リクエスト | ナノ


信玄さんちの女の子

猿飛佐助は思っていた。暑苦しい。毎度のこととはいえ本当に暑苦しい、と。目の前でほとばしる漢達の汗、汗、汗。佐助はあえて男を漢と例えたが、この光景を見る限りそれは正しいだろうと思える。男では生温い。男という漢字ではこの暑苦しさは伝わらない。

佐助の目の前では二人の男が殴り合いを続けていた。お館様、幸村と互いを呼びながら拳と拳をぶつけあっている。よく拳で語ると言うがこれはその域を超えている……ような気がする。これでは何も伝わらない。ただ痛いだけだ。が、当人同士には伝わる何かがあるのかもしれない。いやいやそれでも、と佐助は思う。少なくとも佐助はこのような手段ではなく、手っ取り早く口で伝えてほしいと切に願っていた。どこの世界に殴られて喜ぶ奴がいる(いや実際目の前にいるけれど! あれは数えちゃ駄目でしょ)。

「いいなー……」

隣から聞こえた羨望の声がそんな佐助の考え事を強制的に中断させる。あれをいいと思う人間がまだいたのか。隣に目をやるとそこにはちょこんと体育座りをしている少女が一人。

「なんだ華那かよ……てかあれのどこがいいんだ?」

隣で佇む少女の発言ならば気にすることもない。彼女も幸村と同じくらいお館様こと武田信玄に心酔している。幸村と佐助、そして華那は小さい頃からこの武田道場に通っているが、佐助だけは未だにこの殴り合いのよさが理解できずにいた。

「だって幸村はちゃんと殴られているんだぞ? 羨ましいじゃんか。わたしはお館様に殴られたことがない」

華那が信玄に殴りかかろうとすれば、信玄も拳を突き出してくる。が、信玄の拳が華那の身体に当たったことは一度もない。信玄が繰り出す拳の衝撃波で華那がいつも吹っ飛ばされるためである。尤も信玄も最初から華那を殴るつもりはなく、わざと吹っ飛ばしているだけなのだが(今のところそのことに気づいているのは自分だけのようなので黙っておく)。

「拳を突き出すだけでわたしを吹っ飛ばすんだ。やはりお館様は凄いな! そうは思わないか佐助?」
「いやまあ、あの人は色んな意味で凄いけどさ……」

信玄のことで瞳を輝かせる華那を見ていると本当に彼を尊敬しているんだなと思う。そういうところはまるで女版幸村だ。顔はまあ可愛い分類に入るのに、中身がこれじゃあなーと佐助は常日頃思っている。なにしろ華那はまるで女の子らしくないのだ。小さい頃からこの道場に通っているのだから無理もない。彼女の精神構造に多大な影響を与えたのは間違いなく信玄と幸村だ。こんなふうになってしまったのも頷ける。幸村と唯一違う点を挙げるなら、彼女は甘党ではないというところぐらいしか思いつかない。尊敬する信玄の話をしているときなど本当の兄妹のように見えるときすらある。

二人でそんな話をしていたら信玄と幸村の殴り合いも落ち着いたらしく、幸村が大の字で地面に倒れ込んでいた。幸村は今日も信玄を超えることができなかったらしい。対する信玄はがっしりと仁王立ちだ。

「よし、今日こそわたしもお館様と拳を交えてみせるぞ! おやかたさばああああああ!」
「おいちょっと華那!?」

佐助の制止も聞かず、華那は信玄に向かって駆け出した。全体重を右に集中させ、渾身の一撃を信玄に叩きこもうとするが―――。

「甘いわあああ!」

信玄が繰り出した強烈な一撃が、華那の身体を紙のように軽く吹っ飛ばした。派手に後方へと吹っ飛ばされた華那の身体が地面に叩きつけられる。あまりの衝撃に息ができない。華那の口から拉げたような声が漏れる。慌てて佐助が華那の傍へ駆け寄った。吹っ飛ばされた衝撃で髪が彼女の顔にかかって表情が窺えない。気のせいか、少しだけ影のようなものを佐助は感じとった。だがそれは一瞬の出来事で、彼女は「今日も駄目だったかー!」と豪快な笑顔を浮かべている。あれは佐助の気のせいだったのだろうか。

