トリップ連載 | ナノ




はらはらと夜空に桜の花弁が舞う。月光に照らされるその光景は幻想的だった。道行く者全てがその光景に足を止め、おもわず我を忘れて魅入ってしまうほどである。そしてここにも、この光景に魅入られた女がいた。女は一本の木の枝に腰掛け、口元に薄っすらと笑みを浮かべている。ゆっくりと夜空に向かって手を伸ばせば、一枚の桜の花弁が舞い落ちた。

「綺麗………」

ふと、突風が女の黒髪をさらう。反射的に身を竦め、背中を預けていた大木にしがみ付いた。突風が止むと女は立ち上がり、頭上で輝く満月に視線を移す。大木に預けていた一本の刀を手に取ると、静かに抜刀し目の前に掲げた。

それは特殊な刀だった。刃の部分が青玉石で造られているのである。そのため光に照らすと青い輝きを放つかのように見えた。月光に照らされ、その輝きからは神秘的なものさえ感じられる。ヒュッと空を斬ると、女の周りを桜の花弁が舞った。桃花色の花弁が舞う中に佇む女の姿はやけに妖艶に見える。

「………あれは?」

女は遠くの空が焔色に染まっているのを視界に捉えた。夜空でもくっきりと現れているのは、天高く昇っていく黒煙である。それは見る者の心を不安にさせる。聞こえもしないはずなのに、人々の悲鳴や断末魔が聞こえてくるようだ。耳を塞ぎ目を覆いたくなるような光景が脳裏に焼けつく。

あれは自然的に発生した火事ではない。女はすぐさまそう感じた。あれは人為的に起こった火事である。つまりあそこで戦が行われているか、夜盗が物欲しさに村を襲っているかのどちらかだ。辺りはすっかり夜更け。こんな時間に行われる戦となると、夜襲か。賊も好機とばかりに行動を起こす時刻である。

「……行かなくちゃ」

刃を鞘に仕舞い、女がすぅっと息を吸うと、桜の香しい匂いが胸いっぱいに吸い込まれる。戦だろうが賊だろうが、人々の血が流れるところに女は赴かなければならなかった。人々の血が流れる場所に行けば、目的を達成するための手がかりを得ると踏んでいたからである。女は勢いよく跳躍し、その姿を満月だけが映し出していた。

全てはあるべき時間の流れを正すために。それが女に与えられた使命なのだから。

戦というにはあまりに御座なりで、賊というには欲が感じられない。赤い炎が全てを包み込む村に訪れた女は、直感的にこう感じた。この地に降り立ってまず感じたものは、この鼻につく臭いである。木々が燃える臭いの他に、とてもではないが我慢できない臭いが含まれていたのである。女はそれが何かすぐにわかった。肉が焼ける臭いと血の臭い、どれも人間から発せられているものである。否、人間だったというべきか。

しかし異質なのは、この地には悪意が満ちていないこと。こんな辺境の村で戦が起こるわけがないし、夜盗の仕業としても金品が一つも奪われていないのだ。ここに充満しているものは純粋なる快楽。人を斬り殺すことを至福のものとする、純粋故に研ぎ澄まされた殺意だった。

先ほどから木々が燃える音しか女の耳に届かない。人々の逃げ惑う悲鳴が聞こえないということは、生きながらえた人々は既にこの地を離れたか。それとも逃げ遅れ、この炎と研ぎ澄まされた殺意によって朽ちてしまったのか。どちらにせよ、人の気配がないことには変わりない。

………無駄足だったみたいね。あーあ、また無駄骨か。

女の足が炭と化した木々を踏むと、パキっと乾いた音がする。人の気配がないのであれば、もはやこの地に用はない。女は正義の味方ではないのだから、誰かのために刀を振るうわけではないのだ。助けてと言われても、どうして私が助けなければならない。

今の私は任務のために刀を振るうのであって、誰かを助けるために刀を振るうわけじゃない。しかし頭ではそう理解していても、女の心は冷徹になれずにいた。女は炎に飲み込まれようとする村に背中を向けると、真っ直ぐ前を見据えたまま歩き出そうとした。しかし背中から小さな子供の泣き声が聞こえたような気がして、女は反射的に後ろを振り返った。が、女の目が届く範囲に子供の姿はない。

風の悪戯かと思い、女は再び背中を向け歩き出そうとする。しかしまた聞こえたのだ。それも今度はより鮮明に。子供の泣き叫ぶ悲鳴と命乞いをする声に、女は苦渋の表情を浮かべる。聞かなければよかったと後悔しても遅い。

この乱世で「助けて」という声にいちいち反応していては、命が幾つあっても足りやしない。が、そう切り捨てることが出来ないものまた事実だった。気がついた頃には、女は炎の中を駆けていた。

注意深く辺りに目を配り、子供の泣き声がする方向を捜す。炎の音が女の聴覚を惑わし、熱と煙が女の体力を刻々と奪っていくが、それでも女は諦めなかった。どこかにいるであろう子供を捜そうと、女自身も気がつかないうちに躍起になっていたのである。

炎が女を惑わそうとするなか、今までで一番はっきりとした子供の泣き声を彼女の聴覚が捉えた。凡その見当がついた少女は、急いで声がした方向に駆ける。そこは村の外れで、鬱蒼とした森の入り口付近だった。すぐ傍には川があるようで、水の流れる音が絶えず聞こえてくる。

子供の泣き声が大きくなり、どんどん鮮明なものになっていく。無意識に走る速度をあげていくと、一本の木に背中を預けている子供の姿が見えた。背格好からして十歳にも満たない子供、暗闇でよくわからないがおそらく男の子だろう。

