社畜飼育日記。 | ナノ





翌朝、ボロボロになった彼の部屋を見て、呆然とした。

高崎くんのアパートは、外観こそ古いが部屋の中は物が少ないせいかあまり汚くは見えない。それが今はどうだろう。床に散乱した酒の瓶、ボロボロに破れたカーテン、ヒビの入った窓ガラス、極め付けは、

「これ、叶絵さんがやったんですよ。
覚えてます?隣の人、血相変えて怒鳴り込んで来ましたもん」

一箇所だけ円状にへこんでいる壁。ここは角部屋だが、向き的におそらく隣人が住んでいる方の壁だ。私が素手でこんな事出来るはずがない。一体どうやって、…という疑問は、そのすぐ下の床に落ちていたゴルフクラブが解決してくれた。

「…嘘、でしょ、」
「嘘だったらどんなに良かったか」

普段落ち着いている様子の彼が、今日はよく喋る。それはきっと抑え切れていない怒りの所為で。
私はアルコールで痛む頭を押さえて昨日の記憶を手繰り寄せる。
OB会に行って、高崎くんが映画同好会の後輩だったことが分かって、それから、…ヤスハル先輩が結婚する事を知って。

そのあとヤケ酒して、飲み足りなくて高崎くんの家に来たんだ。どうなってもいいや、だなんて思いながら。ぼんやりと思い出したのは、この部屋で高崎くんに散々愚痴を言って、絡んで、泣いてー…

「で、手当たり次第部屋中のもの投げたんですよね。何を思ったか玄関からゴルフクラブ持ってきて壁殴って。俺も殺されるかと思った」
体感気温は低いのに、背中を変な汗が流れて行った。

血の気が引く、とはまさにこの事か。
何年も前、酒を飲みながら別れ話を切り出してきた元カレを殴って怪我させてしまったことがある。その時は軽く痣になったくらいだったけれど。
自分は酔って怒ると周りが見えなくなってしまうようで、しかも気も短くなってしまうみたいで。
「…ごめん、なさい…」
とりあえずその場に手をついて深々と謝る。高崎くんは溜息を吐いて私の名前を呼んだ。

「とりあえず……、俺仕事行くんで。叶絵さんは休みですよね?片付けておいて貰えますか」
「え、今何時、?てか今日土曜日なのに仕事?」
「6時半です、ちなみに土曜出勤とかデフォなんで。夕方には帰れるんで、鍵、預けときます。じゃあ、」
「ちょっと、えっ、待っ」

ガチャン、と重い玄関の扉が閉まる音がして、高崎くんは部屋を出て行ってしまった。テーブルの上には小さい猫のキーホルダーが付いた、銀色の鍵。

「嘘でしょ……、」

朝日が昇りきったらしいカーテンの外は明るくなって、鳥のさえずりが聞こえる。
…自分がしてしまった事の責任は取らなくちゃいけないよね。さっさと片付けて、迷惑をかけたらしい隣の人へ謝って、窓ガラスと壁はどのくらいあれば直せるだろうか。少し苦しくはなるけれど、貯金を崩してある程度のお金を置いておこう。それならきっと文句は言われないだろう。

その前に、…せっかくの休み、6時半に起きるなんて勿体無い!
まだ眠いし、頭痛も酷い。ここまで散らかってしまった部屋に手をつける気が起きなくて。私は敷きっぱなしの布団に横になった。我ながら図太い神経しているのかもしれない。目を閉じると、すぐに意識を手放した。




けたたましいチャイムの音で目が覚めた。部屋にあった黒い時計の針は14時を少し回ったところなので、8時間近く寝ていたことになる。やってしまった。
そのうちにチャイムに加え激しくドアが叩かれる音もしたので、のそりと玄関へ向かう。勿論片付けなんてしていないので物が散乱した床に気を付けながら。高崎くんの帰りは5時過ぎって言っていたけれど、今日は土曜日だしもう仕事が終わったのかも。私に置いて行った鍵しか持ってなかったなんて言ったら少し間抜けだなぁ。片付けていない言い訳はどうしよう、なんて考えながら玄関を開けると、
「え、…あの、」
そこにいたのは、顰めっ面をしたお婆さん。70代くらいに見えるが、眉を引きつらせているのでより皺が目立っている。
「……アンタ、アイツの女かい」
「は、…アイツ?」
「物分りの悪い女だね。ここに住んでるだろ、高崎良生今はいないのか」

