hesitation (セルゲイ+イーヴリン+歩) 愛しさへの期待は、それ以上の不安をも伴う。 ―ヘジテーション― 「アンタって結婚しないの?」 春麗らかな日の午後。リンツェ家の中庭にて、イーヴリン、セルゲイ、歩の三人で楽しく洒落込んでいた茶会も、そろそろお開きだろうかと前者二人が考え始めた頃。 前触れ無く放たれた歩の言葉に因って先程までの和やかな空気が一変、よそよそしいそれへと変わった。イーヴリンは平静を装っているものの、やはり興味はあるのか不自然ではない程度に視線は泳いで、セルゲイはというと黙々と紅茶を啜っている。 「…えと、そんなに変な質問…した?」 不自然な空気が流れる中、流石に不味い質問だったかと、歩は顔を引き攣らせて二人に問い掛けた。 「いいえ?わたくしも気になりますわ、彼が何時まで独り身で居る気なのか」 「………」 にっこりと天使の微笑みを歩に向けて言葉を返したイーヴリンが、チラリとセルゲイを一瞥する。けれど、彼の方は突如振られた話題に黙秘を決め込むつもりなのか自身の幼い主を見る事無くカップをソーサーに戻すと素知らぬ振りをしてゆっくり立ち上がった。 「おい、お嬢ちゃん」 「え、な、何?」 「早いトコ帰らねえと日が暮れちまうぜ?」 その言葉に辺りを見回せば、確かに日暮れが近い。心配性な看護婦の少女と司祭を思い出して、歩がサッと顔色を変えた。 「やっばぁ!あんまり遅くなると後が怖いから私帰るわ!」 「送らせましょうか?」 歩が立ち上がったと同時にイーヴリンもまた立ち上がり、小首を傾げる。 「…あー…や、いいっ。それじゃね!」 苦笑して緩く首を振った歩が踵を返す。そして、振り返りもせずに勢い良く駆け出して行った。 「……誤解されたのではなくて?」 遠ざかる背中を見送りながらイーヴリンがぽつりと呟く。独言の様でいてその実叱責の意を孕む言葉を掛けられた相手もまた、あっという間に見えなくなった少女の残像を眺めていた。 「何が」 「あからさまでしたわ」 誰に送らせる、などとは言わなかった。けれど、今迄共に居たのだから言わずとも必然的にセルゲイに役目が与えられる。だがその瞬間彼は、端から見ても解る程に顔を歪めたのだ。 「らしくもないミスですわね」 「悪かったな」 淡々と告げられる言葉。だがしかし、可愛らしい声の中に含まれた呆れと微かな怒気を感じてセルゲイは溜息を吐いた。 「宜しいんですの?」 「何が」 「このままで」 「……どういう意味だ」 送るのが嫌だと、誤解をさせた事だろうか。それとも。 「何時までも此処に居て下さる訳ではなくてよ」 「………」 前方を見据えた儘、少女にしては低く放たれた言葉に、双眸を閉じて大きく息を吸う。ともすれば震えてしまいそうなそれを極力静かに吐き出してセルゲイが笑った。 「……知ってるさ。だから何だってんだよ」 「情けないですわ」 ぴしゃりと、二回りは年下の少女に冷たく罵られて思わずセルゲイの唇が苦笑の形を作る。歳に似合わぬ程の経験を早足で済ませた彼女はそこらの人間よりも視野は広くそれでいて聡明である。けれど、やはり未だ子供なのだ。 「お前な…」 「何を迷う事があると言うのかしら?」 「……」 真直ぐ眼を見据えて放たれた彼女のそれは、己の心中を得心している様でいて、未だ遠く最奥までは及ばない。 「…大人には色々と複雑な事情があるんだよ」 「行動力の無い大人が使う言い訳にしか聞こえないわ」 「……お前な」 いつからそんなに拗れた性格になった、とくどくど小言を垂れてやりたい心境に陥った彼であったが、内心図星を突かれたと思ってしまった自分には情状酌量の余地も無い。苦笑して溜息を吐くしか出来ないのが恨めしい。 「………」 確かに言われた通りだ。自分は、恐れている。手に入らなかった時と、そしてそれ以上に、手に入ってしまった時の事も。結果が得られる様な行動を未だ何もしてはいないクセに。 渋い顔をして黙り込んだセルゲイを横目で見上げて、イーヴリンは内心で溜息を吐いた。傍目から見ても、二人は悪くない雰囲気を醸し出していると思っていた。互いに求め合ってくれれば、若しかしたら歩は此方に残ってくれるのではないか、とも。だが、今日の二人は何処かがおかしかった。普段なら触れもしない話題を持ち出したり、普段なら崩れもしない余裕の仮面が呆気無く割れたり。 茶会を始めたばかりの頃は何等問題は無かった筈だ。それが、夕暮れが近付くにつれて口数が少なくなっていったとそこまで思い出して、イーヴリンは今度こそ本当に溜息を吐き出した。 『何時までも此処に居て下さる訳ではなくてよ』 自分は確かにそう言った。その通りなのだ。一日が終わる度に、歩が帰る日も近付いている。正確な日にちは知らないが、それでも確実に。未だ何も行動を起こしていない二人が焦るのは当然の事。 咄嗟の問いは揺れる虚勢と不安を、歪めた顔は揺らぐ理性と躊躇いを。 (ここまで解り易いのに、何故…言わないのかしら) 至極不思議そうに首を捻るイーヴリンを見下ろして、セルゲイは居心地悪そうに頭を掻いた。イーヴリンは気付いていない。彼女が欲しい物を欲しいと言えない様に、セルゲイと歩もまたそうなのだという事に。 自分勝手に求めて、相手や、周りや、その後に掛かる負担の事を考えると、結局何も言えず動けないのは同じなのだが。 (…問題の次元が違うんだろうな) どちらにせよ、運命の日は迫っている。着かず離れない曖昧な距離と関係の中にある、心地良い空間がもうすぐ、無くなる。 (…どう、すれば) 誰かが零した呟きが、鮮やかなオレンジ色に染まった空へと溶けて、消えた。 終わりの時は、近い。 END |