リクエスト | ナノ


彼の日常と彼女の日常
始まりは、ただなんとなくだった。素知らぬ顔でさらっと洋書や英字新聞を読んだり、会話の節々で聞こえるやたらと流暢な英語の発音のわけが気になって、華那は政宗にその理由を訊ねてみたことがある。彼の返答は昔外国で暮らしていたことがあるからという、特に驚くようなものではなかった。将来伊達グループという世界屈指の企業を背負って立つ男なのだ、むしろ英語くらい扱えなくてはいけないだろう。

ならそんな男の妻となった自分はどうだ。外国で暮らすどころか、海外に行ったことさえ皆無。当然英会話なんてできっこない。外人に話しかけられたら頭が真っ白になり、言葉で気持ちを伝えることができないため、最終的にジェスチャーゲームになることは避けられない。

情けない。とにかく情けないのだ。自分に政宗の仕事のサポートができるなんて思っていない。仕事のサポートは小十郎の務めだ。そのあたりはきちんと弁えている。華那にできることは政宗の健康管理。きっとそれは自分にしかできないことだ。それはそれで誇らしいことなのだと思う。思うのだが、英会話どころかろくに英語も読めないというのは如何なものだろう。政宗の妻として、せめて英語を話せるようにはなりたいと強く思う。そこには夫婦揃って英語を話せるなんてなんかかっこいいじゃない? などという俗っぽい思惑もあったりするのだが。

「……嘘だろ、それ」
「嘘じゃないわ。ただ英語を勉強しようと思った動機の、一割程度ってだけよ」

最近暇なときには英会話の本をよく読んでいる華那の姿を不思議に思った佐助は、ある日のお昼休憩中、彼女にそのわけを訊ねた。華那の答えに佐助は眉を顰め、すぐさまその理由が本心ではないことを見抜いたのである。華那も佐助にはバレるとわかっていたのか、動揺する素振りさえ見せず、涼しい顔を崩さない。

「じゃあ残りの九割は?」
「政宗ってね、普段からよく英語で話しかけてくるの。外国で暮らしていた名残なのかな。でもあたしには政宗が何を言っているのかサッパリなの悔しいの!」

政宗が何を言っているのかわからないため、彼が英語で話したとき華那は嫌でも黙ることしかできない。それが人を馬鹿にしたような内容なら、いつまでも黙っているわけにはいかない。だが言い返そうにも何を言っているのかわからないため言い返すことができない。やられっぱなしは嫌だ。ただでさえ華那はとても負けず嫌いな性格をしている。そろそろ政宗にひと泡吹かしてやりたいと常々思っていた。

「で、その結果が英語の勉強ねえ。本当に負けず嫌いだな華那は」
「最終目標は政宗に英語で言い返して負かすことよ! それに……政宗は忙しいからなかなか一緒に過ごす時間がなくて、その……」
「寂しい?」
「う、うん……」

ただでさえあまり一緒になれることが少ないのだ。少ないコミュニケーションの中で、自分が政宗の言っていることを理解できれば何かが変わるかもしれない。そんな気がしたのである。わざわざ勉強しなくてももっと手っ取り早い方法は、政宗に英語で話すなと言えば済む話なのだが、負けず嫌いの華那には最初からその発想はない。政宗にできるのなら自分もできる、その程度の考えしかなかった。

「ならそんな華那に俺様から一言アドバイス。今から言う英語を覚えときな。で、身の危険を感じたときに言ってみろ。面白いことが起きるから。Don't seduce meだ。いいな?」
「どんと……これってどういう意味?」
「意味は……秘密。社長に直接訊いてみることだな」

そう言って佐助はにやりと笑った。佐助が何かろくでもないことを考えているときによく見た笑い方である。現に佐助は大声で笑いそうになるのを必死に堪えていた。華那は妙なところで純粋だ。特に見知った相手だとあまり人を疑うという真似をしない。だからこそからかいがいがある。政宗もきっと、そこが楽しいに違いない。