「お、おい。大丈夫か華那?」
「いてて……わたしは大丈夫だ。いつものことだからな」

痛いと言いながらも華那は既に起き上がっている。普通の人間ならあの拳の衝撃を食らったらなかなか起き上がれないはずだ。僅かな時間で立ち上がれるほどには華那も頑丈である。これも武田道場で鍛えた成果の一つだろう。随分と打たれ強くなったものだ。信玄と幸村、そして華那の暑苦しいやりとりを眺めながら、佐助の一日は今日も過ぎていった。

***

一体いつになったらわたしはお館様と拳を交えることができるのか。武田道場を後にした華那は、道場近くの広場でこのようなことを考えていた。いつだってそうだ。殴りかかろうとすれば華那の拳が信玄に届くよりも早く、彼の拳から繰り出される衝撃波で吹っ飛ばされる。つまりあの衝撃波で吹っ飛ばされないようにしなくては、永遠に自分の拳が信玄には届かない。衝撃波で吹っ飛ばされる原因は嫌というほどわかっている。だがその原因は華那にはどうすることもできない。

「わたしが女だから、か……」

男よりも一回りも小さいこの身体。体力、力とも男に劣る。衝撃波で吹っ飛ばされるのはウェイトがない証拠だ。ウェイトさえあれば踏ん張ることだってできる。こういうときは幸村や佐助が心底羨ましくなる。昔の幸村は女だからという理由だけで本気で相手してくれなかったし、佐助はいつも嘘か本当かわからない冗談ではぐらかす。

「そういえば一人だけいたな。女だからとか関係なく一対一で勝負した男が」

出会った瞬間、問答無用で喧嘩を吹っかけたら受けて立った珍しい男。その男のことは以前から知っていた。姿を見たことはなかったが幸村がしょっちゅうその男のことを熱く語っていたから、どんな男なのかはある程度知っていた。幸村の話からどんな巨漢かと想像していたが、本物はなんてことはないどこにでもいそうな男だった。体格などは幸村と似ていたし、顔立ちだって並の男では歯が立たないくらいかっこよかった。

だがあの幸村がライバルとする男。腕っ節も相当なものだろう。幸村と勝負しに道場を訪れたが、そのとき偶々幸村は道場にいなかった。対戦相手がいないのでは意味がない。道場を去ろうとした男に華那は咄嗟に声をかけた。華那を動かしたのはちょっとした好奇心。華那の言葉に立ち止まった男に、彼女は問答無用の一撃を繰り出した。男は凄まじい反射神経で華那の攻撃をかわすと、お返しを言わんばかりの足蹴りをお見舞いする。華那も間一髪のところで男の足蹴りをかわした。お互い距離をとり、対峙する。男はこの状況が面白いのか、薄らと笑みをうかべながらヒュッと口笛を吹いた。

「おいおい、いきなりなんの真似だ?」
「お前、伊達政宗だろう」
「Yes そういうオメーは音城至華那だな。この暑っ苦しい道場に通う女なんてどんな奴だと思っていたが……ま、顔は悪くねえな」

頭から爪先まで品定めをするような目で見られるとどこか居心地が悪い。華那は不快感を露わにした。

「お前、強いんだろう? わたしとも手合わせしてくれないか?」
「この俺の攻撃をかわすたァなかなかじゃねえか。いいぜ、その喧嘩……買ってやる」

躊躇いもなく買ってやると言われた華那はおもわずポカンとしてしまった。言いだしておいて何だが今までこれほど真っ直ぐ、吹っかけた喧嘩を買ってくれる男はいなかったのだ。女という理由だけで男達は何かしら理由を言って相手にすらしようとしない。自分が女ごときに負けるはずがないと思っているのか、それともその逆か……。

だが伊達政宗は違った。彼は女と男というつまらない理由で人を判断しないらしい。それがこれほどまでに嬉しいことだなんて今まで知らなかった。華那の顔が自然とにやける。嬉しさと興奮で華那の心臓は高鳴り続けた。拳を交えてみて、政宗の強さを思い知らされた。あの幸村がライバル視するはずだ。強いなんてものではない。強いという言葉では生温いと思うほどだった。政宗の攻撃は一切の迷いがない。迷いがないだけに真っすぐで速い。的確に相手の死角に狙いを定めて強烈な一撃を叩きこんでくる。

