あた婚! | ナノ

政宗と一緒にいられるのなら、別に好きになってもらわなくても

政宗のことが好き。自分の気持ちに気づいたところで一体どうすればいいのだろう。相手は自分のことをなんとも思っていないし、それはこの先変わることはないだろう。最初から相手になどされていない。むしろ今すぐ別れてもよいとなれば、大喜びで離婚届にサインするはずだ。

契約。そう、これは契約。政宗にとって華那との結婚はビジネスの一環のようなもの。政宗は社長の椅子のために、華那としてしまった結婚を飲み込んだだけに過ぎないのである。政宗はどんなに嫌なことでも、社長の座のためだと思えばそれなりに割り切ることができる男だ。

好きになってくれる望みなしの相手を好きになってしまったところで華那にはどうしようもない。相手は社長で自分は平社員。セレブと庶民。世界がまるで違うだけに、この奇妙な同居生活すらなくなってしまったら本当に接点がなくなってしまう。

自分の気持ちに蓋をすれば、少なくとも政宗と一緒にいることは可能だ。自分にとってマイナスになることはしないので、浮気や不倫の心配は皆無に等しい。他の女が寄りつく心配だけは避けられそうだ。華那さえ何も言わなければ、この関係が壊れる心配はない。

これでいいんだよね……政宗と一緒にいられるのなら、別に好きになってもらわなくても……。

「……なんて顔してんだよ、音城至」
「さすっ……猿飛。なんでここに?」

無意識に学生時の癖で佐助先輩と呼んでしまいそうになってしまった自分に自己嫌悪した。佐助と別れた時点で何もかも終わり、それ以来佐助のことはわざと素っ気なく猿飛と呼ぶように意識している。

「今は休憩中。休憩中にどこで何しようが俺様の勝手っしょ?」

今は休憩中で、誰がどこにいようと自由の時間だ。だから部署の違う佐助が華那がいる部署に顔を出していてもおかしくない。大方元親に用事があったのだろう。その元親は外に食事に出ているため姿はない。

「何か悩み事があるならいつでも相談にのるぜ?」
「結構。あんたに相談することなんて何もないわ。今更彼氏ヅラしないでよ」

佐助と何事もなかったように面と向かって話ができるほど、彼に二股をかけられたときの痛みが癒えたわけではない。仕事のときでもできることなら関わりたくないというのに、プライベートのときだといっそのこと逃げ出したくなる。

何が相談にのるよ。あたしのことこっぴどく傷つけたくせに。

「………だから何度も言ってるじゃん。俺は浮気なんてしてないって」
「だからあたしだって何度も言ってるじゃない! 見知らぬ女と街中で抱き合っていたとこを見たって! あたし以外にも証人はいる。あんな光景を見せておいて、よくもまあ浮気なんてしてないって言えたものね!」

苛立ちに任せて大きな声で一気に捲し立てた。休憩中ということもあり部署内に華那と佐助以外誰もいないことが救いだ。もし誰かいたら何事かとこちらを見ているに違いない。頑として自分の話を聞こうとしない華那に、佐助はついに声を荒げた。

「浮気なんてするか! 俺は今でも……華那が好きだ」
「なっ………!?」

今でも。華那が別れを切り出してからもずっと好きだった。華那は息を呑んだ。そう言った佐助の眼差しがあまりにも真剣だったためだ。かつて好きだった相手の言葉だからこそわかる。この言葉に嘘はない。

今でも好き。ならどうしてあのとき浮気なんてした。あれからあの光景がずっと頭から離れない。何を話しているのかまではわからなかったが、知らない女と楽しそうに笑いあって抱き合って……。あんなふうに笑う佐助を華那は見たことがなかった。知らない女の前でなら、あんなふうに笑うこともできるのか。そう思うと腹立たしいわ悔しいわ悲しいわで、もし心が目に見える物質ならばとっくにグチャグチャに押し潰されていたことだろう。

これほど好きになった人は初めてだった。この人なら最後までしていいとさえ思えていたのに。好きな人に裏切られて、あたしがどれほど傷ついたと思っているの。それなのに今でも好きなどと甘いことをぬかすのか。

「信じられない。あんたって本当にサイテーよ……猿飛」

もうこの場にいたくない。その一心で華那は部屋を飛び出した。会社にすらいたくない。外の空気でも吸って気分を落ちつけよう。そう考えた華那は休憩中よく利用する公園に足を延ばしていた。ここは酷く穏やかで、自分だけが異質な存在に思えてくる。傍にあったベンチに座り、身体を前のめりに傾け頭を抱えた。佐助に今でも好きと言われて腹立たしい気持ちでいっぱいだった。