ああ、高崎くんの下の名前は良生だったっけ。飲み会の時にちらっと聞いたぐらいだから忘れていた。

「あ、えーっと…、今は仕事に言ってる、みたいです…」
「また仕事かい。
じゃあアンタ、アイツ伝えといてくれ。

遅くても来週中にこの部屋出て行きなさい、って大家が言ってたってね」

……ん?
この人大家さんなんだ、じゃなくて、今なんて言った?
「ちょっ、何でっ、どーゆう事、ですか?そんなのは直接本人に言った方が、」
お婆さん、もとい大家さんに詰め寄ると、背の低い彼女は私をジト目で見上げた。
「アンタら昨日の晩の事覚えてないのかい。…邪魔するよ」
「えっと、あ、勝手に、」
狼狽える私を押し退けて大家さんはずけずけと部屋の中へ入り込んできた。そして台所から部屋中を見回して、ため息を吐いた。

「夜中に暴れてガラス割って壁壊したのはアンタかい?この隣の谷口さんと下の木村さんが今朝私の所に怒鳴り込んできたよ、どうにかしてくれって」
本日二度目の冷や汗。
確かにその行為の犯人は私、らしい。だけどそれは私が泊まった今回限りの事であって、高崎くんが普段通り過ごせば同じ事は起きないし、もう私はこの部屋に来る予定もない。

「あの、昨晩の事は本当に申し訳ありませんでした。
ガラスとか壁の修理代は私が払うので、彼の事は怒らないで下さい。丁度良かった、幾らくらいあれば足りますか?」
「…まあそれ自体は数万なんだけどね、近々アパートを建て替える予定があってね。しばらく出て行ってもらおうと思って」
「…はい?」

数秒考えて、なんだ冗談か、と解釈して笑うと、大家さんもにっこり笑った。
「これもいい機会じゃないか。学生の頃から10年以上面倒みてるんだ、そろそろ出てってもらうよ」

そうなんだ。高崎くんも大変だな。
さっさと修理代だけ払って、関わらないようにしよう…

「アタシはずっとあの子の事が心配だったんだ。学生の時もバイト三昧、今も仕事仕事で女を連れてきた試しもない。あっと言う間にもう直ぐ30だ、なんの楽しみもなく生きて、死ぬまで一人でここにいるんじゃないかって」
「……はぁ、…確かに」
彼のことはよく知らないが、言う通りそんな雰囲気はある。大家さんが少し泣きそうな顔をしているように見えた。下宿人思いで優しい人だったんだな、と思った、が。

「だから、アンタ!
あの子をここから連れ出してくれ。
アンタの家で一緒にでも住めばいいさ」

……は、はぁ!?

何言ってるの、大家さん!
なんで私と高崎くんが、一緒に?

「い、いや、あの…!私と高崎くん、別に付き合ってるわけじゃないので!」
「そうなのかい?まあでもアイツが女を連れてきたのは初めてだ、少なからず好意はあるんだろ。頼んだよ」

ちなみに来週には清掃業者の予約取っちゃったから。

大家さんはそう言い残して部屋を去って行った。

…間に受けない方がいいいいよね。
強制退去だとしても、高崎くんにだって泊めてもらえる友人の一人や二人いるはずだ。私が面倒見る義理はない。
とりあえず、高崎くんが帰ってきてから話し合おう。

……「片付けといて貰えますか」と言ったときのあの心底怒った顔を思い出した私は、一応できるところは片付けておくことにした。







「あ、おかえり〜」
「え……叶絵さん?なにして…」
「なにって、夜ご飯。にしても高崎くん、ほんとに今日仕事だったの?もう七時だよ?」
元々掃除は嫌いじゃない。
昨日の夜ここに来たときと同じくらいに綺麗にして、冷蔵庫の中には麦茶ぐらいしかなかったので近くのスーパーで食材を買ってきて簡単に夜ご飯を作った。
わたしなりに誠意を見せて、少しでも高崎くんの機嫌をとる作戦だ。
簡単な煮物、お味噌汁、盛り付けるだけのサラダ…お米は米びつに少し残ってたから、一合だけ炊いた。

