放課後、普通どおり帰宅としたわたしは教室を出ようとした瞬間、ドアの向こう側で待ち伏せていた綱海に捕まった。綱海は戸惑うわたしなんてお構いなしらしく、遊ぶぞとわたしの二の腕を掴んで駆けていった。綱海とわたしは俗に言う彼氏彼女の関係なので、別に無理やりひっぱられてデートしてもそんな気にはとめなかった。(本当は合意の上でしてほしいけれど)そんなわたしのデートは大概お互いの家で遊んだりとか公園を散歩したりするのが大半だった。けれど、今日は違った。わたしは最も行きたくない場所、海に連れて行かれたのだ。


 筋金入りの金槌のわたしはまず泳ぐことすら嫌いだった。そして海となるともうそこは恐怖の塊でしかなかった。突風のように猛威を奮う波をたたせる青々とした塩水の中には哺乳類とは違う種類の生物がうじゃうじゃといる。それに加えて、その生物の中には人よりも巨大かつ凶暴なものがおり、不快感しか湧いてこない水の浮遊感の中でもがき苦しむ人間を鋭い牙で噛み砕き、ペロリと食べてしまうのだ。そんな海にわたしは入れるわけがない。怖い。足首まではいいけれど腰までつかると、もはや生命の危機を感じる。まだ陸にいるときに熊に襲われたほうが生きていられるような気がした。


 そんな恐ろしい海に綱海は毎回軽々と入ってしまうのだ。わたしはいつも砂浜に座ってサーフボードを乗り回す綱海を眺めているだけだった。どうやら綱海は一人ポツンと砂浜にいるわたしを見るのがいやらしく、何度も一緒に入ってみようとわたしの手を引っ張った。絶対海に入りたくないわたしは重石のように腰を居座らせ、てこでも動かなかった。一緒に海に入って遊ぶことが綱海の理想のデートだそうだけど、それは一生叶わないものだとわたしは心の中で悟り、ごめんと密かに謝った。


 しかし、今日の綱海は少し違った。綱海はわたしに力づくでゴーグルを被せると、まるで樽を抱えているかのようにわたしのことを軽々と脇に抱え、堤防まで走っていった。突然のことに呆気をとられたわたしであったけど、だんだんと海へと追い詰められている自分の状況を理解し、綱海の腕の中で暴れた。


「ちょっと離して!!ほんと無理!無理です!」
「やってみねえとわかんねえだろ?」


 腕に籠める力を強め、ニカっと笑い、白い歯を見せる綱海。この笑顔はわたしの好きな笑顔だけど、このときはイラっとした。いつもは手を引っ張るだけで、それ以上はわたしのことを考えてやんわりと諦めていたのに、今日はその諦めのかけらも見えなかった。そして気が付けば堤防へとたどり着き、絵に描いたみたいに青々と輝く、底が見えないくせによく澄んだ海が目と鼻の先にあった。ぞおっとわたしの背筋に悪寒が走った。綱海がわたしを地面へとおろした。足裏にコンクリートの感触がした瞬間、全力ダッシュで逃げ出したかったけれど、綱海に腰にしっかりと腕を回され、逃げ出せそうになかった。わたしは顔を真っ青にしながら、低い声を漏らした。


「いや、ほんとに無理です、まだ死にたくないです」
「んな気にすんなよ、大丈夫にきまってんだろ!」



 綱海は適当に返事を返しながら、片手でわたしのおでこにあったゴーグルを目元に装着させると、頭のてっぺんから足の付け根まで視線を配らせた。制服だから無理と断っても、洗えばいいだろと聞かなそうだし、それよりわたしの泣き言を左の耳から右の耳に流しているようだった。チェックが終わった綱海はよし、と満足そうに笑った。自分もゴーグルを装着し、その笑顔をみて体を凍りつかせたわたしを問答無用に再び抱えた綱海は、なんと海の中にわたしもろとも一緒に飛び込んだ。宙に浮く浮遊感は一瞬にして終わり、音を立てて思いっきり海の中へと綱海とわたしは落ちていった。最後まで足掻いていたせいか、変な体制で入ってしまい痛かった。ぶくぶくと口から白い泡を出し、海の中で足掻いた。溺れているといったほうがいいかもしれない。制服の重さに何度も沈みかけながらも必死にもがいて水面を目指した。水面へと昇ったわたしは勢いよく顔をだし、息を大きく吸った。水をすった制服のせいでまた沈みそうになったけど、器用に足を動かし浮かぶ綱海がわたしを支えてくれたので、再び沈むことはなかった。突然のことに目を白黒させ、海の中にいる恐怖感から頭がパニック状態になったわたしは綱海の首元に腕を回して、しがみついた。



