短編 | ナノ

わたしが月を好きなワケ

窓の外では、ここ数日のどんよりとした厚い雲が覆い隠していた青空が顔を覗かせている。青空の下にいるだけで自然と心が弾んでくるのだから不思議でしょうがない。雨さえ降っていなかったとはいえ、灰色の雲の下では特に何もなくても気が滅入ってくる。やっぱり生き物は本能的に太陽を好むのだろうか? そんなことを考えながら、かすがは会社の同僚である華那と遅めの昼食をとっていた。

「どうした華那? やけに機嫌がいいな」

窓から見える青空を見て笑顔をうかべている華那を怪訝に思ったかすがが声をかけた。ここ数日どこか残念そうな顔をしていることが多かっただけに、笑顔をうかべている姿を見るとこっちまでホッとする。

「あっ、今日は久しぶりに青空でしょう? だから夜になると月も綺麗に見えるのかなって思って」
「まあこれだけ雲がなければ月も綺麗に見えるだろうが……華那は相変わらず月が好きだな」

華那が月を好きだとかすがが知ったのはつい最近のことである。少し前から華那は夜になるとそわそわするようになっていた。昼間は青空のときだとこのように機嫌が良く、逆に雨や曇りならつまらなそうな表情をよく見せる。

その理由を訊ねたら「月が見えないから残念」と言っていた。つまり月が見える天気によって華那の機嫌が変化するといっても過言ではない。それ以来かすがの中で、華那は月夜が好きという印象を抱いている。

「それにもうすぐ月の力が最も満ちる満月だし、もし雲に覆われて見えなかったら勿体無いっていうか……」
「月の力? まるで占いの世界だな。華那は占いを信じるタイプだったか?」
「ううん、占いは全く信じないよ。でも月は特別なの……」

そう静かに呟きながら再び空を見上げる華那の横顔はやけに熱っぽい。まるで月に恋でもしているようだな。率直に思ったことを述べたら、華那は曖昧な笑顔を向けるだけだった。


仕事を終え帰宅する頃になると辺りは真っ暗になる。夏場ならまだ明るいこの時間でも、冬だと既に闇に包まれていた。寒さも相まって、家路へと向かう足もどこか早足になってしまうほどだ。はぁ、と息を吐くと現れる白い湯気のようなものが寒さをより一層引き立てる。

頭上を見上げればまん丸い月が華那を見下ろしていた。一見すると満月のようだが、まだ満月ではない。たしか明日が満月だと彼が言っていたはずである。家に向かう足が自然と速くなる。いま家に帰れば何日かぶりに彼に会える。

きっと今頃華那の家でつまらなそうにしているに違いない。少し不貞腐れた顔で、ソファに寝転がっているだろう。そんな姿が容易に想像できた華那から思わず笑みが零れた。華那が住んでいるアパートが見えてきた。窓からは部屋の明かりが漏れている。アパートで一人暮らしをしている華那にとって、外から見える家の明かりは安心感と幸福感を与えてくれる。

もうすぐ、もうすぐ会える。可能なら今すぐ飛んで帰ってしまいたい。ポストを覗く時間も、階段を上る時間も、鞄から鍵を出してドアを開ける時間も、その全てが今の華那には煩わしかった。

「ただいま、政宗っ!」
「おかえり」

部屋にあるソファに寝転んでいる彼―――政宗の姿を見るなり華那はプッと笑みをうかべた。想像していた通りの姿で政宗が華那を迎えたからである。帰ってくるなり笑われた政宗からすれば非常に面白くなく、つまらなそうにムッと眉間を寄せていた。彼はソファから身体を起こすと、くすくすと笑っている華那の手首を掴んで強引に引き寄せる。政宗の逞しい胸に凭れる格好となってしまった華那の身体は自然と固くなってしまった。顔も真っ赤になっており、彼女が照れていることが手に取るようにわかる。

いつもこうだ。政宗の腕の中に捕まると、華那は身動き一つとれなくなってしまう。それなのに政宗はいつも余裕のある態度を崩さない。ドキドキさせられているのは自分だけのようで、ついつい悔しいと思ってしまうのは致し方がないことなのかもしれない。

「……ところでそんなに息を切らして、何かあったのか?」
「ううん。久しぶりに政宗に会えるって思うと、自然と急いでたみたい」
「毎日一緒にいるだろ?」

今度は華那が口を尖らす番だった。ぷぅ、と頬を膨らます。成人女性としては随分と幼い反応だが、不思議と華那には似合っていた。政宗は華那の言葉の意味を理解して言っている。楽しげな笑みをうかべている彼の表情で一目瞭然だ。政宗はとにかく人を(特に華那を)からかうのが好きなのである。

「そういう意味で言っているんじゃないのに……意地悪」
「わーってるよ。だからそんな顔すんな―――襲いたくなるだろうが」

わざとリップ音を響かせ啄ばむようなじれったいキスを何度も繰り返されると、華那の思考も薬に侵されたかのように麻痺し始める。このキスも華那をその気にさせるためわざとやっているはずだ。いつもの政宗なら問答無用で押し倒してくるからである。それでもじゃれあいのようなこんなキスも心地よくて華那は好きだった。自然と心地よさそうに目を細めてしまう。

