あた婚! | ナノ

なんであたしがこんなことで悩まなくちゃいけないのよ!

二月十四日、世に言うバレンタインである。好きな人にチョコを贈れというお菓子業界の陰謀は、二十一世紀になった今でも日本に定着していた。最近は友達同士に贈り合う義理チョコならぬ友チョコがちょっとしたブームらしいが、そんなこと今はどうでもいい。そういうことは学生に任せておけばいい。

職場用のバレンタインチョコを買いに近所のスーパーを訪れている華那は、一口サイズのチョコが沢山詰まったパックを一つ手に取ると、躊躇うことなくそれをかごの中に突っ込んだ。職場ならこれくらいで十分だろう。変に気張ってホワイトデーに気を遣われるのは嫌だし(そもそも義理にお返しは期待していない)、バレンタインだからと足元を掬ったような馬鹿げた値段のチョコを一人一人に買ってあげられるほど、華那の懐は温かくない(特別お世話になっている人なら別だが)。

その点これなら休憩室に置いておけば、休憩中の各々が勝手に取ってくれるだろう。値段も安いし、小分けされていて分けやすいし、お互い気を遣う心配はない。こういうときこのパックに詰まったチョコは非常に重宝する。まさにバレンタインのために生まれたようなものである。

そう、職場はこれでいい。問題は個人的なチョコだ。

華那はバレンタインを明日に控えた今、夫である政宗にチョコを贈るべきか迷っていたのだった。書類上夫とはいえ、夫という文字の前後に(仮)がつくような間柄。華那が心から政宗を愛していても、向こうはなんとも思っていない可能性が非常に高い。なんとも切ない片思いか。ましてや向こうは華那を妻としては思っていないだろう。良くて同居人か、家政婦か。所詮その程度にしか思われていない相手に本命チョコを贈ってどうする。

百歩譲って受け取ってもらえても、その後が気まずい。お互い反応に困る。そもそも華那は自分の気持ちを政宗に伝えないと決めていた。やはり本命チョコは贈るべきではないだろう。

それなら最初からチョコを贈らなければいいだけの話だが、女としてのプライドなのか、それとも諦めきれない淡い恋心のせいなのか、何もしないというのは我慢できない。やっぱり何か、バレンタインに因んだ物を贈りたい。

なら義理チョコとして贈ればどうだろう。お互い気を遣う必要もないし、政宗のことだから職場でも沢山貰っているだろうし、自分のチョコのその中の一つだと思ってもらえたら。

「……それはそれで複雑だわ」

自分のチョコが大勢のチョコに埋もれてしまうようで、それはそれで悔しい。なんだかもやもやする。理想としては。本命チョコと悟られない、だがその他大勢の義理チョコではなく、さりげなく特別感を出した上で、これは自分のチョコだという主張がしたい。考えていることが色々と矛盾しているような気がする。目立ちたくない、地味でいたいと言いつつも派手に着飾っている、そんな気分だ。

早い話、チョコを贈るだけなら簡単だ。あれこれ適当に理由を付けて渡すだけでいいのだから。手っ取り早くなんだかんだでお世話になっているから……と言って渡せば済む。しかしこれではバレンタイン特有の甘い雰囲気が皆無なのである。それならば何もバレンタインに贈る必要性もない。

「……かといって、買ったチョコっていうのもなあ。お手軽な分、何を言われるかわかったもんじゃないし?」

バレンタインコーナーには可愛らしく、または綺麗にラッピングされたチョコが数多く並べられている。全体的に赤やピンクといった女性的な色で占められている中、黒や青といった男性を意識したような色のものもあった。そのうちの一個を適当に取り、じっと見つめる。……買ったチョコという時点で、既に負けているような感じがするのは何故だろう。

女としての意地が、他の女には負けたくないというプライドが邪魔をしているのだ。あの政宗にチョコを贈る女性で、義理はまずないだろう。あったとしても少数で、全体の一割にも満たないと華那は思っている。本命チョコイコール手作りという図式は嫌でも簡単に思いつく。そもそも好きでもない相手のために、丹精込めてチョコを作る時間が勿体無い。そんな時間があればもっと他のことに使いたい。やはり市販のチョコは手作りの魅力には敵わないのだ。

不覚にも政宗に片思い中の華那には、市販のチョコは贈りがたい、というより贈りたくないという思いのほうが強い。が、かといって手作りチョコを贈れるか、といえばそういうわけにもいかない。理由は先に述べた通りである。

このジレンマのせいで華那はバレンタインチョコ売り場からなかなか動けずにいた。周りの買い物客は、一歩も動かず難しい顔をしている華那を、遠巻きから不審な目で眺めている。

