あた婚! | ナノ

なんかこうしていると、本物の夫婦みたいじゃない?

どうしよう。完全に失念していた。油断していた。というかもうあたし馬鹿じゃん。馬鹿すぎて笑えないよアハハ。あれ、なんだ笑えるじゃん。でも視界がぼやけて見えるのはなんでだろう。直前までまるで恋する乙女モードだったのに、自分がやらかしたミスのせいで一気にどん底の気分に陥っていた。何度もどうしようと呟きながら、華那はリビングで頭を抱え込んでいた。

***

華那は今日のデート(みたいなもの)の余韻に未だ浸っていた。元親と佐助から逃げ回り、遅めの昼ご飯を食べた後、華那は政宗に街を案内してもらった。普段よく利用しそうなお店からそうでないお店まで、ジャンルは様々だったが目に映る物全てが新鮮だった。

いつもならなんとも思わないようなお店でも、政宗と一緒に入るだけで興味が湧いた。政宗と一緒にそのお店に並んでいる物を見るだけだったが、華那は久しぶりに人目を気にせず大きな声で笑った。そんな彼女に影響されてか、政宗もどこか楽しそうに笑っていたような気がする。傍から見ると仲の良いカップルのデートと見えたことだろう。

帰宅した頃には既に外は真っ暗で、家に帰るなり華那はそれまでの疲労がどっと出たのか、そのまま自室のベッドへと直行した。ただし完全に意識が落ちる前に、街を案内してくれた政宗にお礼のメールを送っている。

本当は面と向かってお礼を述べるのが一番良いのだが、彼を目の前にすると素直になれる自信がなかったのだ。それに比べてメールなら直接顔を合わせない分、照れて言いにくいこともすんなり言うことができる。一応夫婦なのだからと、もしものときのためにケータイのアドレスは交換していた。しかし特に用事もなかったので、今まで一度もメールなり電話なりをしたことはない。つまりこのメールが実質初めてのメールとなるわけである。そう思うと何故か緊張してきた。

普段どおり絵文字を使って……いやでもあんまり絵文字を使いすぎると、政宗のことだからドン引きしそう。かといって文章だけだと素っ気ないって思われそうだな。親しい友人でもないし、でも一応夫婦なんだし……ど、どうしよう……! メール作成画面と睨めっこすること数分。散々悩んだが、結局文章は簡潔に「今日はありがとう。楽しかった」と、絵文字も何も使用しない淡泊なものだったが、華那は精一杯の感謝の気持ちを込めたつもりだった。送信ボタンを押し、ちゃんとメールが送れたことを確認すると、華那は枕へ顔を埋めて夢の世界へ飛び立ったのであった。

朝から騒音に近いレベルの音を鳴らす目覚ましに、華那は寝ぼけた頭で一撃必殺のチョップを食らわしそれを黙らせる。もう少しまどろんでいたいところだが月曜日なのでそうはいかない。身体に鞭を打って起き上がり、もう少し寝かせろと囁く悪魔を追い払う。

目覚まし時計は六時半を示していた。この時間なら今からシャワーを浴びても余裕で会社に間に合う。華那は枕元に置いてあったケータイを手に取った。見るとメールが一通届いている。もしかして元親か佐助じゃないでしょうね……そんなことを思いながらメール画面を開いた。しかしメールの送り主は華那が予想した人物ではなく。

政宗……!? 一体何だろうと一瞬考えたが、すぐに昨日の夜送ったメールの返事だと思いついた。正直返事を期待していなかったので、こうやって返事が返ってきていたことに驚きを隠せない。おまけに時間を見ると華那がメールを送ってすぐに返事が届いていた。しかしあの政宗のことだから、どんな内容のメールかわかったものではない。人を散々走らせておいて何が楽しかっただバカ、とか。どうせこんな嫌みを込めたメールだろう。ま、走らせたのは事実だしと、どこか残念な気持ちでボタンを押した。

「オレも楽しかった」

たった一文。それも絵文字や顔文字は一切ない、華那が送った以上に淡泊なメールだった。しかし華那は目を疑った。予想していたのは嫌みを込めたメールだった。だが届いたメールは、そんな部分を全く感じさせない、真摯な内容である。華那は何度も同じ文面を繰り返し、繰り返し目で読んだ。オレも楽しかったという言葉を、頭の中で何度も響かせる。言葉が上手く出てこない。というより上手く呼吸ができない。そのくせ自分の胸が高鳴っているのがはっきりとわかる。

たった一文。傍から見ると素っ気ないと思うかもしれない。しかしこれほど嬉しいと思うメールを、今まで貰ったことがなかった。華那は声にならない悲鳴をあげながら、がバッと枕に顔を埋め、ベッドの上で意味もなくごろごろと転がる。どうしよう。政宗の顔、ちゃんと見ることができるかな……。こんなメールを貰った後では、政宗の顔をまともに見られるかわからない。大丈夫かな、あたし……。昨日までとはまた違った意味で不安を覚えた華那だった。