「うわっ!?」

華那の僅かな隙をついて政宗の重い一撃が彼女の顔の傍をかすめた。ヒュッと風の鳴る音が耳に届く。堪らず尻餅をついてしまった華那が顔を上げると、拳を突き出した政宗がじっと華那を見ている。少しでも動こうものなら政宗の攻撃が華那を襲うだろう。こうなってしまった以上結果は見えた。

「―――参った」

両手を上げ降参のポーズを取ると、政宗から発せられていた鋭い気配が急速に消えていくような気がした。政宗は右手を差し出し、3name2#に立ち上がるよう促した。本当は自力で立つことはできたのだが、ここは素直に感謝するべきところだろう。少し迷いながらも華那は政宗の右手に自分の手を重ねた。

「しかしこのオレに喧嘩を吹っかけるたァ、なかなか見どころがあるんじゃねえか?」
「ふん。わたしはお前に負けた。負けることがこれほど悔しいなんて想いも久しぶりだ。やっぱりわたしは弱いんだな。女だから、なんていうつまらない理由を抜きにしても」
「強い、弱い。勿論それも大事だが、一番大事なのはそいつと戦って面白いか面白くねえかだろうが。少なくともオレはお前とやり合って楽しかったぜ?」
「……本当か?」
「Yes もしもう一度やりたいって言うなら、オレは喜んでやってやるよ」
「な、ならっ! なら明日も! その次の日も!」
「Hey 少し落ち着けって。いいぜ、何度だってやってやるよ。約束だ」

その約束は今もちゃんと守られている。政宗が武田道場に来たり、華那が政宗の屋敷に押し掛けたりと状況は様々だ。まだ一度も政宗に勝てたことはないが、政宗と手合わせするようになってから着実に強くなってきていると思えるようになった。政宗と戦っているときだけは、女だからというつまらない意地を捨てることができる。それが凄く嬉しくて、そしてこれ以上ないというくらい楽しかった。特にこういう気分が落ち込んだときには政宗と一戦交えるに限る。華那はケータイを取り出し政宗に電話をかけた。喧嘩のお誘いである。

「政宗! 今から一戦どうだ?」
「今からだと? オレは別に構わねえが……」
「なら今から屋敷に行く!」
「ちょっと待て! あのなあ……そっちには真田もいるだろ。身体を動かしたいのなら真田でもいいんじゃねえのか? 今日はもう遅いんだぜ」
「いや、幸村ではだめなんだ。わたしは政宗がいい。というか、政宗じゃなきゃ嫌だ」

政宗に勝つ。これがわたしの目標なんだ。しかしそんな華那の想いとは裏腹に、電話越しの政宗からの返答がない。一体どうしたのかと訊ねたら、「深い意味はねえんだな?」と、何かを念押しするような答えが返ってきた。深い意味とは一体なんなのか。政宗に勝つのが目標なのに、そこに深い意味も何もあったもんじゃない。

「わーったよ。ただしやるからには手加減なんて生温い真似はなしでいくからな。覚悟しとけよ?」
「ふん。わたしだって今日こそお前に勝ってみせるからな!」

電話を切ると、それまで華那の中にあったモヤモヤとした霧のような気持ちはすっかり晴れ渡っていた。華那は気合を入れ直すため、両頬をペチンと叩いた。今日こそ勝ってみせるぞと想いを胸に、華那は夕暮れの道を駆け出していった。

完 

50万筆頭企画/汐郷海音様
政宗現代夢
汐郷海音様に考えて頂いた夢主の設定は、夢主の設定:男っぽくて筆頭と常に戦っている感じ(戦うというより喧嘩)。筆頭も夢主も、お互いのバトルを楽しみにしている。幸村とは甘いもの以外に関しては仲間意識を持っていて、幸村と一緒に信玄公に「おやかたさばああああああ!」と殴りかかる、暑苦しい子。女である自覚がなく、むしろ男より一回り小さい自分の体をいつも不満に思っているが、そのような不満や悩みを表に出そうとしない。……というものでした