「あーもー! なんであたしがこんなことで悩まなくちゃいけないのよ!」

考え過ぎたせいでいい加減華那の頭は限界だったらしい。結局華那は最初に迷うことなく手に取ったお買い得用のチョコの詰め合わせだけを手に、レジへ向かったのであった。

*** ***

政宗からすると、毎年やってくる二月十四日は、チョコを渡そうとする女性達からどう逃げ切るか、この一点にだけ重点を置いていた。学生の頃は兎角大変だったが、社会人になった今では非常に楽になった。

常に社長室という、ある意味孤立した場所で仕事をしているため、昔に比べて誰も気軽に政宗に近づくことができなくなった。仮に勇気を出してチョコを渡しに来た女性がいても、秘書である小十郎が門前払いを決行し、政宗の下にまでチョコが届くことがない。

おかげで二月十四日はなんとか政宗にチョコを渡そうとする女性社員の熱気で、真冬だというのに暖房ではなく冷房がいれたくなるほど社内の温度が上がっていた。それは政宗にとって新しい職場であるここでも変わらないらしい。

「さすがに今日は外に出ないほうがいいな。小十郎、お前のおかげで助かったぜ」

小十郎も今日こうなることを見越して、二月十四日は政宗をこの社長室から一歩も出る必要がないよう予定を組んでいた。今日だけは商談や会食は一切なく、珍しく社長室で事務仕事に専念できる。小十郎も政宗同様毎年のことなので、一年も前から今日に備えて対策済みだ。

「いいえ、毎年のことですから。政宗様こそいい加減チョコを受け取ったら如何ですか?」
「冗談じゃねえ! 一個でも受け取ればあとは芋づる式になっちまう」

小十郎は何事もないようにさらりと言ってのけるが、実はこれはこれで面倒なやりとりがあったのは言うまでもない。政宗一人ならいざ知らず、商談や会食には必ず相手がいるのだ。その相手にどうにか都合をつけてもらうため、予定を繰り上げたり繰り下げたり、実は結構面倒なやりとりがあったわけなのだが、これは秘書の仕事の一部と割り切っているため面倒であっても倶ではない。予定を双方の害にならないよう組むのもまた、秘書の腕の見せ所なのである。

「一個でも受け取ったら最後、絶対に一個じゃ済まねえ。だからchocoは受け取らねえって決めてんだ」

小十郎は胸の内で同情した。政宗ではなく、彼の考えを知らず今なおどうやってチョコを渡そうと考えている女性社員達に、である。仮にいくつかの障害を乗り越えて政宗の下にくることができても、最終的に本人からNoと言われるのがオチなのだ。だったら政宗の下に辿り着くことができずチョコが渡せなかった、というほうがまだダメージが少ないような気さえしてくる。

「しっかし、だからと言ってずっと座っているのもいい加減飽きてきたな」

ずっと同じ姿勢で座っていると身体の節々が辛い。政宗は両腕を上げて大きく背筋を伸ばした。するとそのとき、スーツの上着のポケットからカサカサと、何かが擦れるような音がした。ポケットに何かを入れた覚えは政宗にはない。政宗はスーツの上着のポケットに手を突っ込んでみた。

ポケットの中から出てきたものは、小さな一口サイズのチョコレートである。透明な包み紙に包まれた、よく見るお買い得用チョコのそれだった。ただ一つ違う点は、チョコを包んでいる端に、ちょこんと赤いリボンが結ばれていることだろうか。自分はこんなチョコに見覚えがない。二月十四日にチョコレートとなると、どう考えてもバレンタインのそれだろう。だが上着にチョコを入れるなんて芸当、そう易々とできるものでもない。一体これは誰からなのだろう。

「……って考えるまでもねえな」

うかぶのは一人の女の顔だった。政宗のスーツにチョコを忍ばせることが容易にできるのは、一緒に暮らしている人間くらいのものだ。大方政宗の出勤前に、こっそりとスーツのポケットにこれを忍ばせたに違いない。政宗の口が自然と弧を描く。チョコを政宗のスーツのポケットに入れるまでに、彼女がどれほど困った表情をうかべたのか、想像しただけで笑えるからだ。

本当は面と向かって渡したかっただろうに、最後まで恥ずかしかったのだろう。このチョコだって、ただの義理かと思えば控え目にリボンを結んでいるあたり、ただの義理チョコとは思えない何かがある。

「……何を期待してるんだ、オレは」

政宗は自嘲気味な笑みをうかべた。ただの義理チョコとは思えない。そんなことを考えて、あまつさえそれで喜んでいるなんて。それではまるで――。

「政宗様、そのチョコレートは如何されますか?」

いつもの政宗なら小十郎に処分するよう言いつける。

「……いや、これは有難く受け取っておく」

小十郎もこれが誰から贈られたチョコレートか気づいているのだろう。それ以上何も言わなかった。

「貰ったからにはきちんとお返しをしねえとな。そういやオレ、whitedayにお返しなんてやったことねえな」

一ヶ月後、華那の枕元に色鮮やかなキャンディーが詰まった小ビンが置かれているのは、また別のお話――。

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