シャワーを済ませ、会社に行く支度を整えた華那は朝食を食べるためリビングへと足を運んだ。するとそこにはコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる政宗の姿があった。既に朝食を食べ終えているようで、お皿だけがテーブルに置かれている。政宗の顔がまともに見られない。華那は少しだけ視線を反らし、政宗を見ているようで見ていない、微妙なところをじっと見つめた。

「Good morning 朝からなに突っ立ってんだ?」
「お、おはよう……! 別に突っ立っているわけじゃなくて、その……」

おかしい。昨日までは普通に話せていたはずなのに今日は話せない。言葉が詰まる。じっとこっちを見てくる政宗の視線に耐えきれず、華那はカクカクした動きでキッチンへ向かい自分の朝食の準備を始めた。といってもトーストを焼くだけなので、すぐに終わってしまったわけなのだが。トーストを焼いている間にコーヒーの準備をしようとしたところで、顔をあげた政宗が思いだしたように華那に声をかけた。

「Coffeeならオレが作ったやつが余ってるぜ。良かったら飲むか?」
「え……? どういう風の吹きまわし?」

政宗が鋭い目でギロリと華那を睨みつける。

「そりゃどういう意味だ? ……たまたま作りすぎただけで他意はねえよ」

あの政宗が自分で用意したものを与えてくれるとは思っていなかった。昨日の朝の件があるだけに、つい訝しげに思ってしまった華那である。しかし人の好意は素直に甘えるものだ。

「……じゃあお言葉に甘えていただきます……」
「なんで敬語なんだよ」

変な奴。政宗はそう言うとフッと笑みを浮かべた。朝食の準備をし終え、テーブルに着いた華那はいただきますと言ってトーストにかぶりつく。政宗が作ったコーヒーは、やはり自分で作るものより美味しかった。やっぱりこの男は女泣かせだ。華那はトーストを食べながら、新聞を読んでいる政宗の表情を窺った。仕事柄新聞を読むことは大事なんだろう。新聞を読んでいるときの政宗の目は真剣だった。

……なんかこうしていると、本物の夫婦みたいじゃない? 心の奥から湧き上がる、穏やかな気持ちが妙に心地よい。自然と笑みが零れる。

「そういや、どうするつもりなんだ?」
「え、何が?」

新聞を読み終えたのか、政宗は新聞を綺麗に折りたたむ。柄にもないことを考えていたことを悟られないよう、華那はコーヒーが入ったマグカップに口を付けた。

「何がって昨日会った二人……長曾我部と猿飛だったか? 今日会社に行ったら嫌でも会うだろ。どうやって誤魔化すつもりなんだ?」
「ブフッーーー!?」

優雅にコーヒーを飲むつもりが、あろうことか逆噴射してしまった。変なところにコーヒーが入ってしまい、ゴホゴホと咳き込む。目には薄らと涙が滲んでいた。

「そんなに動揺するようなことか? ……ああ、さては忘れていやがったな」

忘れていたというより、そのことに思い至らなかったというほうが正解かもしれない。そうだ、昨日はあの場を誤魔化すだけで精一杯で他のことを考える余裕がなかった。冷静に考えればなんとかその場を誤魔化すことに成功しても、翌日になれば嫌でも会社で顔を突き合わせる羽目になるのだ。むしろ昨日散々逃げ回ったせいで、二人の好奇心はMAXになっているはずである。開口一番に訊いてくるかもしれない。

「ど、どうしよう……」

華那は頭を抱え、一体どこからそんな声を出しているんだろうと思う不気味な呻き声をあげ始めた。さっきまでメールで浮かれていたのが嘘のようだ。ブルーなオーラを纏う華那を政宗に鬱陶しそうな目で静観している。彼の視線に気がついた華那は顔を上げるなり政宗を睨みつけた。

「ちょっと、政宗も少しは考えなさいよ」
「なんでオレが」
「これはあたしと政宗、二人の問題でしょ? 協力してくれてもいいじゃない」

そう言うと政宗は心底面倒くさそうな表情を浮かべた。その顔を見るなり、華那はこいつには期待できないと判断し、あっさりと切り捨てることにした。さっきまで感じていた穏やかな気持ちは一時の気の迷いだ。うん。頼れるのは自分だけ。会社に行くまでになんとかして打開策を見つけなければ。華那は妙な使命感に燃え滾っていた。

結局、会社に行くまでに良い案は何一つ浮かばなかった。とりあえず考えが思いつくまでなんとか時間を引き延ばそうと考えた華那が最初に取った行動はまず、遅刻ギリギリの時間に会社に滑り込むという小学生レベルのものだった。時間ギリギリだとすぐ仕事にかかるので、元親と佐助も話しをしようにもそんな暇はない。仕事中私語は許されないので、お昼休憩まで考える時間が延びると考えたのだ。

