リクエスト | ナノ


迷宮ミラージュ

何をするでもなく苛々する。別段これと言って気分を害するような出来事には遭遇していないし、対人関係で腹が立つことがあるわけでない。でも苛々する。それも決まって、大好きな彼女の声を聴覚が捉えたとき。大好きな彼女の姿を視覚が捉えたとき。愛しい彼女に会うと、妙に苛々する。その理由が、オレには分からなかったんだ―――。

***

そして今日も苛々する。朝、昼、夜と始終、オレの精神は晴れる気配を見せない霧に覆われる。それはまるで出口の見えない迷路のよう。考えれば考えるほどグチャグチャになり、さらに迷宮の罠に落ちる。そしてオレはその罠に嵌ってしまったらしい。情けないが、仕事が手に付かない。食事を摂ろうという気が起きない。夜もろくに眠ることができず、ここ何日かは一睡もしていない―――重症だった。

「………で、その分の仕事が俺に回ってきた、と」
「………煩ェ、黙ってさっさとやりやがれ」

仕事を溜めることを嫌う彼が珍しいこともあるものだと、山積みにされた書類を受け取りながら成実はふと思う。最初は「これは弱みに握るチャンス!?」とも思ったのだが、何しろ相手が政宗だということでこの計画は心の中だけで留めておくことにした。

政宗が仕事を溜めることを嫌うようになったのはいつからだろう。彼は昔から仕事熱心だったわけではない。勿論普段から経営している会社が、倒産や赤字にならないくらいには真面目にしていたが、ここ最近のようにずっとデスクに向かっていることはなかったのである。

絶対に今日中に終わらせないといけない仕事はこなしていたが、別に急がない仕事は彼の気分の赴くまま、ぞんざいに後回しにすることなど多々あった。しかしそれがいつからか、政宗は急に真面目に仕事に取り組み始めた。残業もしたくないのか、どんなに仕事量が多いときでも定時にきっかり終わらせている。その理由はただ一つ、政宗の最愛の妻である華那だ。

長年付き合ってきた恋人と最近になってようやくゴールインを果たし、彼女と一分一秒でも一緒にいたいがために、政宗は一日の仕事をその日のうちに全て、時間内に終わらせているのである。政宗曰く、残業なんかしたら華那との夜の時間が減る、とのことだ。

しかしそれがどうだ。仕事はどんどん溜まっていき、こうして休日にまで仕事をやる羽目になっている。それも会社のオフィスではなく、伊達組の屋敷で、だ。休日なので伊達組の屋敷で仕事をやるほうが人も使えて便利だと政宗は考えたに違いない。現にこうして成実が政宗に扱き使われる羽目になっているし。

仕事を半ば強制的に押し付けられ、唯でさえ自分もたくさんの仕事を抱える身なので不満もあるわけで。政宗に呼び出された成実が彼の部屋に向かうとき、成実は政宗に負けないほどの皺を眉間に作った。

だがそれも最初だけ。なんだかんだ言いつつも自分の仕事は自分でやる政宗だけに、腹が立つを通り越して心配してしまったのだ。そこで何故これほど仕事が溜まっているのか理由を訊ねたところ、彼は躊躇いがちにこう言ったのだった。華那を見ていると妙にイライラする、と。

じーっと見つめられて政宗は居心地が悪くなったのか、少しだけ視線を逸らす。すると窓の外に広がる憎らしいほどの青空は目に入った。中庭では笑顔を浮かべている華那の姿がある。やはり彼女の笑顔はこんな青空の下が良く似合う。いや、華那の笑顔ならどこでも似合うが………などと内心で少し惚気てみたり。

そんな華那が微笑ましいと、口元に薄っすらと笑みを浮かべて彼女を見ていた政宗だがすぐさま彼の眉間には深い皺が刻まれた。華那は一人ではなかった。彼女の隣には見知った男が一人、なにやら楽しそうに話し込んでいる。

「なーんだ、小十郎じゃん」

急に不機嫌オーラを放ち始めた政宗を怪訝に思い彼の横に歩み寄った成実は、彼が見ているものを確認すると同時に溜息をついた、というか呆れた。政宗が見ていたもの、それは談笑している華那と小十郎の姿だった。昼下がりの午後、陽の光を浴びて幸せそうな二人。傍から見れば、まるで恋人同士の長閑な光景である。

成実はそんなことを内心で思いつつも、絶対に声に出してはならないと細心の注意を払っていた。うっかり声に出してみろ、死ぬぞ。いや、この場合……殺される? 命が幾つあっても足りなくないか?

「あのなー……こんなこと言いたかねえけど、政宗は華那と結婚したんだぜ? 独占欲丸出しもわかるけど、不安になることもねえじゃん?」
「An?」

政宗の眉間の皺がさらに一本増えた。成実は慌てて口を押さえるが時既に遅し。まずい。今日あたり死ぬかな、俺? お父さん、お母さん。息子の先立つ不幸をお許しください。

「一つ訊くけど華那を見ていてイラッとしたとき、華那の傍に誰かいなかった?」
「……そういえばいたな」

政宗が華那を見て苛々するときは必ずと言っていいほど、彼女の隣に誰かがいる。それは男であったり女であったり。ただ、彼女が自分以外の誰かといるときに限って苛々する。

「ったく、新婚野郎の惚気ほどムカつくモンはねえよな」
「なんだと?」
「それってただの嫉妬じゃん。あと新婚特有の独占欲? 極端な話だと自分以外の男と話すんじゃねー……みたいな」

何気なく言った成実の言葉に、政宗は絶句した。彼女が自分以外の誰かに笑顔を向けているのが気に入らない。彼女の鈴を転がしたような声を自分以外の誰かが聞いているのが気に入らない。彼女の身体に自分以外の誰かが触れるのが気に入らない。

「昔っから独占欲が強いとは思っていたけど、結婚したんだからいい加減安心しなよ。少なくとも華那は政宗以外の男に興味はないと思うよ、俺は。あ、でも華那には今の気持ちを正直に話してみたら? 政宗がやきもちを焼いているって知ったら華那の性格だと確実に喜ぶ」
「……言えるか、そんなこと」

大の男が、恋人時代ならまだしもようやく夫婦になったのに、未だに嫉妬だなんて。いくら相手が喜ぶからと言って、こればっかりはみっともなくて言えそうにない。彼女が今笑顔を向けているのが小十郎なので、この苛々もいつも以上。とりあえず。引き離しにでも行くか。政宗は少し頬を赤らめながら、足早に部屋を後にした。

完 

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政宗夢/幼馴染は伊達組筆頭シリーズ
頂いたリクエスト内容は幼馴染は伊達組筆頭シリーズ未来編で新婚時代のお話でした