今でも好きなら、どうして浮気なんてしたのよ馬鹿。そう訊いたところで佐助が答えないことも知っている。

別れを切り出した日もそうだった。別れを切り出したのは華那のほうからで、あの日抱き合っていた女は誰か訊ねたが結局彼は答えようとしなかった。別れたいと言ったときも彼は「……そうか」と言ったきり、追いかけようとすらしなかった。今でも好きならあのときどうして追いかけてきてくれなかったのかなどと理不尽な怒りさえ込み上げてくる。

「もうわけわかんない……!」
「……大丈夫?」

気遣うような柔らかい声に華那は顔を上げた。ベンチに座って蹲っていた華那を不思議に思ったのかもしれない。あるいは体調が悪いと誤解されてしまったのかもしれない。自分を心配げに覗きこむ女性に、華那はなんでもないですと言って表情を取り繕った。

「大丈夫ですからお気遣いなく……。あれ、どこかでお会いしたことありましたっけ?」

頭の中で何かが引っかかった。目の前にいる女性を華那はどこかで見たことがあるような気がするのだ。

「……いいえ、私はお会いしたことないと思いますけど?」

女性は嫌な顔一つせず華那の質問に答えた。気のせいだったのだろうか。でも何かが引っかかる。気のせいだと思いこうもとしても心の奥がモヤモヤしてすっきりしない。

「じゃあ私はこれで失礼するわね。しんどいのなら無理しないで」

そう言って女性は華那の傍から離れて行く。次の瞬間ちらりと見えた横顔に、華那は目を大きく見開いた。大きな声で「待ってください!」と女性を呼び止める。正面から見たからわからなかったのだ。華那はこの女性の横顔しか見たことがなかったから、この女性のことを思い出せずにいただけなのである。横顔を見たおかげで、この女性をどこで見たのかはっきりと思いだすことができた。

「あの、まだ何か?」

あれは学生の頃の話。友達と飲みに行った帰りのことだった。道路を挟んだ向かい側で、偶然にも佐助が見知らぬ女と抱き合っている光景を目撃してしまった。ほろ酔い気分が一気に冷めた華那は、愕然とした表情で佐助を見つめることしかできずに立ち尽くしていた。

目の前にいるこの女性こそ、あのとき華那が見た女性だったのだ。咄嗟に呼び止めてしまったがこの先どうするのか全く考えていなかった。早く何か言わなくては変に思われる。華那はゴクッと喉を鳴らし、ありったけの勇気を振り絞った。

「あの、猿飛って男性のこと……覚えていますか?」
「猿飛……? そんな変わった名前の人、覚えはないけど」

この人は多分嘘をついていない。本当に猿飛という名前に覚えがないようだ。ならばと華那は質問を変えてみた。

「じゃあ佐助って名前には聞き覚え、ないですか?」

女性は少しだけ考える仕草を見せると、佐助という名前の男を想いだしたのかパァッと明るい表情をうかべた。どうやら思い出したらしい。佐助という名前は覚えていて名字は知らないと言う。実におかしなこともあるものだ。

が、問題はこの次だ。彼女が華那の存在を知るにしろ知らないにせよ、彼と付き合っていたのかどうか訊くことができるだろうか。佐助を知っているかどうか訊くだけでこれだ。次の言葉が上手くでてこない。

「なんだ、貴方も彼のお客だったのね。じゃあお店で会ったことがあったのかもしれないわ」
「佐助のお客?」

話が見えない。佐助のお客とはどういう意味だろう。

「えっと、佐助と付き合っていたんじゃないんですか?」
「付き合う? まさか! 彼も私もこれが仕事だとちゃんと割り切っていたわよ」
「仕事って何のことですか? 私はてっきり貴方と彼が付き合っていたのだとばかり……」
「本当に何も知らないの? 今はもうやめちゃったらしいけど、昔佐助はホストクラブでバイトしていたのよ。大学の学費を払うためにね。私はそのときのお客よ。ホストに本気になるなんて馬鹿馬鹿しいわ」

ホストクラブでバイトをしていたなんて話は聞いたことがない。大学の学費を払うために夜バイトをしているとは聞いたことはあったが、まさかそれがホストクラブだなんて思いもよらなかった。ならあの日華那が見た光景は、ホストとしての仕事の一環でやっていただけということになってしまう。この人は言った。彼も私もこれが仕事だとちゃんと割り切っていたと。ホストに本気になるなんて馬鹿馬鹿しいと。

二人の間に華那が想像していたような疾しいことは何もない。華那の視界がぐにゃりと歪む。今こうして立っているだけで精一杯だ。ずっと佐助に裏切られたと思っていたのに、真実は違った。

佐助はあたしを裏切ってなんかなかった。あたしが佐助を裏切ったんじゃないか……。

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