「どうだ、海の中気持ちいいだろ?」
「どこが!!怖い怖い!!今すぐでたい!ふざけないでよ!綱海!」



 がくがくと震える口元にせいか、声が震え、裏返った。そんなわたしを見た綱海は眉をハの字にすることもせず、何時もどおり太陽みたいに明るい笑顔を浮かべると、わたしの背中に腕を回し、しっかりと抱きしめ返した。しっかりとした腕の筋肉に華奢に見えるくせに厚い胸板など男の子らしい体つきに包まれたわたしはハートを矢に射止められたかのようにときめかせてしまった。 
 
 だけど、そのときめきも瞬く間に終わり、気が付けば再び海に沈んでいた。身体に押し寄せる恐怖感にもがこうとしたけれど、次第にもがこうと思わくなった。綱海がしっかりとわたしの身体を抱きしめ、包んでくれていたのだ。綱海に抱きしめられているととても安心した。水の中の独特の浮遊感をあまり感じず、生温かいぬくもりが綱海の胸元からわたしの胸元にじんわりと伝わってきた。綱海の顔へと視線を向けると、綱海はとても優しい瞳でわたしを見ていた。綱海もゴーグルをしていて、どんな目元をしているのかは詳しくはわからなかったけど直感がそう知らせていた。ひだまりのように温かく、柔らかいベールに包まれているように感じさせるその瞳はふんわりと細められ、少しこそばゆく感じた。水の中にやわらかにさす太陽の光のせいかもしれない。波に揺れるその光に照らされる綱海を見ていると、安らぎに溶け込んでいるみたいに思えた。

 わたしが綱海に見惚れていると、綱海は口元にふんわりとした笑みを浮かべると、いくらか角度を変えて、ゆっくりとわたしの口元に唇を近づけ、そっと、静かに、優しくキスをした。ちなみに初めてのキスだった。初めてのキスはレモン味とよくいわれるけど、わたしの場合とてもしょっぱい塩の味がした。豪快にキスしてきそうなイメージのある綱海がこんなにも優しく、繊細にキスをしてくるなんて思いもしなかった。綱海のキスにわたしの中の恐怖感が吹き飛んだ。代わりに陶酔感に身体全体は満たされ、喜びのあまり涙がでそうになった。もうこのまま綱海と一緒に海の中に溶けてもよかった。心から幸福感が溢れ出し、感動に身体が震えた。それぐらい幸せだった。触れるだけのキスが終わり、綱海は足で水を掻き、水面に上がった。


 そのあと、綱海はわたしと目を合わさず、わたしの腰に腕を回して器用に陸へと泳いでいった。すぐに陸へと近づき、足が底につくぐらい浅くなったときには綱海はわたしの腰から腕をはずし、代わりに手を握ってゆっくりと砂浜を目指して歩いていった。足の裏に渇いた砂がつきはじめるころ、綱海はわたしに振り返った。だけど、わたしと目が合った瞬間、ふと右下へと視線をずらし、やんわりと染まった頬を人差し指で掻いた。



「えっと、その……な、あれだ」


 綱海は緊張しているのか、意味もない単語を紡いだ。綱海をみているとわたしまでその緊張が伝わってきて、ぎこちなく感じたわたしは綱海同様右下へと視線をずらした。しばらくわたしたちの間に沈黙という時間が流れたけれど、意を決したのか、綱海ははにかみながらわたしの大好きな、太陽のようにまぶしい笑顔をみせた。



「ファーストキス、しょっぱかったな」






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