「鬱陶しい…」
「髪か?切りゃ良いじゃねェか」
「違うわよ、雨。」
「あァ、」


霧雨の空の下、周囲の住宅にはほとんど明かりは見えない。このマンションでさえ、きっとぽつりぽつりとしか点いていないだろう。窓には未だ上半身を露わにしたままの私が映り、窓越しに視線の合った彼に頭を小突かれた。


「いった…」
「阿呆、外から見えるぞ」
「誰も見てないわよ、こんな時間に」
「…こっち来い」


言われるがままベッドに座りこむ。ポタポタと雨の滴り落ちる音は相変わらず耳障りだ。


雨の日は、嫌い。特に彼と会う日の雨は大嫌いだ。
せっかくセットした髪もすぐに湿気を帯びて崩れてしまうし、化粧ノリだって悪い。それに、いつもはマンションのエントランスまで見送るのに、雨の日は玄関までで良いなんて言われてしまう。だから私は、雨が嫌いだ。
ベッドの上に無防備に脱ぎ捨てられていた、少し大きめのTシャツを頭からすっぽりとかぶせられる。彼が私の家に来た時用に買った、地味な黒いTシャツ。先ほどまで着ていた彼の僅かな汗と煙草の香りが、いっそ心地良い。


「シカクさん」
「?どうした」
「シカクさんは雨は好き?」
「そうだなァ、嫌いじゃねぇけどよ…」
「うん?」


枕元に放り投げられていた煙草を手に取った彼は、シュッと片手で一本取り出すとそのまま口に咥えた。目を細めながらカーテンの向こう側を眺める横顔は、アラフォーとは思えないほどの色気を帯びていて。いや、むしろアラフォーだからこそなんだろうか。ただ、それと同時に、この横顔を私のものにすることは出来ないのだとふと脳裏を過ると途端に胸がジンと痛むのだ。


「こうも湿気が多いと火が点きづれェからな」
「身体に障るよ?」
「変に我慢する方が身体に悪ィんだよ」
「…そうかしら」


カチ、と煙草に火を点けるとともに、鼻先に辿り着くのはいつもの彼の匂い。出来るだけ鼻の奥に染みつかせたくて、すぅっといつもより大きく息を吸った。当たり前のようにケホッと少し噎せて、でもそれもいつものことで、当たり前のように彼が背中を擦ってくれる。


「その変な癖どうにかならねェのかァ?」
「だって…」


するすると私の背を撫でる彼の手はとても温かくて、眠気すら襲ってくるほど。この匂いも、この温かさも、夜が明けてしまえば私の元から離れてしまうの。それなのにどんどん沸き上がる独占欲、どうしたものか。
短くなった煙草を灰皿に押し付け、私にかからぬように顔を背けて紫煙を吐く。背に当てられた手はいつの間にやら私の肩を引き寄せ、私の頬はぴたりと彼の胸にくっついていた。


「…ねぇ?」
「ククッ…なんつー顔してやがるんだ」


鼻で笑いながらも、抑えきれぬ思いをぶつけるように唇を重ねてくる。まだ口内に濃く残る煙草の味。この人を手に入れられないなら、せめてこの味だけでも忘れたくなくて。私は煙草は吸わないけれど、寂しくなったらこの匂いを嗅ぐために煙草を買うなんて日常茶飯事だ。
うつらうつらとしてくる意識の中、ポスン、と背中が布団とぶつかる。そして同時に舞い上がる自分の匂いが邪魔くさくて仕方ない。


「まだ足りねェってか?」
「…足りない」
「今日は随分だな」
「あなたが悪いんでしょ?」


「何の話だ」と彼は私の肩に柔らかく歯を立て、私の横に寝転がり再び煙草に火を点ける。
特に何をするわけでもない、ただ二人でゴロゴロとしながら他愛もない話をする時間は嫌いではない。煙草を吸う彼の横顔を覗き見て、「何だ?」と口元を綻ばせる姿に私も思わず笑ってしまう。そしてその流れでつい口走ってしまった言葉で、また元の表情に戻してしまうことになる。


「たまには明るい時間に会いたいね」
「……そうだなァ」


悲しいとも、なんとも言えない表情。
困らせるようなことだけはしたくなかったのに、たぶん、困らせてしまった。


「…ごめん、」
「お前よォ、そこで謝っちまったら俺の立場がねェだろう?」「ん…」
「俺が悪ィんだ」


さっきより早い速度で短くなった煙草をまた灰皿に押し付けて「もう一回」と私が強請ればまた唇をぶつけてくれる。
気付けばざぁざぁ、とまるで空は私の気持ちを表してるかのように泣いていて。苦しいくらいのキスに私も涙が出そうだ。ねえ、明日は会える?また、こうして触れられる?なんて口に出来たら、どれだけ楽なのだろう…なんて。



喉元に薔薇の灰



20121019




×