Please,マネー
怪しいなあとは思ったのだ、頭のはしで。
それ前見えてますかってくらいニット帽を深くかぶり、黒い春コート、濃紺のジーパンを着用した男がむこうから歩いてくるのが見えた。
ああいう自分をさらけ出せない人ほど犯罪に手を染めるんだろうなあなんて失礼なことを考える。
――あれ、今あたしすごく哲学的なこと考えたんじゃない!?
右手を顎にあてわずかに首をひねる。
犯罪に手を染める奴が全身を衣服で覆うのではなく、
この巧みなコミュニケーションが必要とされる時代に自分を隠す人こそが犯罪をおこすのではないか!?
そこまで考えてあたしは自分の有能さに改めてて微笑んだ。
――だから、まさか自分がその『犯罪』に出会うなんて思ってもみなかったのだ。
本当に何気なく、息をするみたいだった。
ドンッ
「あっすみませ…」
さっきの男とぶつかったあたしはよろめきながら謝ったが、妙な喪失感に立ち止まった。
―――――え?
「あれ?」
手ぶらになってた。
はっと後ろを振り返る。
ちょうど男が駐輪場にとめてあった自転車をひっつかみまたがって走り出すところだった。
「どっ…泥棒ォォォォォォォォォォォォ!」
我を失ったあたしは目の前の自分の黒い自転車、或はそれによく似たもの――なんせそれどころではなく確認もしなかった――に跨がりカタパルトの如くこぎ出した。
「待ちやがれェェェてめェ一体その鞄がどんな価値を持ってると思ってんだァァアア!」
あたしの食料!
あたしの残金!
あたしの生きるすべ!
黒い影をひたすら追いながら我ながら素晴らしいマッハで走り続ける。
これはもしかして頑張れば追いつけるのではないか。
『女子高生、ひったくり犯撃退!』
明日の新聞の地域面の見出しはこれで決まりだ。
未来にほくそ笑んで全力を出そうとしたときだった。
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