蝉がうるさい。
 夏休み、竜士の実家のお寺さんに遊びに来た。それはそれはたいそう広くて、さすがお坊っちゃまといった感じだ。縁側に腰掛けて、別に何を話すわけでもなくぼんやり過ごす。竜士くんはと言いますと、どうやら宿題をやろうとしてるらしくテキストを開きだしました。


「真面目なの?バカなの?」
「お前みたいにギリギリで焦る奴とちゃうんや」
「せっかく一緒にいるんだからさー」


 不貞腐れた私の態度に堪忍したのか、テキストを伏せて床に置く。すっかり汗をかいてるコップを手に取り、ゴクリゴクリと喉元が動く様子をつい見つめてしまった。


「…何や」
「いや、喉仏をちょっと…」
「は?」
「拝ませていただきました」
「何のこっちゃ」
「へへ」
「つーかお前、何でそない頬赤いんや?暑いんか?」
「え?」


 彼の手がそっと私の頬に触れた。むしろ今、この触れた瞬間赤くなったんじゃないだろうか。不意に触れられて、きっと今わたしは凄く間抜けな顔をしてるだろう。開いた口をきゅっと結んで、ああ、たぶんこの事を言ってるんだろうと少し冷静になって考える。たぶん、たぶんだけど。現に今は頬が熱いから、自信は減少している。


「チークだよ、チーク」
「チーク?」
「そ、お化粧」
「わざわざ頬赤くしてどないするんや」
「どない…別にどうもしないけど」
「わからん」



 頬から離れた掌は、床につくわたしのの手に自然と乗っかる。ドキッとか、そんな気持ちすら浮かんでこないくらいに自然に。彼の指がきゅっきゅってわたしの指の間に入り込んできて、更にぴったりと重なる。
 夏休みが終わったらまた皆と一緒に授業を受けて、こうやって彼を一日中独り占めすることなんて出来ない。別にわたしは束縛なんてするつもりないし、むしろ嫌いだけど。だけどやっぱり、今こうやってずっと一緒にいられることが特別で、幸せだと気づくと少しだけ寂しいとも思うのだ。当たり前だった日常が、ほんの少しだけ。


「でも竜士はすぐ顔赤くなるから、チーク必要ないねっ」
「は?ならんわボケ」
「なってますよー?」
「ならへん!」


 頑なにそう言う彼の頬は、やっぱりほんの少し赤く染まっていた。


「お前とおったら調子狂うわ」
「え?」
「他の奴やったら、今頃ぶん殴っとるとこやな」


 ぽんぽん、と宥めるように頭を叩かれて。ふと見た彼の横顔を見たら、今まで自分が勝ってたのに急に負けたような気持ちになった。何でだかは、よくわからないけれど。


「なあ」
「んー?」
「散歩でもせえへん?」
「散歩ー?」
「こんなトコおってもする事ないやろ」


 ぎゅっと強く手を引かれて、縁側の下に置きっぱなしだった少し大きめのサンダルに咄嗟に足を突っ込む。
 照れ隠しなのか、わたしの前をずいずいと歩く彼の背中を見て確信したの。たぶん、最初から勝てたことないんだろうなって。だってこんなに大きくて逞しい背中のこの人に惚れた時点で、きっと負けてた。


出会った瞬間に負け


「お前には勝てへんわ」
「……え?」



20120816
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