかないだろう。となれば誰かが送るしかない。

「―――いらっしゃいませー!」

入り口付近から店員の接客用の挨拶声が聞こえる。佐助はふと自分の腕時計に目をやった。何故ならこんな時間に新客とは珍しいからである。今から来ても店もいずれ閉まる。ゆっくり飲めないのにわざわざ来るなんて珍客もいるものだ。そんなことを頭の片隅で考えていると、視界の隅にフッと黒い影が覆い被さった。なんだと顔を上げれば、そこにいたのは一人の見知らぬ男である。男の顔を見るなり佐助はスッと目を細めた。人を見下すような目と不遜な態度。何故かその顔には呆れの色が窺える。男は気だるそうに頭を掻きながら短く舌打ちをした。

「……ったく、予想通り酔い潰れやがって」
「おたく、誰?」
「An?」

男の視線が佐助へと移る。男は佐助と目が合うなり面倒臭そうに口を開いた。

「そこで酔い潰れている女の保護者みてーなモンだよ。帰りが遅いから酔い潰れているんじゃねーかと思って迎えにきてやったんだ」
「そりゃご丁寧にどーも。でもその心配は無用だったと思うよー? 俺様がいるし?」
「ほぉ……?」

男のこめかみに一本の青筋が浮かぶ。佐助とこの男の間に見えない火花が散っているようだ。男は佐助を無視して無遠慮に華那の肩を乱暴に揺さぶった。佐助のときとは違い手加減なしの酷いものである。

「Hey 華那、この俺がわざわざ迎えに来てやったんだ。さっさと起きやがれ」
「うーん………?」

薄っすらと華那の目が開けられる。しばらくふわふわと視線をさ迷わせていたが、男の姿を捉えるなりキラキラとその瞳を輝かせた。

「あー、ましゃむねくんだ。にゃんでここにいりゅの?」
「華那お前……呂律が回ってねえぞ。酒に強くねえんだからあんま飲むなよな」

華那の口から「政宗」と出たことで、佐助はハッと小さく目を見開いた。先ほどまで華那の口から語られていた男が今、目の前にいる。華那は酔いの勢いなのか、政宗の手を取るなりその身体に抱きついた。政宗もまるで慣れていますと言わんばかりに、その背中に腕を回しポンポンと軽く叩く。

「Ah あまり引っ付くな、酒臭ェ」
「うーん?」

政宗は手馴れた動作で華那をおんぶすると、さっさと店を後にしようとする。その背中に佐助は声をかけた。

「あんたさ、華那の気持ちに気づいているだろ?」
「……さぁ、何のことだ?」
「いい性格してるねー」

政宗は嫌味ったらしく口角を吊り上げる。佐助は一瞬で悟った。華那の気持ちにこの男は気づいている。気づいていながらも気づいていないふりをしているのだ。きっと華那の反応を楽しんでいるに違いない。ならばこの男の本心はどうなのか。その気もないのにからかっているだけなら、この男は相当の悪党である。

「………ま、嫌いだったらわざわざこんなとこまで迎えにこないよな?」

そう言って笑った男の横顔に、佐助は顔を引き攣らせる。

「……ほんっと、いい性格してるよ」

完