「明日は満月だからな。一日前とはいえ力もそれなりに満ちているから大丈夫だろ」
「え、ちょっと……」

なんだか嫌な予感がしてきた華那は言葉を失った。ブツブツと文句を垂れる政宗の口は止まらない。

「満月が近いっつーのに天気が悪かったせいで思っていたほどの力を得られなかったしな。満月が過ぎると力が弱まっちまうし……今晩は足腰立たねえようにしてやるぜ?」

華那の顔が赤くなったと思えば、今度は一気に青ざめた。政宗は何事も言うからには有言実行する男なのだ。足腰を立たなくすると言えば本当にそうするに違いない。冗談じゃない、明日は折角の休みなのだ。一日中ベッドの中でじっとしている休みなんて嫌すぎる。

「というわけだ―――今晩は覚悟しとけよ?」

先ほどまでのキスとは違う、噛みつくような荒々しいキスだった。息ができない。させてくれない。政宗のことしか考えられない、感じられなくさせられてしまう。政宗以外のことはもうどうでもいい。そんなふうに思わされる政宗のキスはまるで毒のようだ。何も考えられなくなりつつ頭の片隅で薄らと思いながら、華那の思考は月明かりが満ちる部屋の中に堕ちていった。


「あ、牛乳が切れてる……」

腰に残る鈍い痛みと格闘しながら華那は台所に立っていた。朝ごはんを作るためである。しかし冷蔵庫を覗くと朝食には欠かせない牛乳がない。昨日仕事帰りに買おうと思っていたのに買い忘れたせいだ。この時間ではまだスーパーは開いていない。少し高いが近くのコンビニで買おう。

「政宗、ちょっとコンビニに行ってくるね。牛乳が切れちゃってて……」

ベッドの上で未だ夢現の政宗に声をかけると、鞄の中から財布を取り出し玄関に向かう。靴を穿いていると、政宗が華那の背中を小突いてきた。

「オレも行く。Bodyguard代わりだ」
「ボディガードって……もう朝だし大丈夫だよ?」

政宗の心配性は相変わらずだ。昼夜問わず華那が出かけるときは必ずといっていいほど引っ付いてくる。

「朝だろうが昼だろうが夜だろうが関係ねえよ。華那はどんくさいからな」

実際どんくさいと自覚しているだけに言い返せなかった。

「もうすっかり冬ね。政宗はいいなあ、温かそうで」
「そうか?」

冬の朝はとにかく寒い。日曜の朝ということもあり、普段は通勤、通学で賑わうこの道も今日は静かだ。華那は寒さで身を縮めているのに、彼女の横を歩く政宗は平然としている。

「―――あら、音城至さん。おはようございます」
「あ、大家さん。おはようございます」

朝の運動の帰りなのか、ジャージ姿の大家のおばあさんが声をかけてきた。人の良さそうな和やかな笑顔は、見ているこっちまで和やかな気分にさせてくれる。おばあさんは政宗の前で少し屈むと、彼の頭をゆっくりと撫でた。

「マサムネもおはよう。ご主人様のボディガートかい? 立派だねえ」

政宗は返事の代わりに尻尾を振って見せた。それを返事と受け取った大家さんは華那に向き直る。

「それにしても、いつ見ても立派な犬だねえ。綺麗な茶色い毛並みといい強い意志が宿った左目といい、本当に立派な犬っころだよ。こんなにも大きな犬を飼いたいって相談されたときは驚いたけど、他の人達と問題はない様子だし、随分と利口な犬なんだねえ」

華那が住んでいるアパートはペット可だが、やはりこれほど大きな犬だと本当に大丈夫か不安に思った華那は一度大家さんに相談していたことがあった。大家さんもこれほど大きな犬とは思わなかったらしいが、二つ返事で了承してくれた。今では政宗のことを気に入っている様子である。

大家さんと別れてからしばらく無言で歩くこと数分が経過した。辺りには人の姿はない。最初に口を開いたのは華那だった。

「大きな犬、だって」
「ま、オレは犬じゃなく狼だからな」
「それも月夜には人間に変身できて、人語を話せる狼、だもんね」

政宗は犬でも、ましてや普通の狼でもなかった。政宗は月が出ている夜にだけ人間にできる狼なのである。月の満ち欠けによって人間でいられる時間はバラバラだが、平均的に明け方までは人間の姿を保てる。太陽が出ているときは普段の姿、狼に戻っているのである。

そのため政宗とは何かと訊かれれば、狼としか答えようがない。ただ月夜には人間に変身できるという特異体質なだけで、彼はれっきとした狼なのである。人間と狼。決して交わることがない種族という垣根を越えた恋人。それが華那と政宗なのだ。

「今日も良い天気ね……満月見られるといいな」

月に恋しているんじゃないの、かすがちゃん。私が恋しているのは、政宗だけなの――…。

月が出ている夜にだけ政宗との逢瀬を許されている。だから華那は月が好きだった。

完