短編 | ナノ

盲目的恋愛中毒

今、街が一人の男一色に染まりかけていた。ポスターに雑誌、モニターの映像と、街に溢れているメディアには、必ずといっても過言ではないほど一人の男が映し出されている。あらゆる衣装をクールに着こなし、射抜くような眼差しを向けている男だった。街行く女性達はそんな彼の姿を見ると、はたと足を止めしばし魅入る。そしてここにも、彼に魅入る少女が一人。

街の中心の繁華街のド真ん中にある巨大モニターを、その少女は蕩けるような熱い瞳で見上げていた。彼女が見ているモニターには例の男が映し出されており、新発売されたマニキュアのCMがずっと流れている。

彼女―――華那は先ほどからこの映像を見続けていた。既に見始めて五分は経過している。だが魅入っている華那に時の流れなど皆無で、彼女の周りだけ時間が止まってしまったようだ。

しかし現実に時間が止まるなど起こるはずもなく、華那の隣にいる青年は先ほどから苛立ちを隠せずにいた。煙草を吸いながら眉間にしわを寄せている。意味もなくモニターを鋭く睨みつけるが、そんなことをしても現状の回復にはならない。この不愉快な状況を打破するには、隣にいる華那をどうにかしなければいけないのだ。彼―――伊達政宗は煙草を吐き捨てると、溜息混じりに声をかけた。

「Hey 華那、いい加減にしやがれ。いつまでそうしているつもりだ?」
「んー……もうちょっと」

華那の視線は相変わらずモニターに向けられたままで、声も心ここにあらずといった感じである。華那の意識はモニターにしか向けられておらず、隣にいる彼などこれっぽっちも相手にしていなかった。生半可な返事が、更に彼を苛立たせる。

「さっきもそう言ったよな。既に一分四十三秒経過してるぜ」
「もうー……わかったよ」

政宗のわざとらしい言い回しに、華那は渋々といったふうにモニターを見上げるのをやめた。そして政宗に向き直り、口を尖らせながら「かっこよかったのに」と小さく呟く。本当に小さな声だったが、すぐ傍にいた政宗は聞き逃さなかった。

「Ha! あんな野郎のどこがいいんだよ」
「どうせ政宗にはわかりっこないんだよーだ!」
「ああ、わかりたくもないね」

憎まれ口を叩きながら、華那と政宗はようやく歩き出す。休日の繁華街は人で溢れかえっていて、ちょっとでも目を離せば逸れてしまいそうなほどである。政宗は当たり前のように華那の手を握り、また彼女も当たり前のように政宗の指に自分の指を絡めた。

今日は久しぶりのデートだった。ここ最近お互い忙しく、デートはおろか一緒に会話する時間さえなかったくらいである。だから政宗は今日のデートを至極心待ちにしていた。一日中一緒にいても足りないと思うほど、政宗は華那に溺れている。それは華那も同じだと思っていた、そんな矢先のことだった。デートの最中に華那はモニターに映っていた男に夢中になっていたのだ。それも、政宗を放って。

「政宗が知らないはずないでしょ、いま流行っているモデルのことくらい!」

華那や世の女性が夢中になっているモデル、それがあの映像に映し出されている男だった。突如として現れたその男は瞬く間に人気となり、今ではあらゆるファッション雑誌で彼の姿を見ないことはないほどだ。どの雑誌も彼を表紙に起用し、CMも挙って彼を起用する。メディアというメディアで活躍する彼を、この情報社会で目にするなというほうが難しいほどだった。

華那もそんな彼の虜となった一人で、今では彼が表紙の雑誌は全て買っているほどである。それまで興味がなかったファッション雑誌も読むようになり、お洒落にももっと気を使うようになった。

それは政宗にも喜ばしいことだった。大好きな彼女が見る見るうちに綺麗になっていくのである。それを見ていて喜ばない彼氏はいない。だが素直に喜べない気持ちもあった。そう、華那が綺麗になった原因である。野郎が出てるってだけで買った雑誌がきっかけなんて、素直に喜べるか! 華那の部屋に行くとその気持ちは大きくなる。華那の部屋はそのモデルのポスターや雑誌で占領されつつあるのだ。

最初は雑誌が数冊あっただけだった。しかししばらく見ないうちに数が増し、今では一体どれだけあるのかわからないくらいにまで増幅している。華那の興味はそのモデルに向けられていて、彼氏である政宗は面白くなかった。そんな気持ちを振り払う意味も込めた今日のデートだったのに、早々に打ち砕かれた気分になった政宗である。

「で、どっか行きたいとこはあるのか?」
「うん、本屋さんに行きたいの」

アテもなくブラブラ歩いていたときだ。政宗が華那にそう訊ねると、こんな答えが返ってきた。瞬間、政宗の眉間に深いしわが刻み込まれる。本屋に行きたいというのは別に構わない。だが問題は、そこで何を買いたいのか、だ。物によっては正直行きたくない。新書や文庫、コミックなら喜んで行く。だがもしも政宗が考えている通りの答えだったら、行きたくない行かしたくない。

「……何を買うんだ?」
「何って、今日発売のファッション雑誌に決まってるじゃない!」

予想通りの答えが返ってきて、政宗はがっくりと項垂れた。まるで彼の頭に大きな岩でも降ってきたようだ。だが華那からすれば、政宗の都合などどうでもいいらしい。政宗の腕を引っ張り、嫌がる政宗を無理やり本屋に連れて行こうとしたのだ。

