この日、僕は決意する 小さい頃から政宗は自信に満ち溢れていた。しかし今のように心の底からというわけではなく、どこか空元気のように思えることが何度かあった。見ているほうからすれば痛々しいくらいの態度に、どうしてそこまでする必要があるのかと小さいながら疑問に思っていたが、それを訊ねるのはなんだかいけないような気がして、見て見ぬフリをし続けていた。図らずしもその原因を知ったのは、政宗ともはや乱闘といえるあの大喧嘩を繰り広げた三日後だった。 *** 「いた!?」 「へへ。くらえ、マツボックリこうげき!」 「うぬぅ……やるな、おぬし!」 手入れの行き届いた広大な日本庭園の一画から、厳格な雰囲気が漂うこの場所に似つかない無邪気な笑い声が響き渡る。辺りを見回してみても声の主は見えない。それもそのはず、声の主は地上にはいないのだ。声の主は―――地面から離れた木の上にいたのである。立派に生えた松の木の枝部分には細い枝に跨りながら両手にマツボックリを沢山抱え、ケラケラと笑い声を上げている政宗が。幹の部分にはそんな彼のいる場所を目指して、太い幹に両手を回し必死にしがみ付いている華那の姿があった。が、華那を近づけさすまいと、政宗はマツボックリの雨を華那に向かって降らす。幹にしがみ付いている華那には対抗手段がなく、先ほどから自身の頭でマツボックリ全てを受け止めていた。 政宗的にはここで怯んでくれればよかったものの、華那は怯む気配を見せず……。それどころか負けず嫌い精神に火がついて、更にスピードを上げて登ってくるのだから堪ったものじゃない。それに華那の頭は異常なほど頑丈で、マツボックリ攻撃が効いているのかさえ分からないのだ。三日前のあの大喧嘩の際、互いに頭突きを食らったのだが、政宗にだけたんこぶが出来たことには正直驚いた。 そういえば頭突きをした直後、頭を押さえて蹲った政宗に対し、華那は何食わぬ顔で「なにやってるの?」と訊いてきたなと思い出す。自分が痛くなかったばっかりに、痛みに耐え切れず蹲った政宗が信じられなかったのだろう。 どうすればここまで石頭になれるのか―――。華那は石から生まれたんじゃないかと、そんなありえないことまで本気で考えてしまうほどである。くっそ、木の上になんか登るんじゃなかった。とまぁ後悔しても遅いわけで。あのまま普通に庭中を逃げ回っていれば、鬼ごっこの女神は自分に微笑んでいたのかもしれない。政宗は頭の中の辞書に「逃げる際は逃げ道がない場所に逃げないこと」を付け加えた。 「もうちょっと……」 政宗が座っている枝に後一歩のところまで華那が迫る。少し頑張って手を伸ばせば枝に手がかけられる距離だ。政宗が抱えていたマツボックリも底をつき、もはや迫り来る華那を止める術はない。 「政宗つかまえたー……あり?」 華那が枝に手をかけ、全体重を政宗がいるほうへかける。しかし細い枝は、子供二人の体重を支えきれるほど強くはなかった。乾いた音がしたと理解したときには、体は逆らいようがない重力法則に従って落下していた。 「うわぁああ!?」 幸いそれほど高い場所ではなかったので、落ちたといっても大して痛みはなかった。落ちているときに小枝に引っかかったりして擦り傷や痣は体中に拵えてしまったが、それくらいは許容範囲と思いたい。だが政宗はそれだけではすまなかった。 「…………華那、さっさとどきやがれ」 「あれ、政宗の声がした。政宗どこー?」 「ここだ、ここ!」 「あ、またした」 体中に擦り傷を拵えていても元気な華那である。忙しなく首を左右に動かし彼の姿を捜すが見当たらない。それでもなお政宗のくぐもった声が聞こえてくるのだから、華那は不思議で仕方がなかった。 「どこ見てんだ! 下だ下っ!」 下―――華那は声に導かれるまま目線を下げる。彼女の下には柔らかい物体があった。しかももがく様に暴れている。両手両足をバタつかせる、ここにいると言わんばかりの自己主張。 「あ………いた」 「いた、じゃねェ!」 まさか自分の下にいると思ってもいなかった華那は、少々呆けた声で政宗の存在を認識した。本当に気がつかなかったようで、それが政宗には気に入らない。何より人の背中に堂々と座っていること自体気に入らないのだ。先に落ちた政宗の上に華那が降ってきた、彼からすればこんな構図である。落ちた痛みより華那が乗っかってきた痛みのほうが大きかったのは、武士の情けで伏せてやろうと政宗は心に誓った。 「ごめんごめん。政宗がしたじきになってくれたおかげで、あたし痛くなかったんだねー」 ニコニコと、全く悪く思っていない様子の笑顔だったが、政宗はこの笑顔に逆らえないのだ、昔から。自分の頬が赤くなったのが分かったが、その原因が未だ分からないのは華那には内緒である。 「政宗、かお赤いよ。もしかしておねつ?」 「なっ! ねつなんかない」 「だって赤いもん。赤いときはねつがあるっておかーさんが言ってたよ?」 「わっバカ、近づ……」 「―――騒々しい。そこにいるのは誰だ?」 刺さるように冷たい声に、二人は体を硬直させる。否、硬直させたのは政宗だけ。華那はそんな彼につられて体を硬直させたにすぎない。だからこそ彼女の顔はキョトンとしていて、対する政宗の表情だけが硬いのだ。どこから声がしたのかと辺りを華那が見回していると、二人がいる場所から少し離れた屋敷の廊下から、一人の女性がこちらを見ているのに気づく。 