自分が言ったこの英語の意味を政宗に聞けば、華那は顔を真っ赤にさせて憤慨するだろう。だが佐助には彼女が政宗に直接聞くという真似をしないと断言できる。負かしたいと思う相手に何かを訊ねるというのは、負けず嫌いの彼女なら絶対にしないからだ。華那は佐助が言ったDon't seduce me!を何度も繰り返し発音しながらも、どこか腑に落ちない気分だった。


次の休日は珍しく政宗もオフだったようで、久しぶりに夫婦揃っての休日となった。休みの日はお互い家でのんびりしながら過ごすことが多い。外出すれば前回のように社員の誰かに見つかる可能性もあるし、なによりただでさえ二人は一緒に過ごせる時間が少ないだけに、休みの日は可能な限り近くにいたいためか、どちらもどこかへ出かけようと言おうとしなかった。

朝のうちに一通りの家事を済ませた華那はソファに座るなり、嫌な汗を額から流しながら日常英会話の本を読み始めた。最初のうちは一生懸命読んでいた。だが読み進めるにつれてその内容の難しさに、華那の記憶力が悲鳴を上げていた。何も書かれていること全部を覚えようとはしていない。まずは簡単なものから、それとどんな会話でも使えそうな便利なものをチョイスして覚えようと頑張っている。苦い顔をしながら本を読み、且つ一人で何やらブツブツ呟いている華那が怪しかったのか、政宗が傍に寄ってきた。華那の隣に座り、彼女が読んでいた本を覗きこむ。

「英会話の本なんか読んでどうするんだ?」
「えっ、いや、その……あたしも英語で話せるようになりたいなーと思って。ほら、今の世の中話せたほうが何かと便利じゃない」

まさか政宗ともっと色々な意味でコミュニケーションをとりたいから、なんて理由を、本人の目の前で言えるはずがない。政宗は自分に余裕があるときはよく英語で話しかけてくる。逆に切羽詰まったとき、真剣なときなどは英語で話す回数が減る。最近少しずつであるがわかってきたことの一つだ。

「便利、ねえ。その点は否定しねえけどな」
「でしょ?」

政宗に余裕があるときなので、傍にいる華那は機嫌の良い政宗によくからかわれてしまうことが多い。政宗曰く、華那はからかうと面白いらしい。華那からすれば面白くないことこの上ない。ただそう言うときに限って政宗はとても優しい目をしていることが多く、なんとなくだが視線が甘く感じることがある。華那は政宗のその目が苦手だった。あの目で見つめられると気恥かしくなって、政宗の顔が直視できないからだ。

「英会話の本なんか読んでたってちっとも上達なんかしねえぞ。上達するには英語で話すのが一番の近道だぜ」

そう言って政宗は華那の肩を掴み、引き寄せる。

「そもそもなんでオレを頼らねえんだ? わざわざそんな本を買わなくてもオレに頼めばいいだけの話だろ?」

政宗に内緒で英会話を勉強して、政宗の英語を英語で返すという真似がしたかった。まさか英語で返されるとは思わない政宗は大層驚くことだろう。想像しただけで自然と笑みがうかぶ。驚かそうと思っている相手に頼ってはこの計画は意味を成さない。英会話を教えてなんて言えるはずがなかった。

だが自分を頼ってくれなかったという思いのせいか、政宗の声は若干不機嫌だ。理由を知らないので当然といえば当然の反応に、華那はどうするべきかと思案する。政宗にバレてしまった今、計画も何もない。負けず嫌い特有のプライドをなんとか咀嚼し、ここは今からでも教えを乞うべきか。華那は読んでいた英会話の本を政宗に渡すと、英語を教えてほしいと頭を下げる。

「あたしの日常でよく使えそうな英語でお願いします」
「よし、なら手始めに……この辺からやってみるか。いいな、ただ言うだけじゃ駄目だ。ちゃんとその言葉の意味を理解しろ」
「は……はい?」

英会話の本をペラペラと捲り、とあるページで捲っていた手を止めた政宗は、始めるぞと言うなり、流暢な英語で本に書かれている言葉を読んでいく。

「じゃ、いくぜ。Roll over on your back」
「え、えっと、Roll over on your back?」

たどたどしい発音でそう言うなり、政宗は華那の肩をそっと押し、ソファの上に仰向けに寝かした。突然のことで華那は抵抗すらできずされるがままだ。天井を見ながら、華那は「何するの!?」と声を荒げる。