「早く! 早くしないと雑誌が売り切れちゃう!」

楽しそうな華那とは対照的に、政宗の表情は既に疲れきっていた。

「きゃー! これカッコイイかも!」

華那の手には数冊のファッション雑誌が握られており、その中の一冊を見ながら華那は甲高い声を上げていた。勿論表紙は例のモデルで、その他のファッション雑誌も全て彼が表紙を飾っていた。大事そうに抱き締める華那を見ていて、政宗が面白いはずがない。自分の中で蠢くドロドロとした醜い感情が、今にも産声を上げて飛び出しそうだ。

なんでこのオレが雑誌なんかに嫉妬してんだよ! 醜い感情の正体を知っているぶん、政宗の苛立ちは更に加速していた。この感情の正体を知らなければまだ楽だったかもしれない。この感情を不思議に思いながらも、華那を見てイライラするということもなかったはずだ。傷が癒え、瘡蓋になる。だが瘡蓋が剥がれ落ちる前にまた傷ができ、段々と膿ができあがる。政宗の心情がまさにこれだった。傷の上に傷を重ねるうちにグチャグチャになり、こうなると自分ではどうすることもできない。こうなってしまったら他人に傷を癒してもらうしかないのだ。

「……政宗、どうしたの?」

黙り込んだ政宗を怪訝に思った華那は、少し屈んで下から彼の顔を覗きこむ。普段は愛らしいと思うその表情も、今の政宗にとっては傷を抉るナイフでしかない。

「―――なんでもねえよ」
「え………?」

低く、唸るように。鋭く冷たい瞳で呆然とする華那を睨みつけた。何が起きたのかわからない華那は、遠ざかる政宗の背中を眺めていることしかできずにいた。

「ってちょっと待った!」

政宗の後を追いかけ、慌てて彼の腕を掴む。政宗は鬱陶しそうに眉を顰めるが、それでも華那は怯むことなく腕を握る手に力を込めた。

「何よいきなり! 一体どうしちゃったわけ!?」
「どうしたはお前だろうが! Dateの最中に他の野郎ばっか見られて、面白いと思うか!?」
「はぁ!? いつ私が他の野郎を見てたって言うのよ!」
「見てるだろうが、現在進行形で!」

華那の左手は大事そうに雑誌を抱えたままだ。政宗が何を言おうとしているのか理解できた華那の頭は、急速に冷やされ解凍されていく。さっきまで眉を吊り上げていたのに、今度は目がニヤニヤと逆三日月を描き始めていた。こういうとき、笑われることほど腹が立つものはない。政宗の苛立ちは更に増した。

「…………馬鹿ですか、あなた」
「なんだと!?」

冷ややかな見下した目をしている華那に、政宗はおもわず声を荒げる。が、華那は「だってさ」と、込み上げる笑いを必死に抑えながら、ゆっくりと口を開いた。

「私がこのモデルが好きで雑誌を買っているのは認めるよ。でも―――これってアンタじゃん、政宗」

パッと雑誌を見せると、確かにそこには政宗が写っていた。それだけでない、先ほど華那が眺めていたモニターの映像といいポスターといい、それら全てには政宗が写っていたのである。華那や世の女性達を魅了する現在注目の人気モデル。その名は―――伊達政宗という。

「やだ政宗、アンタ自分自身に嫉妬してたの!?」
「……………うっせ」

図星なだけに急に恥ずかしくなった。政宗の頬が若干赤く染まる。なんだか急に華那の顔が見ていられなくなって、政宗はプイッと明後日の方向を向いた。ケラケラと笑い声を上げる華那に、政宗はそっぽ向いたまま「笑うな」と口を尖らせる。

「……他の野郎って、同一人物じゃんか」
「違うんだよ、微妙に」

モデルとしての伊達政宗と、華那の前にいるただの伊達政宗。似ているようで、どこか違う。華那に向けている表情はどれも自分の気持ちで、レンズ越しに見ている表情は全て嘘で。華那の前だけではただの伊達政宗として見て欲しくて。だから華那がモデルとしての伊達政宗に夢中になって欲しくなかった。嘘の自分が好きだと言われているような気がしたから。

「でもさー……私だってこのモデルが政宗じゃなかったら、ここまで好きにならなかったよ」
「だが雑誌を買う必要はねえだろうが。ここにホンモノがいるんだぜ?」
「うっ、それは……」

なんでもハキハキと言う華那が、珍しく口ごもった。これは何かあると直感的に悟った政宗は、先ほどの表情とは一変しSな表情に早変わりする。あっという間に立場が逆転し、最初は渋っていた華那も「笑わないでね」と前置きをしてから、ゴニョゴニョと言葉を紡ぎ始めた。

「なんかさー……悔しいのよ。私が知らない政宗がいると。みんなは知っているのに彼女である私が知らないって、悔しいし負けた気分になるし。だから政宗が出てるやつは全部チェックして、張り合っているというか……ってなんで笑っているのよ?」

笑わないでって言ったはずでしょと怒る華那に、政宗は余裕の笑みを浮かべながら「言ったが笑わねえとは言ってねえぞ」と反撃をする。確かにそのとおりで、華那の表情はますます真っ赤になった。

「なんか急に馬鹿らしくなったな。お互い嫉妬してたってわけだ」

政宗は自分自身に、華那は政宗のファンに、それぞれ嫉妬していたのだ。謎が解けると滑稽で、急に馬鹿馬鹿しく思えてくる。

「で、どうしてもそれは買うのか?」

政宗が言うそれとは、勿論華那が抱えている雑誌のことである。

「当たり前! 私が知らない政宗なんてありえないんだから」

そう断言した華那の笑顔は、今まで一番綺麗だった。

完