「…腹、減った」
「高崎くん、そればっかだね。食べなよ、ほら」
私がお箸を渡すと、慌ててスーツの上着を脱ぎ捨てた高崎くんは小さな声で「いただきます」と言った。

「……うまい」
煮物を一口かじって、そう漏らしてすぐに全部平らげてしまった高崎くん。
お米、一合じゃ足りなかったよね。男の人の胃袋舐めてた。

「叶絵さんは、食べないんすか」
「いや、私はもう、帰るから。高崎くん、これ」
さっき買い物に出たときに下ろしてきた、お金が入った封筒を差し出す。
とりあえず、窓や壁の修理に使ってもらうための10万円。
……高崎くんは封筒の中身を全部受け取るだろうか。

「…いりません」
「! でも、」
一応お金を用意してきて誠意をみせた私。
いらない、と言われても一度は食い下がってみる。
ずるいけど、「男」である高崎くんのプライド的なものを利用するんだ。
「いいから。お金はいらないです」
…そう、なるよね。
いらないって言われたら仕方ない。
でもさすがにいくらかは置いて行こう、と思ったら……


「修理代は俺が払います。
……なので、叶絵さんの家に、住ませてください」


「……はい?」

何を言ってるんだこの男は。
住む、って、本気で?
どうやら一階に住む大家さんに話の流れを聞いてきたらしい高崎くんは、眼鏡の奥の目をまっすぐ私に向けて言った。

「新しくアパート借りるにも初期費用ないんで、その間、寝泊まりだけさせてください」

「ちょっ、ちょっと、何言って…」

全部事実だとして、他の友達とかは?
なんで私が、あなたと一緒に住まなきゃいけないの?

疑問だらけの私がいろいろ言うと、高崎くんは、

「俺、家なんて寝に帰るだけですよ。つまりほとんどいない。もちろん家賃とか光熱費とか、半分払います。叶絵さんにとって、悪い条件じゃないと思いますけど」


…ほとんど一人暮らしと変わらないのに、今までかかってた生活費が半分になる。
自分で壊した窓やらなんやらの弁償代も、払わなくていい。

絶対、悪い条件ではない。
あとはわたしが生理的に受け入れられるかの問題と、……

「まあ、昨日あれだけ悲しんでたんだからしばらく恋愛はしないだろうし」

「!!」

高崎の言葉に顔がカッと熱くなる。
そう、高崎くんと住んでる間は、彼氏なんて作れないんじゃないかっていう心配があったけど……
それにしても、失礼なやつ!
一緒に住むなんて、ありえない。
ちゃんと断って……

「嘘です。そしたら俺、ちゃんと出て行きます。
……それに俺、叶絵さんの料理、もっと食いたいです」



……不覚にも、キュンとしてしまったわたしの負けだと思った。

少しの我慢。
それに、高崎くんの言う通り、しばらく恋愛なんてできそうになかった。
その間は、浮いたお金を貯めつつ、自分磨きの時間と考えよう。

……この前わかった通り、高崎くんはわたしを女としては見てないみたいだし、心配はないはず。

わかった、と言うと、高崎くんは少しだけ嬉しそうな顔をしたように見えた。

「でも、どのくらいでお金貯まりそうなの?そもそもいま、貯金とか……」

「残高、400円とかです」

はい?
聞き間違いかと思ったら、通帳の最後のページだけ見せられた。
ゼロがふたつ。

「……え、高崎くん、働いてるよね?なんでこんなに、お金ないの?」

遅くまで働いて、休日も出勤して……
20代後半の男性だ、それなりに貯えがあってもいいはずなのに、


「……俺、社畜なんで」

高崎くんはそう言って、薄く笑った。


なんとなく、少しだけ。
自分の選択は正しかったのかな、って早くも後悔し始めたり、して。


next……



お久しぶりです!
更新空いてしまって申し訳ございません…!
文章のお仕事ができるように、頑張ってるところです。
書きたいものがいっぱい……!
社畜も頑張って更新します、よろしくお願いします(^^)
2019.11.27 emu
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