この屋敷で女の人がいるなんて珍しい、それが華那の素直な感想だった。日頃からよく出入りしているが、女の人の姿を見たことがなかったのである。「誰?」と訊こうとしたが、政宗が小さな声で「母上……」と呟いたことでそれは実行されずに終わった。 思えば政宗の頬親すら知らなかったのだと、今更なことを思う。政宗の母親は華那の母親とは真逆で、その表情は氷のように冷たく、瞳は何の感情も宿していないように窺える。子供からすれば親というものは太陽のように温かい存在―――少なくとも華那にとってはそうだ。目の前の政宗の母親のように冷たくはない。 どうして冷たいと感じてしまったのか、それは華那には分からない。ただ漠然とそう思ってしまったのだ。遠くから様子を窺っていた母親はゆっくりと歩み寄り、二人の前に立つ。 身長差で否応なしに見下ろされるわけだが、それが妙に怖い。蔑むようにこちらを睨む理由が華那には分からないのだ。だがそれよりも、華那には政宗の様子がおかしいことに、言い知れぬ不安を覚えていた。さっきまでの政宗はどこに行ったのかと思ってしまうほど、今の彼は大人しい。口を開かず動かぬことで、何かを耐えているようだ。拳をぎゅっと握って、今にも震えそうな体を抑え込んでいる。おまけに目を合わせようとせず、ずっと俯いたままだ。 「……そなたが華那か?」 「へ、あ、はい!」 まさか自分の名前が呼ばれるとは、これっぽっちも思っていなかった。こうして近くで声を聞くと、抑揚のないその声にひやりとする。わざとらしいほど無感情の声に、華那ですら怖いと思った。こんなに冷たい人間は初めてだったのだ。こんなに怖い人があの政宗の母親とは、どうにも信じられない。 「………余計なことをしてくれたな」 「はぃ?」 「あのまま部屋に篭っておればよかったものを。またその醜い面を見なくてはならないと思うだけでゾッとする」 「なっ……!」 最初の言葉は華那に向かって、次の言葉は政宗に向けられたものだとすぐに分かった。幼いながらでも分かる―――幼いからこそ人の悪意には敏感だった。理由は分からないがこの人は政宗のことを嫌っている、何故かそう直感した。だから、華那は動いたのだ。 「………何の真似だ?」 「!?」 別に深い考えなど持っていない。ただ隣にいる政宗が酷く怯えていたから、だから華那は政宗の前に立った。彼を庇うように、守るように、これ以上彼を怯えさせない為に。 「華那。そなた、これを庇うつもりか?」 これ―――もはや同じ人だとすら思わないのか。 「華那もよくこんな出来損ないと一緒に居ることが出来るな」 「できそこないじゃないもん」 「………何?」 単純に腹が立った。 「政宗のおかあさんなんでしょ? なんでそんなこと言うの?」 「………勘違いするな。私はこんな出来損ないの母親ではない」 この一言が決定打になった。華那の中で、彼女自身すら分からない苛立ちが臨界点を突破し、体がそれに応えたのである。華那は母親に飛び掛り、その右腕におもいっきり噛み付いたのだ。手加減なしだったので右腕からは少しだが出血し、華那の歯形はくっきりと残っている。 母親は華那の頬を叩くことで彼女を自分の腕から引き離し、追い討ちをかけるようにもう一回叩こうとしたとき、騒ぎを聞きつけた小十郎が現れ、母親は何も言わずこの場からそそくさと立ち去ったのだった。 その後、小十郎が客間で二人の手当てをしていたときだ。それまで唇を噛んで何かを堪えていた華那だったが、ついに堪えきれなくなったのか彼女の口から嗚咽が漏れだした。するともう堪えるのも限界で、そのまま目から涙がポロポロとこぼれだす。それでも声だけは出さまいとしているのか、彼女の口からは喉で引っかかったくぐもった音だけが聞こえてくる。そんな華那の姿を見ながら、政宗と小十郎はかける言葉が見つからなかった―――。 *** 華那は今でも知らないだろう、これが全てのキッカケだったのだ。今の彼女なら、自分があの屋敷でどういう立場にあったのか理解していることだろう。彼女はそれが分からないほどもう子供ではないのだ。勿論、自分も。 あのときどうして華那が泣いたのか、情けないことにその理由だけが未だ分からない。だがこんなことを言ったら呆れられるか怒られるか分からないが……嬉しかった。自分のために泣いてくれているのだけは分かった。 自分の為に―――。母親の言葉を借りるならこんな出来損ないのために泣いてくれた、それがどうしようもないほど嬉しかったのだ。屋敷で耳を塞ぎたくなるような言葉を散々浴びせられ、自分はこの世界にいらない存在なんだとずっと思っていた。だけど―――そんなことなかった。 小十郎がいて華那がいて……それだけで十分だったのだ。それほどまでに大切な彼女だからこそ、あの言葉は痛かった。 政宗なんて―――いなかったらよかったんだ! かつて同じ言葉を母親から数え切れないほど言われたことがあったが、ここまでダメージは受けていなかったように思える。心の支えを失ったような、このどうしようもない虚無感。同時に華那の存在が自分の中でどれほど大きかったか思い知らされた。どうやら自分は、昔も今も彼女しか見えていないし、見ようともしていないのだろう。 いなかったらよかった―――。何度も何度も頭の中でこの言葉が響いてきて、まるで呪詛のようだ。政宗は聞きたくないと言うように両耳を塞いでベッドの中で丸まっていたが、どうやら今夜は眠れそうになかった……。 続 ← |