しかしクラス替えをしてからちょうど夏休みに入る三週間前ぐらいのときだった。噂が回ってきたのだ。苗字なまえがやばいと。前々から危険人物だといわれていたけれど、今回はもっとやばいのだと。どうやら変な宗教に入っているらしく、学校の誰もが彼女を不気味がり、疎ましくおもった。私はいまさらながら、彼女のことが気になった。もしかしたら、彼女がおかしくなったのも私の影響なんじゃないかと。そうおもうと申し訳ない気持ちがこみ上げてきた。そして私は彼女とコンタクトをとることにした。久々になまえと会ってみると彼女は以前よりもすがすがしい表情をしていた。重い鎖から開放されたときに味わうあの爽快感が彼女からとても伝わってくる。私はなまえと近くのファミレスに入った。席につき、なまえと向かい合う。私は彼女に尋ねた。


「最近、どうかしたか」
「どうかしたってなにが?」
「そのままだ」


 なまえは顎に人差し指を当てて考えこんだ。しかしそれも一瞬ですぐにうっとりとした表情をし、話し出した。



「シグマ様がわたしを助けてくれるの」




 シグマ。突然飛び出した謎の言葉に私は耳を疑った。なまえは何を言い出すんだ。とりあえず、彼女が恍惚の表情でいうぐらいだからとんでもなく危ないものだとは察しがついた。私は眉を顰め、彼女に問い詰めた。



「シグマって誰だ」
「とてもすごい人なの。あの人が説く教えはね、世界一すばらしいもので、生まれながら聖職者の運命を背負ったわたしの神様よ。わたしは一生彼についていくわ」


 なまえは私の瞳をじっと見つめてそう語ってきた。そのときの彼女の瞳といったら、おぞましいものを潜ませていた。蛇の瞳のように鋭く、不気味な光を放っていた。私は思わず背筋が凍った。なまえは狂信者だ。恐ろしさにぶるっと体が震えそうになった。彼女はそんな私をお構いなしに話続ける。



「毎日あの人のことを想って生きていると救われる気がするの。だからわたしはあの人に自分の全てを捧げるの。そうするとご褒美がもらえるの。だからわたしは頑張る。あの人のために、あの人のために、あの人のためにわたしは生きる」


 なまえが僅かに前かがみになり、胸元から刺青が見えた。数学でよくみかけるシグマの記号の刺青だった。彼女は私の視線に気がついたのか、胸元に指をひっかけ、私に見せつけてきた。


「この刺青はシグマ様に忠誠を誓う信者だけがいれているものなの。ねえシグマってしってるでしょ?数学でいうと総和記号の意味なの。総和、それは全てを加えた数。わたしはあの人の一部なの」


 私は言葉を失った。シグマとやらを語るときの彼女はとても妖しくてまるで彼女の背後にはシグマとやらが立っているかのように錯覚した。私はその言葉にならない威圧感に表情を凍らせ、なまえを見つめることしかできなかった。なまえは不気味な光を放つ瞳を細ませた。


「最初はあなたが離れていったことに寂しくて仕方がなかったけれど、もう大丈夫よ。わたしはもう寂しくない。だからわたしのことはもういいからね。なんたって、シグマ様がいてくれるからね」


 そういうと、なまえは席を立った。どうやらもうすぐお祈りの時間らしい。私は待て!と叫び、彼女の手首をつかんで引き止めた。すると彼女はにこにこと笑いながら、風介も入る?と勧誘してきた。もちろん入るわけがない私は彼女の誘いを首を横に振って断った。そうと悲しそうな声を出すと、するりと私の手から抜け、そのままファミレスからでていった。私はなまえを止められなかった。



 それから夏休みに入ったときのことだった。私は突然なまえに呼び出された。午後六時ごろに学校の近くの公園に来てということだった。私はなまえの意図が理解できず、まさかまた勧誘されるんじゃないかと訝しげに思った。が、一応行くことにした。午後六時ごろ、指定された公園にいってみるとすでになまえの姿があった。なまえは錆付いたブランコに一人乗っていた。私の姿を見るなり、風介と嬉しそうに駆け寄ってきた。このとき、私は久しぶりの彼女のまともな姿が見れた気がした。以前のように瞳に不気味な光が差していない彼女を見る限り、今回は勧誘されないようだ。私の顔が自然と綻んだ。


「どうしたんだ、なまえ」
「あのね、風介……」


 そういって彼女は突然私に抱きついてきた。暖かくて柔らかい肉体が私に絡みつく。なまえの予想だにしなかった行動に私の頬はほんのりと朱にそまった。




「なまえ……!?」
「あのね、あのね、やっぱりわたしは風介のことが好きみたい。昔から風介が大切だったの。わたしは風介のこと愛してるの」



 なまえの突然の告白に私の頭は混乱し始めた。どうしてよいかわからず、彼女の言葉を黙って聞いていることしかできなかった。いまさらになってあのときどうしてなまえの面倒を見ていたのか、わかった気がした。それはわずかに私がなまえを愛していたからかもしれない。ミジンコのようにわずかだけれど、好きだったのだ。私は心を落ち着かせて考えた。なまえが宗教を抜けるきっかけを作るのは、もしかしたら私のおかげなんかじゃないかと。いや、私にしかできない役目だ。今のなまえなら面倒を見てもいいと、心のどこかで思った。私の体にぎゅっと抱きつくなまえにそっと声をかけようとした。そのときだった。私の胸に顔をうずくめていたなまえがそれよりも先に声をつむいだ。



「だから、今日はお別れを言いにきたの」


 私はなまえの言葉に思わず耳を疑った。だんだんと表情が凍りついていく。それでもなまえは続けた。



「明日ね、シグマ様と共に新世界へ飛び出すの。シグマ様によるともうすぐで地球に隕石が衝突するんだって。だからそれで滅びるよりも先に別世界へ行こうってシグマ様がいったの。幸い、この地球には新世界へ行く通路があるらしいから、シグマ様についていけば助かるんだって。新世界にいって、創世を共に。シグマ様がそういってくれたの。だからいってくるねわたし。今日はそのために愛する人にお別れをいいなさいって日なの。だからね、さよなら。風介」



 彼女は私の体から離れ、微笑んだ。私は彼女を必死に引きとめた。だけれど、彼女は聞き入れなかった。それどころか、私のことをおかしいといい始め、途端に攻撃的になった。そして彼女は私の手からするりと抜け、さよならといって去っていってしまった。私は後を追いかけようとしたけれど、足が鉛のように重く、地面に根を生やしていた。彼女は昔からそうだった。ふと目を離せば蝶のようにふらふらとどこかへいってしまう。そして厄介なものを引き連れる。信じやすい癖があり、すぐに人の言うことを信じてしまう。そして彼女の心の闇を救ったシグマという存在。やつがこの世にいる限り、彼女を救うことは誰にもできなかった。そう、誰にも。



 それからしばらくして集団自殺事件が新聞やニュースで取り上げられた。彼女の姿はあれから誰もみていない。





「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -