あた婚! | ナノ

……猿の前ではあんなに楽しそうに笑うんだな、アイツは

佐助と仲直りしてから数日が経過した。あの日以来華那の周辺は至って平和だ。仕事、プライベート共にこれといった問題は起きていない。しかし問題が起きていないからといって変化がないというわけではない。華那の周りは微妙に変化しつつあった。

仕事のときは昼休みに佐助と元親と一緒に食事をとるようになった。まだぎこちない部分があるが、昔のように笑いあい、冗談を交えたりしながら話すようにもなった。華那と佐助、両方の事情を知る元親が間に入り二人の仲を取り持ったおかげだろう。華那と佐助だけだったらきっとまだガチガチだ。華那も佐助も、互いのことを想うあまり変に気を遣いすぎていたはずだ。悔しいが元親には感謝しないといけない。

一方自宅ではというと、相変わらず政宗の顔がまともに見ることができずにいる。好きな相手と四六時中一緒なのだ。いい加減華那の心臓がおかしくなりそうだった。料理では政宗にあれこれ文句を言われながらも、めげずに頑張って作り続けている。

たまに子供みたいな好き嫌い発言が出るため、最近は政宗の嫌いな食べ物をいかに気づかせずに食べさせるかに躍起になっている。オーソドックスに細かくみじん切りにして混ぜたりするのだが、どういう舌をしているのか一口食べただけで気づくことがあるため油断ならない。逆に気づかず食べているときは心の中でガッツポーズだ。それでもなんだかんだで作った物はちゃんと完食してくれるので、それがまた嬉しかったりするのだが。

こんな些細なことで一喜一憂したりと、どうやら自分でも気づかないうちに相当政宗に惚れこんでいるらしい。政宗が自分を好きになるはずがないとわかっているだけに、政宗のことを好きだと思えば思うほど胸の奥がチクリと痛んだ。相手に好きになってもらえる確率はゼロ。勝算がない恋ほど辛いものはない。時々意味もなく泣きたくなるときがある。

そんな想いを抱えた更に数日後、華那の日常は少しずつ悪い方向へと傾き始めた。

「―――飲み会?」
「ンな大したもんじゃねえよ。オレと猿飛と音城至で飲みに行かねえかって話」

元親に佐助を交えて飲みに行こうと誘われた。給料日後なので懐の心配は今のところ必要ない。尤も元親もそれを狙ってこのタイミングで飲みに誘ったはずだろう。政宗と結婚してから誰かと飲みに行っていない。久しぶりに羽目を外して、外でパァーっと飲んで騒ぐのも悪くない。会社のために一生懸命働いている政宗には些か気が引けるが、彼は華那以上に会社の付き合いというものを心得ているはずだから、同僚と飲みに行くくらいきっと快く許してくれるはずだ。帰りが遅くなるとメールで連絡しておけば大丈夫だろう。

「オッケー、特に予定もないし大丈夫よ。ただし長曾我部と佐助で七割!」

この七割とは会計の負担割合のことだ。元親と佐助で七割、華那が残りの三割を払うという意思表示である。要訳すると少し奢れということだ。何があっても割り勘はしないと宣言する華那に、元親は軽く肩を竦めた。こういうところだけはちゃっかりしているのだ、この女は。

昔は佐助の名前を出しただけで表情を硬くしていた華那なのに、今ではそんなことがまるで嘘のように活き活きとしている。事情を知らなかったときはただ漠然と佐助のことが苦手なのだろうと勝手に思い込んでいたが、たしかに元カレとなると(それも意味深な別れ方をしたらしいので)無理もない。

「どうしたの、長曾我部?」

黙りこくった元親を不審に思った華那が気遣わしげな声で呟いた。元親は二カッと笑って華那の頭を乱暴に撫でた。華那は露骨に嫌がるが、元親はお構いなしに髪の毛をグシャグシャと撫で続ける。見るからに一歩前進した華那を見たら無性に褒めてやりたくなったなんて、そんな柄にもないことは死んでも言ってやるもんか。


クライアントとの商談を終えた政宗は、小十郎が運転する車の後部座席に座り、夕闇に染まる街並みを眺めていた。今日の日程は一応終了で、誰も見ていないことをいいことに政宗はネクタイを緩めた。ワックスで整えていた髪型もクシャクシャと元に戻す。偏屈なジジィ共に愛想笑いを作るくらいなら、会社で一日中仕事をしていたほうが遥かにマシだった。こういうときはいつも以上に疲労感が政宗を襲う。家に帰ったら華那をからかって憂さ晴らししようと心に硬く誓った。

