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「−風邪です」
「…そうですか。ありがとうございます、では僕は忙しいので失礼しま…」
そそくさと退室しようとしたら、腕をがっちり掴まれてしまった。

「こ、ら!まったく、自分がなんで風邪引いたかわからないの!昨日はひどい大雨だったのにずっと外にいたんだってっ?」
「う…誰からその話を?」
「君のクラスメイトだけど」

「ち、あのナルシストまゆ毛…余計なことを…」

ぼそっとそんな悪態をついたら拳骨がとんできて綾部は涙目で正面に座る保健委員長を睨んだ。

「君は今日一日ここで安静にしてもらいます」

それはまるで死刑宣告でもされたかのように綾部の心臓を突き刺した。

「善法寺先輩」
「なに」

「僕にはまだたこつぼのターコちゃん7号と落とし穴のトシちゃん31号を作りあげるという忍務が…」

「あ!ん!せ!い!」

普段は優しい先輩をこれ以上怒らせては駄目だと本能的に悟った綾部は口をつぐんで伊作の指示に従うしかなかった。
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「…けほっ…んぅー」

少し寒い気がする…。
もぞもぞと掛布を頭までまふっとかぶりちょっとでも暖をとろうと身じろぐ。
とても静かだ。
先程まで薬草を煎じていた伊作は午後の授業が始まると言って用具委員長と一緒に出て行った。
保健医の新野先生は先日から出張でまだ戻っていない。

(静かだなあ。そして薬くさい)

綾部が医務室に留まるのを拒否した理由はこれだ。医務室のこの独特の匂いが苦手でしょうがない。薬が嫌いというわけではないのだが……

(いや、薬は美味しくないし、あまり飲みたくない)

…薬も嫌いで、たまに痛いこともされるから極力近づきたくない場所なのだ。

「−−ふう…」
ひとつ、深呼吸をする。薬草と治療器と、他にもいろいろ混ざって肺に送りこまれて少々眉間にしわを寄せた。しかし嫌いな香りの中に微かに混じる、嗅ぎなれてしまった匂い。

(ここはあの人の匂いがする。僕の堀った穴に毎回毎回落ちてくれるから、薬の匂いと少し土の匂いも混じっているんだ…)

「…む…っくしゅ!…ズズ…駄目だ。落ち着かない」

綾部は鼻をすすってむくりと起き上がる。それから、足下に置いてあった手鋤のテッコちゃんを取ってふらふらと医務室を出て行った。

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どれくらい時間が経ったのだろう。綾部は先ほど完成したたこつぼの中でボーッと、灰色の空を見上げていた。また今日も、雨が降りそうだ。
彼はこうやって、出来たばかりの落とし穴やたこつぼの中でまったりとする時間が好きだった。昨日も穴の中で空を見上げているときに雨が降りだしたのだ。
「はっくしゅ!…っくひゅ…ふう」

そろそろ戻ろうかな、と考えて、でも医務室は嫌だな。と思う。

(あぁ…でも戻らないと善法寺先輩に怒られる)

くしゅんっ、ともう一度くしゃみをしたとき。
「すぅー…っこらーーー!!!!喜八郎ーーーーーっっ」

大声で怒鳴りながら保健委員長がこちらへ走ってくるのが見えた。ものすごく怒っている。
「善法寺先輩、そんなに怒鳴らなくても聞こえてますー」

綾部は何食わぬ顔で両手を口の周りに添えて返事した。

「あれほど大人しく寝ておけと…っ!」

「あ、駄目です先輩。ここへ来ないでくださ……」

「はあ!?何言ってっっ…て、うわあああぁ!!!!?」
綾部の側まであと数歩という所まできて、不運委員長の悲痛な叫びが土の中へ吸い込まれていった。
「おやまあ。だから来ないでくださいと…」

たこつぼの前に完成させていた出来たてホヤホヤの落とし穴の淵にしゃがみ込んで下を覗く。
「いっ……たたたたぁーー…」

湿った土でぼろぼろに汚れた伊作が狭い穴の中で身じろいで、ぎっと上にいる綾部を睨んだ。
「喜八郎、絶対安静だと言ったのにどうして出て行っちゃうんだ!っていうかこの穴、その体で堀ったのかい!?」

「…僕は大丈夫ですよ。ちょっと寒気がして目が霞んでて咳と鼻水が……っくしょ!…そぇより先輩ろほうこそ大丈夫ですかぁ?」

「もー!!!!!!僕のことはいいから!今上がるからそこで待ってなさい!」
罰としてものすごーく苦い薬湯作るから覚悟するように!!と叫んで懐から苦無を取り出し上へ登ろうと…したのだが。 
「んん…苦い薬湯は嫌です。……というか先輩…ちょっと僕…もう限界…」
「え!?ちょ、待っ!!!!」
綾部の身体がぐらりと傾いだ。そして前のめりに…彼も落ちてしまった。伊作はとっさに苦無を足下に転がして両手を広げ、綾部を抱き止める。しかし衝撃で尻餅を付いた。

「ぐぇ…ったた。ほら、こんなに熱もあるじゃないか。どうして医務室を出て行ったんだい?」

ぐったりした綾部のうなじに手のひらを押し当てて尋ねる。

「善法寺先輩が…心配してくれるから…それに医務室はきらいなんです。薬もきらいです」

綾部は伊作の胸に顔を埋めて譫言のように小さく呟いた。
「…心配するさ。大事な後輩なんだから。それに嫌いでも早く良くなってほしいんだよ。…大丈夫かい?」

よしよし、と背中を撫でられるのが心地良い。綾部は伊作の首筋へ、無意識に鼻をこすりつけた。
「でも、先輩の匂いは好きです…」

「え?何か言った?」

様々な薬品の匂いと、よくわからない匂いと…今日は湿った土の香り。医務室に居たときより落ち着くのはどうしてだろう。
そんなことを心の隅っこで思って、綾部は静かに寝息をたてた。


不運と落とし穴。

後日、心配してくれた先輩に風邪を伝染して綾部は治ったのでした。

****おわり。
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