女は足を止める。何故ならそこには男の子の他に、もう一つの影があったからだ。少年の影よりも大きい、女とあまり変わらない影である。女の目が暗闇に慣れてきたのか、段々と影が浮き彫りになった。

女のように長い灰色に近い髪を風に靡かせて、鎌を少年の首元に突きつけているその男の影に、女はビクリと肩を震わせた。刃の湾曲部分に出来た僅かな隙間に少年の首を宛がい、あと少し力を加えれば少年の首は身体と切り離されるだろう。

先ほどまで泣き叫んでいた少年は、泣くことも叫ぶことも出来ず、ただ目の前の恐怖に耐えていた。僅かに喉を鳴らしただけで刃があたると、本能で理解したためだろう。少年はガチガチと歯を鳴らし、肩で荒い呼吸を繰り返す。

ふと、少年の目が女を見つけた。顔は動かすことは出来ないので、視線を女のほうに向けただけ。喋ることも出来ない。だが女には、少年の目が何を言っているのか瞬時に理解した。

―――助ケテ。

女は無言で腰に差していた刀に手をかける。睨みつける先は、鎌を少年の首に当てている男だ。月光が全てを優しく照らし出す。男の肌は白いを通り越してどこか青白い。少年の目が自分を見ていないことに気づいた男は、ゆっくりと少年が見ている先に目をやった。

「……ほぉ、これはこれは。今日は実に獲物が多い日ですね」
「あの村に火を放ったのも貴方?」
「ええ。美しいでしょう?」

男は本当に楽しんでいるようだ。村のほうに目をやり、満足げに口元に笑みを浮かべている。注意は他に逸れているというのに、この男には隙がない。可能ならば今すぐにでも少年を助けてやりたいが、無闇に動けば逆にこちらが斬られてしまう。女の額から一筋の汗が流れ落ちた。

「どうしました? 私を斬りたいのではないのですか?」
「誰も貴方を斬りたいなんて言ってないわ。私はその子を助けたいだけよ。貴方が大人しく武器を下ろせば、私は貴方に危害を加えるつもりはない」
「それは無理な話ですねぇ。何しろ戦明けで昂っているのですから」
「仕方がないか―――」

女は静かに刀を抜いた。青玉石が月光に照らされ鈍く輝く。男はその刀に目を奪われ、感嘆とした声を漏らした。このような刀は見たことがない。今まで数々の戦場を経験したが、このような武器を持つ将は誰一人としていなかった。ましてやそれが女となるとなおのことである。

「貴方はとても奇妙な格好をしているようですね。……何者ですか?」

女からすれば奇妙な格好ではなかったが、この男から見れば少女の格好は十分異質だった。何故なら女はロングコートにブーツという出立ちをしていたのである。風が女の黒髪とコートの裾を弄ぶ。女が身に付けている物は、どれもこの時代に存在しないものばかりだ。そして腰には青玉石で作られた刀を差している。まるでこの世の住人ではないようだった。

「人に名前を訊ねるときは、まずは自分から名乗るものよ」
「それもそうですねぇ。―――私は明智光秀。貴方は何者ですか?」
「………華那よ」

女―――華那と光秀は同時に武器を構えた。光秀は邪魔だといわんばかりに、少年の喉に当てていた鎌を無造作に振るう。その瞬間、少年の喉元からは真っ赤な鮮血が勢いよく噴出した。華那は驚愕に目を見開き、光秀はそんな彼女を見て口元の笑みを深くさせた。

「どうしました? 余所見をしている余裕などありませんよ?」

光秀は一瞬にして華那の懐に入り込む。華那は後ろに飛びのこうとするが、その隙を狙って光秀の鎌が下から上へと振り上げられた。

「くっ!」

後ろに飛びのいたことで重症は避けられたが、華那の足はぱっくりと割れ、そこから夥しい量の血が流れ落ちる。全身を駆け抜ける激痛に眉を顰め、痛みを振り払うかのように華那は刀を構えた。

青玉石から淡い光が放たれる。やがてその光は刃を包み込むように纏わりつき―――。蒼い光は、龍へと姿を変えた。

「―――蒼龍翔雷暫!」

刀が宙を切り裂くと、蒼い龍は光秀に向かって突進してきたではないか。龍の咆哮は大地を揺るがす。全てを飲み込まんとする龍の気迫に、光秀は面白いものでも見つけたように純粋な笑い声を上げた。それは戦場に似つかない、純粋な喜びである。

「アーハッハッ! そうでしたか、貴方があの「蒼天」だったのですね……!」

光秀の狂気じみた声は途中で掻き消された。龍の咆哮が彼を飲み込んだからである。その様子を見届けた華那は、伏し目がちに少年に目をやった。少年は遠目から見ても既に事切れており、彼女は目の前で無残にも散らされた命に、悔しさから唇を噛み締める。何も知らなければこの痛みもなかっただろう。だが華那は知ってしまった。赤の他人とはいえ、顔を知ってしまったら全くの他人とはいえなくなる。助けてと縋る眼差しを受け止めることが出来なかった自分が不甲斐ない。

華那は背中を向けて村の方角へと、足を引きずりながらも歩き出そうとした。しかし突如背後から感じた鋭い殺気に身を強張らせる。慌てて振り向くと、そこには三日月型の刃が目の前に迫っていた。華那は間一髪のところで攻撃を避けたが、力の入らない足が縺れ、後ろに二、三歩たたら踏んでしまった。

「しまった……!」

すぐ後ろは川。しかもここ最近の雨で氾濫していたせいもあり、かなりの濁流と化していた。あれに飲み込まれれば怪我を負った自分では、とてもじゃないが無事では済まないだろう。わかっていたが、虚しくも華那はその川へと足を滑らせ落ちてしまった。

華那が覚えていたのは、そこまでだった。

続