しかし仕事をしながら他のことを考えるのは厳しいところがある。考えられるようで考えられない。考えることに集中しだすと仕事でミスをするかもしれない。それだけは絶対に許されないことだ。時計の針が十二時を指したのにも関わらず、未だ解決策を見出すことができずにいた華那である。当然昼休憩に入るなり猛ダッシュで仕事場から逃げ出した。勿論手にお弁当を抱えてだ。あまりの速さに誰もが「よっぽどお腹が減っていたんだな……」と呆れた眼差しで華那の背中を見送っていたことは、当の本人だけは知るはずもない。

どこへ逃げようか。社内じゃ見つかる可能性がある。となると外か? 近くに公園もあることだし、そこで食べよう。オフィス街にあるわりと大きめな公園なので、昼休憩の時間になるとそれなりに人が集まる。様々な制服を着た男女が集まることがお昼のちょっとした名物だ。たまにライバル会社同士が顔を突き合わせ、険悪な雰囲気になることもあるが、それはそれで面白いので見ている側としてはそれほど気にしていない。

大体は華那のようにベンチに腰掛けお弁当を食べているのだが、中には持参したボールで身体を動かしている強者までいた。まあたしかに大人になると突然無性に身体を動かしたくなるときがあるしね。一人で納得し、黙々と箸を動かしておかずを口の中に放り込む。次はどのおかずを食べようかな。箸を動かす手が止まった、そんなときだった。さっきまで太陽の光が明るかった華那の視界に黒い影が覆い被さった。いきなり何だと華那が顔を上げると、ニヤリと勝ち誇った笑顔を浮かべている元親と目が合った。

「ようやく捕まえたぜ。もう逃げられねえぞ」

もはや反射的に逃げようとした華那の首根っこを元親が掴む。

「いい加減諦めて白状しやがれ」

元親の迫力がある笑顔には有無を言わせない何かを感じさせられた。とってつけたような華那の笑顔が硬くなる。

「大体な、別に隠すほどのことでもねえだろ? ただの彼氏だぜ、紹介するくらいなんでもねえだろ」

元親は昨日華那と一緒にいた男を彼氏だと勝手に判断している。華那に彼氏がいたということがショックだった、ということはない。目の前のこの女に恋愛感情は抱くことは死んでもないと元親は自負していた。ならどうしてそこまで必死に男の正体を知りたがるのか。

理由は簡単だ、逃げたからである。逃げたということは元親達には紹介できない何かがあの男にある。好奇心旺盛な元親の心は酷く疼いた。その結果がこれである。華那は咄嗟にあの場から逃げ出した自分の迂闊さを呪った。

「ってあたしがいつ彼氏って言ったのよ!?」
「じゃあ何だよ?」

元親の真っすぐな目に華那は怯んだ。本当のことは言えない、絶対に。本当のことを言ったら、政宗の奴に社会的に抹殺されかねない!

「え、えーとえーと……そう、あいつはあたしの兄なのよ!」
「兄だァ?」

華那に兄がいるなんて話を元親は聞いたことがなかった。しかしそれは自分が知ろうとしなかっただけのこと。華那に兄がいてもなんらおかしなことはない。むしろ兄がいるせいでこんなガサツな女になったのではないかと、妙に納得できる部分がある。

華那も華那で、咄嗟に思いついた嘘とはいえ、一度兄という設定をつけてしまうと、随分と気が楽になった。あることないことぽんぽん思いつく。それに家族っていいよね。誰だって会社の同僚と家族は会わせたくないだろうし。誰だって自分が働いている姿や、同僚に身内を見られることはかなり恥ずかしいことだろう。華那が咄嗟に逃げてしまったのも同僚と兄を惹き会わせたくなかったといえば済む話だ。この理由なら元親と佐助も納得がいく。

「今ちょっとわけあって兄と一緒に住んでいるんだけどさあ……その兄っていうのがろくでもない奴でね。もうほんと、人様に紹介できるような奴じゃないのよー」

捲し立てるように話し続ける華那に元親は口を挟むことができない。まるで元親に口を挟む余地を与えないようにしているのではないかと勘ぐってしまうくらいだ。華那の口は休まることを知らない。

いくら自分の兄だからといっても、さすがにそれは言いすぎなのではないかと、見知らぬ兄に同情の念を抱いてしまう。もしかして、華那は兄のことが嫌いなのだろうか。いくら身内といえども華那の罵詈雑言には容赦がない。滅多斬りだ。言葉という刃で兄をズタズタに切り裂いていっている。

「わーーった! もういい、もうわかったからそれ以上言ってやるな頼むから!」

元親がやめてくれと懇願したことで、華那の口はようやく静かになった。元親はホッと安堵の息を吐く。なんで見知らぬ男にここまで同情しなくちゃいけねえんだ。視界が薄らと滲んで見える。

「わ、悪かったな余計なことを聞いて。猿飛にもあれは兄だったって言っておくぜ。じゃ、じゃーな!」

逃げるように去っていく元親の背中が小さくなっていくのを見送りながら、華那は助かったと小さな、それはそれは小さな声で呟いた。しかしこの小さな嘘が後の騒動の始まりになるとは、このときの彼女は思いもしなかったのである。

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