「言っただろ。意味を理解しろって。Roll over on your back……意味は仰向けになって、だ」
「あ、仰向けになって……」

あたしは日常で使えそうな英語を教えてほしいと政宗に頼んだはずだ。この仰向けになってという意味のRoll over on your backは、果たして日常でよく使う言葉なのだろうか。まあ仰向けになってと言うときも、いつかあるだろう。腑に落ちないながらも華那は納得しようと試みる。

「次は……Squeeze my tits」
「Squeeze my tits……?」

華那がそう言うなり、政宗は服の上から彼女の胸に触れ、そのまま躊躇なくさわさわと揉み始めた。華那は顔を真っ赤にさせて、涼しい顔をしている政宗をキッと睨みつける。

「Squeeze my tits……意味は胸を揉んで、だ」
「揉ん……ちょっと政宗、あんたあたしに何を教えようとする気だコラ! ンッ、そんなに触らないでぇ……!」

拙い、この流れは非常に拙い。華那はこれから自分の身に起こるであろう危機に身体を強張らせた。ここまでされて政宗の目的に気づかない華那ではない。間違いなく政宗は、華那がおもわず凝視したあのページを見つけたに違いないのだ。英会話の本を買って帰ったその日の晩のことだった。まずは一通りのページに目を通そうと、ペラペラと流し読みをしていたときだ。あるページに華那の目は奪われた。そこに書かれていたのはベッド英会話という文字。内容は……文字通りのものだった。思い出しただけでも赤面できる。こんなものまで書いてあるなんて思ってもいなかったのだ。たしかにある意味日常といえば日常だが、いやそれでも……と華那はそのページを見なかったことにしたのである。

「政宗、その項目はいい! その項目はすっ飛ばして他のこと教えて! その項目は一番縁がないと思うからっ!」
「そんなことねえだろ。覚えていれば何かと便利だと思うぜ?」
「……Don't seduce me! Don't seduce meよ、政宗!」

やけくそ気味に華那が叫ぶと、胸を揉んでいた政宗の手の動きがピタリと止まる。身の危険を感じたらこれを言えばいい。以前佐助がそう言って華那に教えてくれた言葉だ。政宗の動きが止まったことで、華那は心の中で佐助に感謝した。意味はわからないが、華那が何を言ってもやめなかった政宗が、この言葉一つで動きを封じられたのだ。

「Don't seduce me……どこでそんな言葉を覚えたんだ、お前。だが意味を理解しているわけじゃねえ……そうだろ?」

言うなり政宗は止まっていた手の動きを再開させた。華那は驚きから目を丸くさせる。

「やぁ……! Don't seduce meって言ったのに、なんでやめてくれないの?」
「そこまで言うなら教えてやるよ。Don't seduce meの意味は、私を誘惑しないで、だ」
「誘惑……」

佐助に騙されたと気づいた華那は顔を真っ青にさせた。真っ赤になったり真っ青になったり忙しい奴、と思いながらも政宗はこれだから華那は面白いと内心満足していた。

「そんなことを言われたら、やめられるわけなんてないよな? それに、オレともっと会話したいからっていう理由で英会話を勉強しようとしているいじらしい奥さんに、オレからの御褒美だ」
「ち、違う! 政宗のためじゃない!」

図星を付かれた華那は顔を真っ赤にさせた。本当に忙しい奴だ。その顔が全ての答えだということに、彼女は気づいていないのだろうか。しかしいい加減煩くなってきた。華那にはそろそろ黙って大人しく抱かれてほしいものである。政宗は彼女を大人しくさせるため、華那の首筋に顔を埋め甘い口付けを落とした。

完 

70万筆頭企画/沙紀さまへ
政宗夢/あた婚!の番外編
頂いたリクエスト内容は、本編の和解後以降の2人の日常で、休日でのふわふわ雰囲気。ソファーでいちゃらぶ。夢主も英語で会話をする。台詞「Don't seduce me!(私を誘惑しないで)」、というものでした