華那は処女という言葉どおり、政宗がスキンシップと称して近づいたり身体に触れたりするだけで過剰な反応を見せる。男とろくに付き合ったことがないのか(それとも一度も付き合ったことがないのか)、とにかく面白いくらい初なのだ。意図的に何かをする意思がなくても政宗が近づいただけで、顔を真っ赤に染めあげて身体を硬直させるか飛びのくか、この二択なのだ。

政宗が風邪をひいたときも触れる程度のキスをしただけで、二、三日は政宗の顔を見ただけでいつも以上に顔を真っ赤にさせていた。時折意味ありげに唇を指でなぞるように触ったりして、そのあとキスしたことを思い出したのかまた顔を真っ赤にさせたりと、正直見ているこっちまで恥ずかしくなるくらいなのだ。

華那の反応は初めて恋をした十代の少女を彷彿とさせるほどだった。今思えばよくあのホテルで男の裸を見て失神しなかったと思う。きっと男の裸が意識の外へ吹っ飛ぶくらい気が動転したのだろう。あのとき華那よりも早く起きていれば面白いものが見られたのかもしれない。そう思うと少し惜しい気分だ。

「政宗様、何か楽しいことでもありましたか?」
「いや、なんでそう思うんだ小十郎?」
「頬がみっともなく緩んでおりますが」

華那のことを考えていただけだが、まさか知らぬ間に頬が緩んでいたとは。おまけに楽しいだと? 華那のことを考えていた自分が楽しそうに見えたのだろうか。政宗は右手で口元を覆い隠すと、キッと表情を引き締める。何か話題を変えなければ何を言われるのかわかったものではない。何か話題はないものかと政宗は頭の中を必死で探しまくった。するとあった。ここ最近小十郎に聞こうと思って忘れていたことが一つだけ。

「そういや最近オレに隠れて何かを調べていたようだが……一体何やってんだ、お前?」

最近小十郎の様子がおかしい。仕事以外の時間に何か調べ物をしているのだ。何を調べているのか聞こうにも、そのたびに小十郎に話をはぐらかされてしまった。

「オレに隠れて何を調べている?」
「………それは」

小十郎の歯切れが悪い。

「はっきり言え。お前がオレに隠れて何かを調べている時点で、オレに関係することだってことぐらい察してんだよ」

だから何を調べていたのか早く言え。政宗がバックミラーを睨みつける。小十郎は目線だけバックミラーへやり、政宗の視線を受け止めた。政宗に引く気がないとわかると、小十郎は溜息をついた。降参の合図である。

「………音城至華那と猿飛佐助の関係を調べていました」
「Ah?」

政宗には小十郎がどういう意図でこの二人の関係を調べているのかわからない。丁度車が信号待ちになり、小十郎は運転の手を休め、助手席に置いてあった鞄から茶色い封筒を取り出し政宗に渡した。封筒の中に入っていたものは数枚の書類だった。この書類は小十郎が調べていたことの結果なのだろう。それ以上何も言おうとしない彼を見て、まだ何か言い足りなかった政宗だが大人しく書類に目を落とすことにした。

「………どういうことだよ、これは」

そこに書かれていたものは、この二人の会社での関係だけなく、大学時代のものまで書かれていた。そして政宗は知らなかったであろう、小十郎がこの二人の関係性を調べるに至って原因まで。几帳面な小十郎らしく、こと細々に詳細が書かれていた。書類を持っていた政宗の手に力がこもる。書類を読めば読むほど無性に腹が立つ。この苛立ちの原因は怒りか、それとも他の何かなのか、今の政宗にはわからない。

はっきりとわかるのは華那が政宗を裏切ったということだけだ。伊達グループのことを第一に考える政宗にとって、自分以外の男と親しくするという行為は裏切り以外の何物でもない。

「オレに隠れて浮気たァ、いい度胸じゃねえか……!」

書類から視線を上げ、窓の外へと視線を移した政宗は、そこに飛び込んできた光景に絶句した。窓の外に広がる大通りに、見知った女の姿があった。その女は会社の帰りであろうと思われる格好で、政宗が見たこともない楽しそうな笑顔をうかべている。自分の前では決して向けられることのないであろう、眩しい笑顔だ。その笑顔の先にいたのは――。

「……猿の前ではあんなに楽しそうに笑うんだな、アイツは」

そう呟いた政宗の声は、恐ろしいくらい抑揚がない静かなものだった。政宗の声に小十郎は少しだけ眉をひそめた。先ほどまでの政宗と明らかに雰囲気が違う。信号が青に変わり、車が緩やかに発進する。このとき政宗の中でドス黒い何かが渦巻き始めていたことを、小十郎は最後まで気づくことができなかった。

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